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2011年9月の記事

2011/09/28

alan、10年以上ぶりに家族と北京で暮らしはじめる

中国四川省出身の女性歌手alanだが、活動を中国に移すということで、ご承知のように先月2011/08初旬に帰国した。

どうやらこれまでの歌手活動のたくわえをもとに、四川省に住んでいたご両親を北京に呼びよせ、今後は北京で一緒に暮らすようだ。alanの中国マイクロブログ「新浪微博」の一連のツイートでわかった。

alanは下記のようにツイートしている。

爸爸明天就来北京了,终于盼到团聚的日子了,相隔14年没在一起常住,为了这一天的到来我努力了好久好久,从初一到大学毕业,再到东瀛四年多,我离家真的太久太久了、、、当然我也要感谢所有支持我的朋友,你们也像我的家人一样、、同时还要感谢伤害我的人,你们让我变的更坚强更勇敢了!2011/09/28 00:03

「お父さんは明日北京に来ます。ついに待ちに待った家族団らんの日々です。14年も一緒に暮らさず、この日のために私はずっとずっと努力してきました。中学一年生から大学卒業まで、さらに日本で四年あまり、私は実家を本当にとてもとても長い間離れていました、、、当然私は応援してくれる友だちの皆さんに感謝しています、家族のように思っていますよ。同時に私を傷つけた人にも感謝しています。あなたたちは私をより強く勇敢にしてくれましたからね!」

以前にも書いたように、alanはたびたび中国の掲示板サイトや新浪微博で中傷されているので、このツイートの最後の部分で、そういう人たちにひとこと言わずにはいられなかったのだろう。

しかし、この最後のひとことのせいでプチ炎上が起こる。コメントは約360あるが、そのうち一部のやりとりだけを試訳する。

ますます嫌いになった。おまえみたいな彗星はジョリン・ツァイのバカといっしょにどこかに行ってしまえ。地球の2012年を前倒ししないでほしいね。

何を言っているのかというと、alanのツイートの計算が合わないことを突っ込んでいる。中学一年生から大学卒業まで、そして日本で四年余りということは、普通に計算するとalanは今27歳になっているはず。

alanは24歳なので3年早すぎることになり、中国でおなじみの「2012年に彗星が地球に衝突して世界最後の日が来る」というネタを持ちだして、勝手に2012年を早めるな、と言っている。

ジョリン・ツァイ(蔡依林)も中国のネットでよく中傷される女性歌手で、悪意をもって「淋淋」というあだ名で呼ばれる。中国語の原文には「淋淋13」とあるが「13」はスラングで「バカ」の意味だ。

以下、また別のユーザーがあいの手を入れたりする一連のツイートを意訳してみる。

私もこの人ってすごいと思うわ~(訳注:これは皮肉である)
だよね。日本に4年いて17万枚しかCDが売れなくて、ツイッターや新浪微博で何もないのに自分のファンを罵ってるんだから、ほんと、すごいよ~
alan:あなたは人間どうし最低限尊重し合う気持ちをもうなくしてるのね。私を罵るのはいいけど、私の家族(訳注:alanのファンのこと)を罵る資格はないわ!あなた何歳?このバカ、ずっと遠くに行ってしまえ!(訳注:これはalan本人のレス)

alan本人がたまらずレスをしている。ところがまた揚げ足をとられてしまう。

懶懶が新浪微博で僕にレスをくれたぞ~うれしいよ!!すげえうれしい!!!

最初の「懶懶」は本来alanの漢字表記「阿蘭」の「蘭」をとって「蘭蘭」と書くが、ネットでalanを中傷する人たちは、同じ発音で「懶懶」と書く。「なまけ者」の意味だ。

alanのつぶやきに注目ポイント発見。ふつう中学一年生は13歳、その後14年家族といっしょに暮らしていないってことは、今27歳ってことですよね。。ウシシ。私また真相を知ってしまったわ
それが真相だね
おお真相だ
真相
alan:答え:私は今年24歳です。私は4年間でCDを26万枚(中国大陸と香港含む)を売ったことを本当に本当に決して恥ずかしいことだとは思ってません。この4年間は無駄ではなかったと確証してます。とても貴重な経験をすることができたし、それに、私は私のファンを罵ったことなどありません。なぜなら彼らは私を傷つけたことがないからです。言葉の一部だけを取って、事実を曲げないで下さい。私が罵るのはゴミだけです2011/09/28 19:22(訳注:これもalan本人のレス)

この最後のレスでも、alanは最後にひとこと余計なことを書いてしまったようだ。alanを中傷して面白がっているネットユーザたちを「ゴミ」と呼んだ上に、最後にゲロを吐く顔文字まで付けてしまった。

これでまたプチ炎上してしまうわけだが、せっかく北京で10年以上ぶりに家族いっしょに暮らせるようになった初日が、ネットユーザの中傷で台なしになってしまうとは、芸能人の宿命とはいえ、alanも哀れである。

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2011/09/26

日中韓3国コンサート:目に余るエイベックス提灯記事

今朝のスポーツ新聞のエイベックス提灯記事が目に余る。

昨日、北京のオリンピック・メインスタジアム(別名「鳥の巣」)で、中国・日本・韓国を「代表する」歌手が集まってコンサート「三国演芸 中日韓風雲音楽祭」が行われた。

同コンサートに出演したEXILEについて、日刊スポーツとスポーツ報知のネット上の記事は以下のとおり。

(*ちなみにどちらの記事も「三国演芸」を「三国演義」と表記する同じミスをしている。中国語では「芸」も「義」も発音が同じ「yi」で、中国の芸能記事でも間違っているものがあるが、「三国演芸」とは中国古典『三国(志)演義』の「義」をわざと「芸」にしたダジャレである)

『EXILE初海外 北京で4万人を魅了』(2011/09/26 日刊スポーツ)

『EXILEに北京4万人熱狂!中国名「放浪兄弟」で大歓声』(2011/09/26 スポーツ報知)

日本の芸能界に興味のある中国人に聞いてみるといいが、今回のコンサートに出演した日本人歌手、倉木麻衣、EXILE、Happinessのうち、中国で最も人気があるのは倉木麻衣だ。

その理由は、彼女がアニメ『名探偵コナン』のエンディング『Secret Of My Heart』を歌っている他、中国の若者の間でも人気のある『コナン』とのタイアップが多いからだ。

中国の10代、20代の若者にとって日本文化は、極言すれば、アニメかAKB48かのどちらかである。EXILEのような、そもそも日本のサブカルチャーと無縁な「マッチョ・リア充」グループが、中国の若者の間で大人気になるはずがない。

ちなみに中国の代表的なマイクロブログの一つ「新浪微博」に、EXILEは公式アカウントを開設しているが、フォロワーはたったの4万9千人(2011/09/26時点)。

若者人口が日本の10倍いる中国大陸で、芸能人としてこの数字しかないということは、EXILEは中国大陸では、ほぼ無視されているということを意味する。

なお同じ「新浪微博」でフォロワー最多をほこる芸能人は女優のヤオ・チェンで、1,250万人である。EXILEが中国大陸で無視できる存在というのが誇張でないことは、お分かりいただけるだろう。

まして今回のコンサート「三国演芸」の中国側の出演者を見れば、この手の文化外交においても日本が大変な失策をしていることが分かる。

中国側の出演者は、まず、ボーイッシュな若手女性歌手で、大陸では文句なしのトップスターである李宇春。そして、香港の大スターで、真田広之、チャン・ドンゴンとの共演もある男性俳優ニコラス・ツェー。大陸と香港とであえてバランスをとったと考えられる。

そして、日本人にもわかりやすいように、日本メディアに気をつかって、女子十二楽坊を出演させている。

ホスト国として、その他にも数組の歌手を出演させているのは、中国国内向けにメンツを保つ意味でも当然だろう。

こういう性格をもつ場に、Happinessのような、日本でもほとんど知られておらず、単にEXILEの事務所が売り出し中というだけの女性グループをバーターで出演させるなど、日本の文化外交の完全な失策である。

Happinessではなく、AKB48を出演させれば当然ベストなのだが、AKB48は別日程で上海で開催された「上海ジャパンウィーク」ですでにライブを行い、上海のオタクや腐女子の大歓迎をうけている。

上海ジャパンウィークのAKB48ライブのチケットについては、上海外語大学の学生がネット上でダフ屋行為をしたり、偽造チケットが出まわったりといった騒動が起こり、中国国内で報道されるほど、中国でもAKB48人気はすごい。

AKB48のメンバーの数名も、上記の中国マイクロブログ「新浪微博」に公式アカウントを開設しているが、2011/09/26時点のフォロワー数をEXILEと比べてみよう。

EXILE  48,923人
宮澤佐江  122,864人
秋元才加  110,387人
小林香菜  108,769人
梅田彩佳  95,698人
増田有華  84,820人
小嶋陽菜  39,387人
高橋みなみ  37,261人
板野友美  35,926人
渡辺麻友  35,582人
篠田麻里子  33,760人
大島優子  29,636人
前田敦子  27,045人
柏木由紀  24,442人

ちなみにトップメンバーでもフォロワー数が少ないのは、単に更新頻度が低いためである。

もちろん北京のオタクや腐女子の皆さんもAKB48を待ち望んでいたに違いないので、ベストメンバーでなくても、日本政府はHappinessの代わりにAKB48を出演させるべきだった。何ならAKB48の姉妹グループSDN48には、中国大陸出身のチェン・チューもいる。

しかし、この「三国演芸」にはエイベックス首脳部ががっつり噛んでいたので、EXILEとHappinessのバーターには誰も逆らえなかった、というのがおそらく実情だろう。同じエイベックス所属なら、中国四川省出身の女性歌手alanを出演させて、中国側に配慮する方法もあったにもかかわらずだ。

EXILEのバーターでHappinessを押し込むという、中国の観衆の意向を無視したキャスティングをした上に、スポーツ紙に上掲のような提灯記事まで書かせるとは、エイベックス・グループは今回の「三国演芸」を私物化したと言われても反論できないだろう。

エイベックスが先日のSMAP公演で裏方として多大な貢献をしていることを割り引いても、「なぜHappiness」なのかは説明不可能だ。

ちなみに中国メディア側の「三国演芸」コンサートについての記事へのリンクを張っておく。代表的なネットメディアとして、新浪と騰訊の2つの情報サイトのエンタメニュース欄の記事だ。

『中日韓三国歌会謝霆鋒唱経典 SJ愛宮保雞丁(図)』(2011/09/25 23:56 新浪娯楽)

『中日韓演唱会謝霆鋒唱響鳥巣 SJ high翻全場』(2011/09/26 01:03 騰訊娯楽)

いずれも記事のタイトルには、香港の人気男性スター、ニコラス・ツェー(謝霆鋒)の名前と、韓国のSuper Junior(略してSJ)の名前しか登場しない。記事の中でもEXILEは倉木麻衣やHappinessと同じレベルで扱われているだけだ。

Super Juniorの扱いが大きいのは、以前メンバーに中国人であるハン・ギョン(韓庚)がいたからだと思われる。ハン・ギョン(韓庚)はSuper Juniorを脱退した後、中華圏で活躍している。中国マイクロブログ「新浪微博」のフォロワー数は662万人に達する。

上掲の新浪の記事は、文面上は中国、日本、韓国を平等に扱っているが、写真では明らかに差がついている。例えば、EXILEの写真のキャプションに「放浪兄弟」の文字はない。これは意図的なものではなく、単に記者がEXILEの名前を知らず、確認もする気にならなかっただけと思われる。

騰訊の記事にいたっては、記事の文面上も、日本人より韓国人歌手の扱いの方が大きい。

今回の「三国演芸」が、対中国の文化外交としては、日本にとって失敗に終わっていることがよくわかる。そしてその原因の一部は、エイベックス・グループが「井の中の蛙」状態であることにあると思われる。

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2011/09/22

おすすめ40型LEDフルハイビジョン液晶テレビ BRAVIA 40EX720

薄型テレビを買い換えよう思っている方へ、少しでもアドバイスになれば。

ご承知のように薄型テレビは、完全地デジ化直前のかけ込み需要で値上がりした後、今は値崩れを起こしている。ウワサによれば冬モデルが発売された後も、旧モデルがさらに値下がりするらしい。

ただ、冬モデルの発売を待っていると、年末の「お正月くらい新しいテレビで迎えよう」という需要による、旧モデルの在庫切れで、旧モデルを安く買うチャンスを逃すおそれがある。

なので、旧モデルを安く買うなら10月末くらいまでがチャンスではないかと、勝手に想像している。

旧モデルと言っても、40型、フルハイビジョン、LED液晶、外付けHDDによる録画、倍速液晶、これくらいの条件は満たす製品を選びたい。でもできるだけ安くすませたい。

そういうわけで僕が狙いをつけたのは、各社の標準モデルのうち、東芝レグザ 40AS2だった。

価格.com:東芝 REGZA 40AS2

最大の理由は安さ。40型のLEDフルハイビジョン液晶なのに、家電量販店でも5万円台。

しかも、たまたま所有のHDDレコーダーが東芝製品(REGZAの一世代前のVARDIA)で、REGZAリンクで連動させることができる。

チューナーは地上デジタル、BS、CS各1個ずつしか搭載していないが、液晶は倍速で、HDMI入力端子も2つある。2つあればHDDレコーダーからの入力以外にも、もう1つ、パソコンからの入力や、ウチの場合はケーブルテレビのチューナーからの入力などにも使える。

外付けHDD録画はできないが、まあREGZAリンクでHDDレコーダーとある程度連動させられるので、ここは5万円のために多少の妥協はしよう。「価格.com」のユーザーレビューにも、他社の標準モデルに比べて決定的に悪い評価は見当たらない。

そういうわけで、ヨドバシカメラ秋葉原店に出かけたところ、同じようなことを考えている消費者はたくさんいるということで、先週まで在庫があったはずの東芝REGZA 40AS2は、次の入荷が2011/10/02(日)となっているではないか。

そこで思ったのは、これは8万円台のモデルを考え直すチャンスかもしれないということ。

店内を見てまわると、シャープ AQUOSやパナソニックVIERAに8万円台の標準モデルが見つかったが、意外だったのはノーマークだったソニーBRAVIAに7万円台の40型モデルが複数あったこと。

BRAVIA KDL-40EX720、BRAVIA KDL-40EX72S、BRAVIA KDL-40EX52Hの3機種だ。

LEDフルハイビジョン液晶を必須条件にすると、40型ではこの3機種に絞り込める。いずれも店頭で7万7,000円~7万9,000円の範囲内だった。

KDL-40EX52Hのみ録画用500GB HDD内蔵。内蔵チューナーもダブル。外付けHDD録画にも対応。HDMI入力も3つある。

KDL-40EX72Sは録画機能は内蔵せず、内蔵チューナーも1個だけだが、インターネット対応で、YouTubeなどのインターネット動画サイトの動画を見ることができる。外付けHDD録画には対応。HDMI入力は4つで、HDDレコーダー、ケーブルテレビチューナーからの入力を接続しても、まだ2つ余る。

ただ、TVサウンドバーというのが、価格.comのレビューを読むと音質の評価が低いわりに、この機種の外寸の「高さ」を高くする要因になっている。要は外観があまりよろしくない。

KDL-40EX720は録画機能は内蔵せず、内蔵チューナーも1個だけだが、インターネット対応。外付けHDD録画には対応。HDMI入力は4つ。TVサウンドバーのようなギミックはない。

最終的には、HDD内蔵をとるか、インターネット対応をとるかの選択になった。

どちらも外付けHDD録画はできるのだから、どうせならYouTubeをリビングの大画面テレビで見られる方が面白いだろうし、店頭価格はKDL-40EX720の方が少しだけ安かったので、最終的にはHDD内蔵を捨てて、インターネット対応のKDL-40EX720を購入した。

ヨドバシカメラ秋葉原店の店頭価格で77,100円。古い26インチ液晶テレビのリサイクル価格は2,835円。ギリギリ8万円以内に収まった。

即日配送でリビングに設置してみると、今まで使っていた2004年製のVictor26インチ液晶テレビと比べると別世界になった。

まずハイビジョンとフルハイビジョンの違い。それからバックライトがLEDになったため、全体にスリムで端正なシルエット。最も薄い部分が3.0cmというのは、ブラウン管テレビを液晶に買い換えた時ぐらいのインパクトがある。

それから、自宅のPCに接続していた、2007年冬モデルのアイ・オー・データ機器製、外付けHDD「HDCN-U1.0」をUSB接続してみた。もちろんKDL-40EX720の正式なサポート対象機器リストには存在しないが、手順どおりテレビ側から初期化すると、問題なく予約録画できた。

これでテレビ単体で予約録画が完結でき、DVDへ書き出し、パソコンでリッピングしたい場合だけ、東芝のHDDレコーダーを使えばよくなった。

また、インターネット機能は、仕様どおりYouTube動画をキーワード検索して、テレビの大画面で見ることができた。もちろん動画の画質はそれなりだし、キーワード検索の使い精度は悪い。

それでも、YouTube以外にもU-SENなど、他のプロバイダーの動画サービスも見ることができる(当然有償だが)。

また、今までの液晶テレビにはHDMI入力端子がなかったので、映像はD端子、音声はコンポジットケーブルでテレビに入力していたが、それらをHDMI入力にすることで、HDDレコーダーとケーブルテレビから出力されるフルハイビジョンの映像を初めて確認できた。

番組表のレスポンスも、今までの液晶テレビに比べると雲泥の差。チャンネルを替える時、いちいち画面が真っ黒になるのがやや気になるが、よっぽど頻繁にザッピングしない限り致命的ではない。

さらに、BRAVIAのこのモデルは、薄型テレビとしては標準的な10Wスピーカー×2個だけだが、擬似的なサラウンド効果があるので、テレビを見ていて音楽などの部分は、自動的にサラウンドっぽく聞かせてくれる。まあこれはオマケ程度でしかないが。

音声については光出力端子があるので、ホームシアターシステムに接続すれば、本格的なサラウンド音声も楽しめる。おかげでウチにあるYAMAHA TSS-15も、まだまだ現役で使える。

これだけの展開がある40型LED液晶テレビが8万円しないのだから、SONY KDL-40EX720 今が買いだろう。

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台風の帰宅困難者と福島第一原発事故の共通点

昨日(2011/09/21)、台風が二十数年ぶりに首都圏を直撃した。

僕の勤めている会社は、昼休みが終わって早々に退社指示を出してくれたので、電車が動いているうちに無事帰宅できたが、夕方のニュースを見ると、新宿駅や渋谷駅が「帰宅困難者」であふれていた。

2011/03/11の大震災のときに見たのと全く同じ光景だ。

地震は予測できないし、あれだけ大きな地震なら「帰宅困難者」が主要駅に大量にあふれるのも仕方ない。

しかし、今回の台風は、気象庁が朝のうちから「最大級の警戒」を呼びかけ、夕方には東京がもっとも激しい暴風雨圏内に入ることは予想されていた。

にもかかわらず、大震災の教訓をいかさず、社員を定時まで働かせていた企業は、リスク管理能力がないどころか、「単なるバカ」と言われても仕方ない。

また、電車が止まる時間帯まで働いた結果、深夜まで帰宅できなかったことを、翌朝のオフィスで笑いながら語る会社員も、お気楽バカとしか言いようがない。

このように、本来さまざまなビジネス上のリスク、たとえば取引先の倒産や、特許関連の係争、輸出製品の管理、PR・IR上の風評被害などなどに敏感なはずの会社員でさえ、ほとんどの人が、今回の台風のような災害リスクについて、自分自身についてのリスク管理能力はゼロなのだ。

というより、地震や台風のような大きな災害に対して、事前にあれこれリスクを考慮するよりも、対策をあきらめて流れにまかせるというのが、日本的な発想なのかもしれない。もちろん、こんなものは「リスク管理」と呼べない。

そういう人々に、たとえば福島第一原発事故の20年後の影響を考えて、現時点の原発政策を考えろと言っても、無理な話だ。

また、少子高齢化の進行と社会保障や教育コストの長期的な増加を考えて、現時点で住宅は買うのがいいか借りるのがいいかを考えろと言うのも無理だろう。

これらリスク管理能力の欠如の背景にあるのは、現時点の日本社会の中枢にいる人々が、リスクを考えず、ひたすら前進するだけでよかった、経済成長期の成功体験をいまだに判断基準にしていることだろう。

そしてふつうの国民は、そういう人々に災害もふくめたリスク管理を「おまかせ」して、思考停止におちいっている。「まあ何とかなるだろう」といった感じだ。

そういった日ごろの思考停止は、昨日のような自然災害のとき、主要駅にあふれかえる「帰宅困難者」というかたちで明らかになる。

日本中で原発の運転にかかわっている電力会社の社員のリスク管理能力も、台風が直撃しているのに定時まで仕事をして、駅についてから「電車が止まっている」とあわてふためく会社員と、それほど違わないだろう。

つまり、原発のような、事前に予測不能・計算不能なリスクをかかえている設備を、永続的に運用するには、日本のふつうの会社員のリスク管理能力は、まったくあてにならないと考えたほうがいい。

ある社会の構成員のリスク管理能力が低いことは、その社会にとって最大のリスクである。これは個々の企業にもあてはまる。

ここまで来ると、日本の社会で、日本人どうしが、お互いのリスク管理能力をどのくらいと見積もっていて、どれくらい信頼し合っているかという、「リスク管理能力についてのリスク管理能力」の問題になる。

日本人のリスク管理能力の低さについて、大して危機感をもたない人たち、つまり、ニュースで新宿駅にあふれかえる「帰宅困難者」を見ても危機感をもたない人たちは、「リスク管理能力についてのリスク管理能力」が欠如していることになる。

自分の生活している社会が、実はリスク管理能力が低いことについて、事前に危機感をもってリスク管理ができない人たちは、自分の身近なことについて適切なリスク管理をできるはずがない。

たとえば、「原発を運転している人たちは、きちんとリスク管理をしているだろうから、日本の原発は大きな事故を起こさない」という根拠のない盲信は、社会のリスク管理能力の欠如についてのリスク管理能力の欠如の一例だ。

なぜこうなってしまうのかと言えば、そもそも自分自身が、台風が首都圏を直撃した程度のことで「帰宅困難者」になってしまうくらい、自分のリスク管理能力が低いからである。

昨日の台風で主要駅にあふれかえる「帰宅困難者」と、「人災」としての福島第一原発事故は、一見無関係のように思えるが、実はどちらも、自分の住んでいる社会のリスク管理能力の欠如について、僕らのリスク管理能力が欠如していることの証拠なのだ。

(なお、僕がいま勤めている会社は、当たり前のリスク管理能力があるということになる)

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2011/09/20

日経ビジネスのトンデモ記事『「うつ病の血液診断」の光と陰』

少し前、血液検査でうつ病を診断できる技術が実用化されるかもしれない、というニュースがあった。これについて日経ビジネスの記者が、とんでもない「片手落ち」の記事を書いているので、批判してみたい。

『「うつ病の血液診断」の光と陰~会社の健康診断に「うつ病」の項目が入ったら』 (2011/09/16 日経ビジネスオンライン)

もともとの研究結果は下記の場所にある(英文)。

DNA Methylation Profiles of the Brain-Derived Neurotrophic Factor (BDNF) Gene as a Potent Diagnostic Biomarker in Major Depression

タイトルだけ見ても分かるように、研究対象になったのは「大うつ(major depression)」患者だけである。

では「大うつ(major depression)」とは何かというと、どのような診断基準を使うのかで違ってくる。また治療現場においては、同じ「major depression」でも治療方法が違ってくる。

その治療方法の違いは、「major depression」が客観的に定義できたとしても、医者の治療方針によっても違ってくるし、医者の付き合っている医薬品メーカーの営業担当によっても違ってくるし、誰の下で精神医学を学んだかでも違ってくるだろう。

上記の日経ビジネスオンラインの記事の日野なおみという記者は、くだんの血液診断が「major depression」についてのみ実証された点を理解していない。

例えば日野なおみ記者は次のように書いている。

「うつ症状があったとしても、それが本当にうつ病なのか、それとも『双極性障害(いわゆる、躁うつ病)』のうつ状態なのか。高齢者の場合にはうつ病と認知症の初期症状の見極めも難しいという。

取材をした医師も『丁寧なカウンセリングや長時間の経過観察なくしては、正しい診断が下せないケースも多い』と説明する。こうした場合に、客観的なデータがあれば、医師の診断精度を高めたり、適切な治療を受けたりする助けになるだろう。」

この部分の後半の記述は、ほぼデタラメである。

先日の報道にあった広島大学の研究は、すでに「大うつ」の診断を受けた未治療の患者20名と、健康な18名を対象としている。「大うつ」患者と健康な人を区別するのに、DNAのメチル化が指標として使える可能性がある、ということだけを言っている。

つまり「大うつ」以外の精神疾患と健康な人を区別するためには、依然として従来の診断に頼らざるをえない。

くだんの血液検査は、「大うつ」の可能性が高い人だけを選り分ける程度にしか役に立たず、その他の精神疾患の患者の客観的指標にはならない、ということを意味する。

したがって、この血液検査が臨床で使えるようになっても、「客観的なデータ」になるのは「大うつ」の場合だけなのだ。

「大うつ」以外の精神疾患の場合、依然として従来どおりの診断が必要なので、「医師の診断精度を高めたり、適切な治療を受けたりする助けに」ならない。

企業における精神疾患のコストを考えれば、「大うつ」だろうが、その他の精神疾患だろうが、業務の妨げになり、何らかの対応コストが必要な点では変わらない。

さまざまな精神疾患の中で、「大うつ」だけを「客観的」に選別できるようになっても、企業における精神衛生コスト削減のメリットはない。

ところで、この記事の致命的な問題は、実はこの点にはない。

致命的な問題は、この血液検査の結果「正常」となったために、本人が不調をうったえているのに、医者にかかるのを企業側が妨げる「デメリット」を無視している点である。

日野なおみ記者は、本人が医者に行きたがらない場合については、たしかにこの記事でふれている。そしてそれを、この血液検査の「メリット」と呼んでいる。

またその「メリット」が、企業に内定が決まった学生の場合には、内定取消などの不利益をこうむる「デメリット」になるかもしれないという点にもふれている。

ここまではいい。

ところが、たとえば精神的な不調をうったえて会社に相談したとき、この血液検査で「正常」という結果が出たために、休職もできず、労災申請しても認定が受けられないという「デメリット」がある点を、完全に見落としているのだ。

むしろ企業側としては、このような血液検査が存在すれば、従業員が精神疾患をうったえて来たとき、「仮病だ!」と反論する証拠に使う方が、コスト面でメリットがあるのではないか。

ただでさえ、「新型うつ」など、企業側からすると本人の単なる「わがまま」としか思えない気分障害や適応障害などの精神疾患が増えている。

そういった精神疾患に対して、この血液検査を行って「正常」という結果を出せば、企業側は堂々と休職や治療を拒否することができるようになる。

日野なおみ記者の言うような、周りが見て明らかにうつ病っぽいのに、病院に行きたがらない人間を説得できる「メリット」よりも、精神疾患かもしれない従業員を「仮病」扱いして働かせつづける結果の「デメリット」(慢性化や自殺)の方が、明らかに大きい。

なぜなら、「大うつ」の患者数より、その他の精神疾患にかかる患者数の方が、圧倒的に多いからだ。

日野なおみ記者は、この血液検査が「魔女狩り」の道具になることばかり心配しているが、むしろ「魔女否定」の道具になる危険こそ、問題視すべきなのである。

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SMAP北京公演は中国の若者文化の多様性を見落としている

先日(2011/09/16)行われたSMAP北京公演だが、工人体育館の収容人数の約半分に座席を制限して、その状態でほぼ満席の約4万人を動員し、1階席の多くは日本人、2階席は中国人で満杯だったらしい。

どうやら中国国内でも、このSMAP公演については評価が分かれるようだが、J-POPや日本のアニメが好きな層には好意的に受け入れられたようだ。

個人的に中国ツイッター(新浪微博)の中国人ネット友だち(多くは20代)に質問してみたのだが、ほとんどが木村拓哉の名前は知っているが、彼がSMAPのメンバーだということを最近まで知らなかったと答えたことに驚いた。

木村拓哉が出演する日本のテレビドラマは、彼らが小学生の頃、中国大陸のテレビでよく放送されており、木村拓哉の知名度は中国の若者の間では非常に高いようだ。

しかし、それ以外のSMAPメンバーとなると、かなりあやしくなる。草彅剛は、彼が出演していたテレビCMのセリフから「一本満足くん」というあだ名で知られているのも、今回初めて知った。香取慎吾も中国が原作の『西遊記』に出演していたので、一定の知名度はあるようだ。

しかし、リーダーの中居正広や稲垣吾郎の知名度は非常に低いと思われる。SMAPのリーダーが中居正広だということを知っている中国人は、SMAP全員をグループとして応援しているファンだけだと思われる。

中国の20代の若者の間で、日本の歌手で最も知名度が高いのは、たぶん浜崎あゆみではないか、というのが僕の個人的アンケート結果から得た結論だ。

木村拓哉は歌手というよりも、俳優であり歌手であるマルチタレント的な位置づけと思われる。純粋に歌手としての人気や知名度で言えば、浜崎あゆみが圧倒的のようである。

在中国日本大使の丹羽氏は、何ならSMAPに中国の全省をまわってコンサートをして欲しいと漏らすほど、政府間レベルで悪化した日中関係を、民間レベルで改善するために、SMAP公演に期待していたようだ。

しかし、ここにも世代間のギャップがあったのではないか。日本人なら丹羽氏のような高齢者(1939年生まれ)でもSMAPの名前くらいは知っているだろう。なので日本を代表する歌手としてSMAPを中国へ派遣するのは適切だと考えているのだろう。

ただ、日本の若者文化は、高度経済成長期のように、全員が同じ国民的歌手を応援する「一枚岩」的な文化から、趣味嗜好が細分化した無数のサブカルチャーに分裂している。

中国の80年代以降生まれの若者の文化は、建前のレベルではおおっぴらに政府に文句を言えないため、「一枚岩」であるかのように見えるが、中国ツイッターや各種掲示板をのぞいてみると、日本と同じようにすでに無数のサブカルシャーに細分化していることがわかる。

先日、『TIGER&BUNNY』という人気アニメの最終回が放送された。たぶん日本人であっても、このアニメの内容までご存知の方は非常に少ないと思う。

ところが、驚くべきことに中国ツイッターの「新浪微博」では、テレビと同時にUSTREAMで放送された最終回を、中国のネット規制をくぐりぬけてネットで視聴しながら、リアルタイムで感想をつぶやいているユーザーがいたのだ。

(ちなみにこのユーザー→「鏑木-T-八尼」。なお「BUNNY」を中国語で書くと「八尼」となる)

しかもそのユーザーは、このアニメの主人公である2人の男性について、いわゆる「ボーイズラブ」といわれる同性愛の設定を勝手に仕立てたパロディ漫画まで、ネット経由で日本から入手して「新浪微博」に画像を貼りつけていた。

中国の、たぶん比較的裕福な中間層と思われる若者の趣味嗜好は、すでにここまで細分化している。

そういった中国の若者に対して、日本を代表する歌手をSMAP一つに絞り込み、何なら中国全土を巡回公演してほしいというふうに期待をかけるのが、いかに時代錯誤か、ということがお分かり頂けると思う。

中国大陸におけるインターネットの普及によって、日本の平均的な(?)若者と、中国の平均的な(?)若者の間の、国による文化の違いよりも、日本と中国の中高年と、日本と中国の若者の間の、世代による文化の違いの方が、より大きくなっていると言えないだろうか。

本来、今回のSMAP公演は、政府レベルで悪化した日中関係を、民間レベルで改善するためだったはずだが、両国要人の思惑がからむことで、かえって「政治ショー」になってしまった気がする。

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2011/09/16

SMAP北京公演は日中民間交流に役立つか?

今晩(2011/09/16)SMAPの北京公演が行われるが、中国の2大マイクロブログを見る限り、ごく普通の中国ネットユーザからは、ほぼ無視されていると言ってもいい。

僕は個人的に騰訊微博より新浪微博を使っているが、SMAPという単語をふくむツイートで、最もコメントが多く、かつ、最もリツイートが多いのは、「日本潮流最前線」という日本の最新情報をつぶやく一般アカウントだ。

しかもコメントは500弱しか付いていないし、リツイートは2800ほど。新浪微博全体のユーザ数からすると、日本のメディアが騒いでいるわりには、微々たる注目度だ。

その他、SMAPの北京公演についてツイートしているのは、新華社の日本チャンネルという、いわゆる「官製」メディア。

たとえば「日本潮流最前線」が2011/09/15に人民大会堂でSMAPと前国務委員の唐氏が会見した様子を伝えるツイートに対して、上述のように500弱のコメントが付いているが、その内容をざっと見てみると、以下のように冷淡なものが多い。

まずツイートの内容を日本語訳しておく。

「今日、前国務委員の唐氏が人民大会堂でSMAPのメンバーと会見を行った時、「SMAPの北京公演は中日交流の歴史上重要な意義を持っている。北京公演は成功すると確信している」と述べた。明日、SMAP北京公演は工人体育館で行われ、4万人の入場者が見込まれる」

次にコメントの中から、あえて冷淡なものばかりを日本語訳してみる。

「中国のリーダーってどこへ行っても違和感満点」

「木村は政界入り!ほんと!」

「クソ反日たちは、きっとがっくりきてるだろうな」

「コンサートとなると、いちいち政治的色彩を帯びるとは、全く」

「温家宝も会見したらしいね~」

「木村は日本の総理になってもいいんじゃない」

「ただひとこと。。。うっ。。。」

「どうしてこんなに妙な雰囲気なんだ」

「2002年にGLAYが江沢民と会見したコンサートをまだ覚えてるけど、SMAPよりずっとすごかった」

「びみょー」

「どう言ったらいいか、びみょー」

「政治的な任務でもあるの?」

「これ、最近じゃ政治家も追っかけするの???」

「やっぱりヘンな雰囲気だ」

「政治の、道具」

「このコンサートってなぜ政務みたいに見えるの。なぜ上海でもやらないの?」

「SMAPも厳かに政治のコマになったか~」

「どういう意義があるの?」

「こんな政治っぽいのって」

「ツッコミを入れる気もしない」

「ほんとに違和感あるな~」

「そもそもSMAPの今回のコンサートにこんな意義があるなんて知らなかった。。。P.S.木村がいなかったら4万人も見に来たか。。」

「工人体育館って10万人の会場じゃなかったっけ?」

「木村だけが世界で1つだけの花~この写真を見た感想です」

「この違和感はいったい何なんだ」

「コンサートなのに、なんでこんなに政治的雰囲気が濃厚なの~!」

「もともと上海公演だったんでしょ。。。何で北京に行って成功するの??」

「4万人って実際ぜんぜん多くないね。中国でコンサートをすれば、ジャニーズのどのグループでも4万人なんてすぐ超えちゃうよ」

「おじさんの集団」

「政治!政治!!」

「コンサートするだけなのに政治リーダーの接見なんていらないし、あんなたくさん関係者席もいらないし、司会もいらないし、特別ゲストもいらないし、リン・チーリンもいらないし、観衆はただ単純にコンサートを見たいだけなの。あんなたくさん中国っぽい儀式はいらないの」

「だめでしょ、こんな政治っぽくなっちゃ」

以上のようなコメントがついている。もちろん普通に「見に行きたい!」というコメントもたくさんある。

しかし、くり返しになるが、最もコメントの多いツイートでさえ500弱しかコメントがないというのは、中国マイクロブログ人口を考えると、ほぼ無視できる数だ。

日本国内の報道や、中国政府の報道の熱心さに比べて、いかにご当地のふつうの中国の若者たちがSMAPの北京公演について無関心であるかが、お分かり頂けると思う。

つまり、今回のSMAP北京公演が、中国と日本の民間レベルの関係改善に貢献するなどというのは、両国の政治家たちの幻想にすぎないということだ。

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2011/09/15

水樹奈々の自伝エッセー『深愛』を読んだ

水樹奈々著『深愛』(幻冬舎)を読んだ。今年のはじめ(2011/01/21)に発売された彼女の自伝エッセーだ。

自伝の部分を通読して分かるのは、父親にとびきり厳しく育てられた娘は、真面目で、自罰的で、自分の父親を理想の恋愛対象と考えるファザコン女性に育つという典型例だということ。

そうして育てられた娘にとって、異性は肉体もつ生身の人間というより、理念的な存在になるので、恋愛感情と身体的な関係はまったく別のものとして認識される。

したがって、彼女の最初の身体的な体験が、中学を卒業してすぐ親元を離れ、生活し始めた東京の満員電車での痴漢だったことから、身体的な接触が不愉快な感情としか結びつかなくなったのも無理はない。

その後、事務所の社長であり「先生」である男性の家に住み込みながら、演歌歌手になるべくレッスンを受けているときに、日常的にセクハラを受けても、自罰的に反応すること、つまり「無感情」という反応しかできなくなるのも、仕方のないことだ。

そしてその事務所との契約を何とか打ち切って、キングレコードの現在のプロデューサの下で活動を始めたとき、そのプロデューサが彼女の「売り」を、1980年代アイドル以上の不可侵な処女性とするのも、性的なものに対する彼女の自罰的「無反応」という時期があったからこそだろう。

水樹奈々が30歳を過ぎてもフリフリの衣装で歌い続けることができるのは、いまだに彼女にとって最も理想的な男性が、すでに亡くなった父親であり、その恋愛感情と全く無関係なところに、身体的な性愛の関係が未発達のまま残されている「ように見える」からだ。

これくらいアニメファンにとって理想的な声優であり、歌手はいないように思う。

いわゆる非リア充の(=実生活が充実していない)男性にとって、理念的な恋愛と身体的な恋愛を、ひとまず分離して向き合える「処女性」のあるアイドルは理想的だ。

また、非リア充の女性にとっても、不愉快な部分を拭い去れない身体的な恋愛を、理念的な恋愛と分離している「処女性」のあるアイドルは、感情移入しやすい。

もちろん実生活が充実し、恋愛感情と肉体関係が何の違和感もなく一致しているリア充な人たちから見れば、30歳を過ぎてフリフリの衣装で、舞台を駆けまわりながら歌う水樹奈々は、浜崎あゆみや倖田來未と比べると、ただ単に「キモい」。

水樹奈々の棲むサブカルチャーで非リア充な社会と、そうでないメインカルチャーのリア充な社会に、少なくとも僕が知っている限りの日本の社会が大きく分断されていることには違いない。

ただ、今まではたしかにメインカルチャーは文句なくメインカルチャーたり得たけれど、実際にはメインカルチャーを支えていた経済的中間層の共通の価値観のようなものは、すでに崩壊している。

エイベックス的歌姫とそのファンたちの形成する社会も、いまや一つのサブカルチャーに過ぎない。エイベックスという会社も、浜崎あゆみも倖田來未も、まだそのことを理解していないけれども。

その点、水樹奈々が今でも「演歌歌手になる」というデビューの出発点にあった動機付けを捨てていないことは象徴的だ。つまり演歌歌手とそのファンが形成する社会もまた、サブカルチャー化しているのである。それは同性愛者の氷川きよしがオバサンのアイドルに祭り上げられていることからも分かる。

以上のような意味で、水樹奈々の『深愛』という自伝エッセーは、それほど意外性のある内容ではなく、「なるほどやっぱりそうか」と、いちいち納得させられる事だけが書いてある。

むしろこの納得性というか、普段から見ている水樹奈々のイメージとの一貫性こそが、今の水樹奈々の地位をもたらしていると言える。

彼女が本書の中で、セクハラやいじめ体験を告白していることを、売名行為だと非難する人がいるようだが、「売名行為をしないアイドル」というのは言葉の矛盾だ。

一貫性のあるイメージに沿って、私生活を切り売りすることも、アイドルにとっては芸能活動の一部なのであって、本書を「売名行為」だとか、「悲劇のヒロインぶっている」とか、「下積み時代の話で同情を誘おうとしている」などと非難する人は、魚屋にアジが売っていることに文句をつけているのと同じで、まったく無意味なことをしている。

もし水樹奈々がこのまま、今は亡き父を理想化しつづければ、もしかすると小森まなみのように50歳を過ぎ、声帯に限界が来るまで、フリフリの衣装で舞台に立ち、声優をし続けられるかもしれない。

それは、平々凡々たる生活を送っている人間には望むべくもない、何て素晴らしい人生だろうか。

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2011/09/14

au HTC EVO WiMAXについていろいろ

この一年でHTC製のスマートフォンを3台も買い換えている。

HTC製の何がいいかと言えば、日本製フィーチャーフォンにある、ワンセグやおサイフケータイなどの余計な機能が一切なく、メーカー独自の余計なユーザインタフェースが「HTC Sense」だけなので、これさえ無視すれば限りなく素のAndroidに近くなるからだ。

先日のITMediaの記事にあった、J.D.Powerの調査による米顧客満足度調査でも、意外にHTC製スマートフォンは、Appleに次ぐ2位で、しかも3位のサムスン電子を大きく引き離していた。

『スマートフォンの米顧客満足度調査、Appleが6期連続で首位、2位はHTC』(2011/09/12 ITMedia)

僕が買い換えたのは、ソフトバンクモバイルのHTC Desire II ⇒ HTC Desire HD ⇒ au KDDIのHTC EVOの順だ。

価格.com HTC EVO WiMAX ISW11 HT

今考えると、HTC Desire HDに買い換えたのは余計で、すぐにHTC EVOに買い換えれば良かったと思う。

HTC Desire HDからHTC EVOに買い換えたおかげで、Android OSのバージョンが2.3から2.2に戻ってしまった。

それでもauの電波状況が、どこへ行ってもソフトバンクモバイルより良いことと、ご承知のようにHTC EVOはWiMAXも使えて、WiFiルータになる(テザリング機能内蔵である)点が大きい。

NTTドコモのGalaxy SC-02CもWiFiルータになるが、WiFiルータとして利用する時のパケット料金が、「パソコンなどの外部機器を接続したパケット通信」と見なされ、パケット定額の上限が10,395円まで跳ね上がってしまう。

一方auのHTC EVOは、WiFiルータにした場合でもパケット定額に対する上乗せは1円もない。なので、テザリング機能を使うなら、NTTドコモのGalaxy SC-02Cの選択はありえない。

HTC EVOも今月(2011/09)末にはAndroid 2.3へのアップデートが提供されるというので、いくらか使い勝手はよくなるだろう。auがパケット定額を廃止しない限り、しばらくはHTC EVOでいけそうな感じがする。

ちなみにHTC EVOはSIMカード内蔵型なので、SIMカードを差し替えて使うということはそもそも不可能である。

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2011/09/11

『人間と環境への低レベル放射能の脅威』を読んだ

ラルフ・グロイブ、アーネスト・スターングラス著、肥田舜太郎・竹野内真理訳『人間と環境への低レベル放射線の脅威~福島原発放射能汚染を考えるために』(あけび書房)を読んだ。

この本のレビューをするのはとても難しいが、お子様のいらっしゃる方は、とりあえず「必読」としておすすめしておく。

まず肥田舜太郎氏が本書の日本語訳に着手したのは、東日本大震災による福島第一原発事故が起こる数年前だった。

もし、福島第一原発事故がなければ、たぶん本書は原子力についての「トンデモ本」あつかいされ、完全に黙殺されていたに違いない。

福島第一原発事故が起こった後の現在でも、原著者のアーネスト・スターングラス氏や、本書の原題である「ペトカウ効果」について、放射線医学や原子物理学の専門家の評価は、かなり低いようだ。

つまり、反原発ありきで、科学的な議論がゆがめられていると。

たしかに本書には、あらゆる社会問題、環境問題の背景に、原発から放出されつづける低レベルの放射性物質があるとする、一種の極論にあえて踏み込んでいる。

たとえば、米国の1950~1960年代の大気圏内核実験による放射性降下物が、当時の若者の精神発達障害の発症率を高め、結果として犯罪発生率を増加させているという指摘(p.213~)。

エイズの増加が、1960年代以降の先進諸国で原発が次々建設されたことによる、低線量放射線の拡散と、その内部被ばくによって、人体内の活性酸素が増加してきていることと関係があるという指摘(p.263~)。

ここまで書かれると、正直「本当か?」と疑いたくなる。

しかし、これからの日本は、チェルノブイリ事故よりはるかに大きな規模で、食物による低線量の内部被ばくの疫学調査の「実験台」になることには違いない。

広島・長崎の被ばく者の疫学調査は、実は1950年までの5年間、調査がされていないという点で、大きな欠落がある。

また、現代と違って、広島・長崎の原爆による被ばく者が、終戦当時、誰も満足な治療を受けられなかったという特殊要因がある。

つまり、誰でも一定レベルの医療を受けられる先進国で、これほど大規模な放射性物質の拡散が起こり、それがさまざまな経路で、国民の体内にとりこまれていく、というのは、人類が初めて経験する未曾有の事態なのだ。

僕らはそうした未曾有の事態に直面しているわけだが、そういうときに、今まで「トンデモ学説」に近いあつかいを受けてきた「ペトカウ効果」と、そこから予測されるさまざまな健康被害のリスクを、知らないままでいられるだろうか。

少なくとも日本政府が内部被ばくの健康リスクについて、食物の放射線量の暫定基準値としている値が、チェルノブイリ基準からしても、明らかにゆるすぎることは確かだ。

また、外部被ばくについても、日本政府が基準としているICRPの基準は、原子力発電所の費用対効果を正当化するために、込み入った計算によって、少しずつゆるめられてきた事実がある。

ICRPの基準値がいかにあてにならないかは、本書のいたるところでふれられている。

だとすれば、福島第一原発事故処理が今もつづいている日本で、考えられるさまざまなシナリオのうちの「最悪のシナリオ」として、「ペトカウ効果」とそれによる健康被害の「仮説」を、われわれ日本人は、少なくとも知識として知っておく必要はあるのではないか。

一方で、「プルトニウムは飲んでも安全です」という極論をいう学者までいたくらいなのだから、バランスをとるためにも、それよりは十二分に信頼できる、低レベル内部被ばくによる健康被害の仮説について、少なくとも理解しておく必要はあるだろう。

その結果として、たとえば実際に下記のブログのような、実際の行動に出るという選択肢もあるし、心配無用と今までどおりの食生活を送るという選択肢もあるだろう。

『動けば変わる!お住まいの市町村に、給食の放射能測定器を入れてもらおう☆』(2011/09/04 17:26:57 ブログ「バンビの独り言」)

その選択のどちらが適切だったか、結果がわかるのは、10年ほどたってからのことになるのだが...。

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2011/09/09

日経ITProのトンデモ記事:大震災に乗じて私物解禁宣言!?

日経ITProのサイトで、企業の情報セキュリティ管理について、吉田洋平という記者の書いた意味不明の連載が掲載されている。紙の『日経コンピュータ』誌2011/06/23号に掲載された記事の転載のようだが。

『スマホ・PCの私物解禁!』吉田洋平

タイトルの通り、社員の私物スマートフォンやPCの業務利用を解禁する企業が出始めているということだ。

そもそも論になるが、いったい企業の情報セキュリティ管理とは何のためにあるのだろうか?

情報セキュリティの標準が、英国標準のBS7799だった時代から「CIA」の三文字がキーワードになっている。機密性(Confidentiality)、一貫性(正確性 Integrity)、可用性(Availability)の3点だ。

これら3つの概念はすべて、情報を扱う主体に、内側と外側のはっきりした境界線を持っていることが大前提になっている。

機密性がいちばんわかりやすい。機密性とは、「この情報はある組織の外部に、これこれの条件を満たさない限り公開していはいけない」という意味だ。

この機密性が意味を持つためには、その組織の成員や資産について、どこまでがその組織の「内側」であるかの境界線をはっきり引ける必要がある。

一貫性(正確性)も同じだ。「この情報はある組織の内部で、所定の手続きとルールを守って処理される限り、つねに正確な結果になる」というのが一貫性の意味だ。

これも、誰がどんな道具を使ってその情報を処理してよいか、という組織内と組織外の要員や資産の線引きがはっきりしている場合に限って、保証できる。

可用性も同じである。たとえばある企業の会計システムの可用性は、その企業の内部で行われる会計業務の全業務時間のうち、何パーセントの時間、正常に使えるかで決まる。

これも組織内と組織外の要員や資産の線引きが明確でないと、そもそも可用性の数字そのものがナンセンスになる。

首記の記事に登場する事例を一つひとつ検討してみよう。

まず携帯電話向けソーシャルゲーム大手のDeNAの事例。「独自のセキュリティ対策」として「ITベンダーと共同開発したID管理やログ管理サービスを経由して、クラウドサービスにログインする仕組みを作った」とある。

この自称「セキュリティ対策」によって低減できるリスクは、DeNA関係者でない第三者が同社内のクラウドサービスを利用するリスクだけである。

DeNA社員が悪意または不注意で、社内の情報を漏えいするリスクに対しては、せいぜい牽制効果しかなく、実質的に漏えいを防ぐ対策になっていない。

例えばDeNA社員が私物のスマホを自宅のPCにUSB接続して、あらかじめスマホ内にダウンロードしておいた社内の機密情報を自宅PCにコピーするという事態を、どうやって防ぐのだろうか。

DeNAのオンラインゲームに個人情報を登録している皆さんは、注意した方がいい。

アジア航測やヒビノの事例は、情報セキュリティがほぼ全く考慮されておらず、単なる「なしくずし」なので、論外と言っていい。会社がスマホを貸与する目先のコストを削減したいがために、情報セキュリティをなしくずし的に無視しているだけのことだ。

次のKDDI、コニカミノルタ、明豊ファシリティワークスの事例は、私物のPCをシンクライアント化し、私物PC側にデータを残させない仕組みを構築している点で、情報セキュリティが十分考慮されていると言える。

逆に言えば、私物を業務に使わせるなら、ここまでのシステムを構築しなければ、単に目先のコスト削減のために、情報セキュリティをなし崩しにしているだけと批判されても仕方ないということだ。

同連載の次の章、『「一石五鳥」の現実策、容認は2割』も、論旨がムチャクチャである。

情報セキュリティから「タテマエ」を取ったら、いったい何が残るのか?

確かに「想定外の震災」のような特殊なケースでは、情報セキュリティのルールを期間限定で見直す必要はあるだろう。

しかし、「想定外の震災」以外のケースも含む、すべての事業継続計画において、初めから情報セキュリティを単なる「タテマエ」だとして排除するなら、そもそも情報セキュリティに取り組む意味はゼロになる。

なぜなら、情報セキュリティ管理とは、「万一」の情報漏えい、データ改ざん、システム停止に備えるための管理である。

であるのに、この連載の筆者の吉田洋平氏のように「万一の場合には、情報セキュリティなどといった『タテマエ』を言っている状況ではない」と言い切ってしまうと、企業のあらゆるリスク管理が「タテマエ」であり、無意味になる。

そんな基本的な理屈も分からない記者が、「今夏の電力危機を乗り切る、それを機に新しい働き方に変える方策として、『私物解禁』を今こそ決断しよう」などと、情報セキュリティに関する無責任なアジテーションなど書くなと言いたい。

次の章、『安心・安全に「私物スマホ」を使わせるには』にも、ムチャクチャなことが書いてある。

私物のタブレットやスマホを業務に使わせる前提として、「セキュリティ強化」のために、「端末の設定変更」「リモートロック/ワイプサービスの導入」「MDM(モバイルデバイス管理)ツールの導入」の3点が必要だと書いてある。

「会社の情報はもちろんのこと、従業員個人のメールや写真といったプライバシーも守れることを啓発して、従業員に協力してもらおう」などと書いてある。

では従業員がスマホを紛失したとき、会社側が「リモートワイプを実行してスマホ内のデータを全消去しますよ」と言ったとき、従業員が「個人データまで削除されるのはイヤです」と言って拒否したらどうするのか。

この吉田洋平という記者は、個人データとして、家族の写真といった重要性の低いものしか想定していないらしいが、たまたまスマホを紛失したときに、その従業員が個人的に巻き込まれている民事訴訟にかかわる重要な書類がスマホに入っていたら、会社側はムダな訴訟リスクをかかえることになる。

この連載全体が、一方では大震災という巨大なリスクが現実になったことに対応する「私物解禁」を論じながら、他方ではそういった小さな訴訟リスクを完全に無視するという、恥ずかしいくらい基本的な論理矛盾をおこしているのだ。

日経ITProには、日経ビジネスオンラインよりも高い確率で、この種の「トンデモ記事」が掲載されるが、僕は個人的に、企業で実務を担当する方々のほうが、吉田洋平のような記者よりもはるかに賢明であり、こんなバカげた連載は鼻で笑って読み飛ばすだろうと確信している。

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2011/09/06

岡村靖幸、覚せい剤所持3回逮捕でも復帰できる理不尽

AKB48、NMB48について『AKB、NMBから謹慎続出 人数多すぎて管理不能状態』(2011/09/06 J-CASTニュース)といった報道があるようだ。

「過去のブログでは、未成年なのに飲酒を匂わせる内容が記載されていた」などが、「謹慎」というより実質的には事務所サイドによる処分の原因らしい。

そういえば、2006年には、元モーニング娘。の加護亜依が未成年なのに喫煙していたことから、やはり謹慎になっていた。(ウィキペディア参照)

後藤真希の弟の後藤祐樹は、2002年、未成年でキャバクラに滞在しているところを写真週刊誌に撮影され、芸能界から追放された。(ウィキペディア参照)

元ドリカムの西川隆宏が、2002年に暴行事件を起こし、そのとき拘留中に尿検査で覚せい剤反応が出たことから再逮捕され、やはり芸能界から追放された。(ウィキペディア参照)

なぜこんな下らない事件簿を列挙しているかというと、岡村靖幸が3回も覚せい剤所持で逮捕され、最終的には実刑判決まで受けているのに、なぜそのたびに何の問題もなく芸能界に戻ってくることができているのか、ということだ。

芸能界が、常識的な社会人の感覚が通じる世界ではないことはわかるが、そういう世界ならそういう世界なりに、一貫性のある組織の「論理」みたいなものはないのだろうか。

アイドルが明らかに一段下の扱いを受けているのなら、ドリカムの西川隆宏氏のその後の日陰の人生と、残った2人のメンバーで存続しているドリカムの華々しい活躍の対比を見れば、岡村靖幸がふつうに考えて、異常な優遇をうけていることは誰にも否定できないだろう。

例えば、「覚せい剤やめますか?それとも人間やめますか?」といった標語は、岡村靖幸の3度の復帰という現実の前にすると、若者たちに対して説得力もクソもあったものではない。

岡村靖幸の関係者は、才能が豊かなだけに彼が社会に与える影響の大きさと、彼の社会的責任について、まともに考える能力を持っているとは思えない。

個人的には、岡村靖幸のバックに、誰も逆らえない特定の組織が存在すると疑わざるをえない。

それに比べると、「たかが」未成年の喫煙や飲酒で芸能界を追われた若いタレントたちが、哀れでしかたないのだ。

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2011/09/05

藤井誠二著『殺された側の論理』を読んだ

藤井誠二著『殺された側の論理』を読んだ。

文庫化されるということで藤井誠二さんご自身がツイッターで宣伝されておられたので、アマゾンで単行本の古書を入手して読んでみた。以下「犯罪被害者」は「犯罪被害者とその遺族」の意味とする。

通読してみて、国家による犯罪被害者の保護や補償制度があまりに手薄であることを、改めて認識した。犯罪被害者は基本的に「泣き寝入り」するしかない。それどころか、マスコミや近所の人々の好奇の目や偏見にさらされることもある。

このあたりは、以前、性犯罪の被害者についての本で、すでに知っていることだった。

ただ、一国の刑法を、犯罪被害者の観点を最優先にして抜本的に見直すことには、僕は反対だ。

近代刑法は結局のところ、人間の作り上げた偉大なるフィクションだ。

人の犯す犯罪は、もちろん直接的には被害者に害をおよぼすが、それを放置すれば他の国民も同じような被害を受けつづけ、最終的には国家の存立そのものを危うくする。だから犯罪者は被害者に代わって国家が罰することにしよう。

ざっくり言うと、そういう完全に人工的な約束事の上に、近代刑法は成り立っている。近代刑法のこのような犯罪観が、人類の歴史上、唯一正しい考え方でもないし、最善の方法でもない。

しかし、現代日本に生活する僕らは、犯罪と刑罰についてこういう考え方を受け入れる代わりに、一定の安全性のある生活を享受している。

その近代刑法的な考え方の中で、たとえば殺人に対してどれくらい重い罰を与えるかは、これも純粋に人工的な制度設計の話である。

どういう行為が、どのくらい重い罪と定義されるかは、国によって違う。

一つの国家が刑罰の制度を設計するにあたっては、一定の手続きが定められている。極端な例では、独裁者の鶴の一声で決まるかもしれないし、より民主的な手続きで決まるかもしれない。

日本のような民主主義国家では、一応、立法府に選挙を通じて国民の意見が反映される手続きが存在する。司法は行政機能の一部なので、立法府によって監視されることになっている。

つまり、どういう行為が、どれくらい重い罪と定義されるかは、唯一の正しい論理が存在するわけではなく、日本では民主主義的な手続きを通じて人工的に決まる。

こうした近代刑法の基本的な考え方に対して、藤井誠二氏の上掲書は、犯罪被害者へのさまざまな補償制度の拡充をうったえるのに、適切な手法をとっているか、かなり疑問だ。

というのは、藤井誠二氏が犯罪被害者の感情の側面に、注目しすぎているからだ。

近代刑法は、上記のような基本的な考え方から、国民が私的に犯罪者を処罰することを禁じ、犯罪者の処罰をすべて国家が行なうという約束事である。

犯罪被害者が「やられたらやりかえす」という怨念を持つのは当然だが、犯罪被害者へのさまざまな補償制度の基礎になるのは、そういった報復原理では決してない。

ところが本書は、まるで犯罪被害者の「仇討ち」願望、報復の願望を理解することが、犯罪被害者へのさまざまな補償制度の拡充の「第一歩」であるかのように読める。

これは明らかに違うだろう。

犯罪被害者のみなさんが補償されるべきなのは、近代法の「人工的な」約束事からすれば、その被害が国家にとって損失になるからであって、それ以外の理由はない。

犯罪によって経済的に困窮したり、マスコミの過剰報道の犠牲になったり、地域社会から疎外されたりすることで、逆に刑法が目的としている社会の安定や秩序が失われてしまう。

だから犯罪被害者のみなさんをきっちりフォローする必要があるのであって、それと報復感情にどのように対応するかは、別の議論にすべきだ。そうでなければ、仇討の時代に逆戻りするだけである。

犯罪被害者のみなさんの報復感情は、補償の一部のケアとして提供されるべきもので、藤井誠二氏の議論では、それと犯罪の重罰化や死刑の存置が結びついているように読める。

犯罪の重罰化が必要かどうか、死刑制度を存置するか廃止するかは、犯罪被害者の仇討を国家が代行すべきかどうかの議論ではなく、刑罰が社会におよぼす影響の議論だ。

犯罪者と犯罪被害者は、直接対峙するのでなく、飽くまで社会というフィクションを経由して対峙するのが、近代の根本的な約束事である。

もちろん、犯罪被害者のみなさんにとっては、死刑を存置した方が、プラスの影響が大きいのは当たり前のことだ。ただし、ここだけに焦点を当てれば、死刑廃止などありえない話になり、死刑制度の議論全体が瞬時にナンセンスになる。

たとえば死刑廃止論者が、えん罪の可能性を持ち出すのは、「国家による殺人」の犯罪被害者を一人でも生みだすまい、という考え方があるからであって、犯罪被害者の無念さや報復感情に無神経なわけではない。

あたかも死刑廃止論者(特に弁護士)たちが、犯罪被害者の心情に無理解な、非人間的な人たちであるかのような印象を与える本書は、近代刑法の原理を、報復感情に還元してしまっているような印象を与える点で、議論を著しく単純化しているという誤解を生みはしないか。

単純な議論は、たしかにわかりやすい。犯罪者より犯罪被害者が苦しむような社会は誰も望まない。だからといって、その問題の解決策を、犯罪被害者の「仇討ち」的な報復感情からスタートして論じるのは、方法論として間違っている。

くり返しになるが、私的報復を否定し、全ての犯罪者を国家が代わりに罰するという近代刑法は、決してパーフェクトな制度ではない。

しかし、今のところこの制度が、国民がある程度安全な生活を送るのに、最悪でないにしても、いちばんましな制度なので、単に一つの約束事・フィクションとして受け入れられているにすぎない。

江戸時代の「仇討ち」に逆戻りし、「私刑」を容認すれば、たとえば人違いで別人を殺してしまったり、仇討ち請負人(必殺仕事人?)が金儲けの手段になったり、仇討ちが新たな仇討ちを生み出したり、少なくとも今よりはめちゃくちゃな社会になる。

さらに言えば、何の必然性もなく、突然、命を奪われ、その理不尽さに苦しむのは、殺人事件の被害者だけではない。東日本大震災などの自然災害の犠牲者も同じだ。

自然災害による死と、人間の手による死では全く違うという考え方は、ある倫理観からすれば正しく聞こえるが、別の倫理観からすればとんでもなく聞こえる。災害で死んだ人間の命は、殺人犯に殺された人間の命よりも軽いのか?等々。

たとえば、自然災害は人間の努力で防げるが、殺人は防げないという理屈もおかしい。社会が殺人を減らす努力をあきらめてよいはずがないからだ。

自然災害によってであれ、殺人によってであれ、不治の病であれ、その他のどのような原因によってであれ、人間の命は多くの場合、近しい人たちにとっては「理不尽」に失われる。

そして遺族の方々はその理不尽さに対する怒りをどこにぶつければいいの分からず苦しむ。それら失われた命や、遺族の方々の苦しみに、どのように軽重をつけても、これという正解はなく、必ず恣意的になるのではないか。

だとすれば、遺族の感情というところから、犯罪や死に関する現状の社会制度が適切かどうかを論じるのは、やはり筋が違う。

いずれにせよ、本当に犯罪被害者への補償を拡充するなら、あまり感情にうったえる書き方ではなく、現行の各種制度の不備を、技術論的に細かく掘り下げる方法でなければ、藤井氏が本来意図している結果を生み出せないような気がするのだが。

なんだか僕個人としては、釈然としない読後感だった。

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2011/09/02

huluの日本上陸は間違いなく失敗する

米国の動画サイトhuluが日本上陸、月額1,480円で見放題とのことで、ネット上の各種ニュースサイトでも話題になっている。

個人的には、鳴かず飛ばずのまま、遠からず撤退するだろうと考えている。

米国のこの手のネットサービスが日本に上陸するとき、真剣に日本市場の特性を検討しているのか、ときどき極めて疑わしくなる。

例えば米国のスタイリッシュなドラマをよく観るのは、日本では大都市に住む若い独身女性が中心だろう。

huluが配信するようなドラマについては、通勤途中の駅のすぐ近くにあるTSUTAYAで気が向いたときにレンタルして帰ることができるし、TSUTAYAオンラインでDVDを借りることもできる。それに、帯域の限られるネット配信サービスより、DVDの方が間違いなく画質がいい。

つまり、広大な国土を持ち、自動車での長距離通勤が一般的な米国と違って、日本の米国エンタテイメントのヘビーユーザーは、密集度の高い都会に住み、電車で移動する若い独身女性である。

しかも、海外ドラマを配信する動画サイトは、すでにYahoo!JAPAN傘下のGyaoが存在し、コンテンツはhuluよりはるかに多彩である。韓流ドラマもある。

huluはスマートフォンでも視聴できることを売りにしているが、huluの提供するような米国発のコンテンツを、わざわざ外出先でも視聴したいというニーズは少数派だろう。

同じスマートフォンを使ったヒマつぶしなら、huluのメインターゲットになるはずの若い独身女性なら、ミクシィやツイッターなどのSNSや、ネットゲームを選ぶはずだ。

このように、どう考えてもhuluが日本で成功する要素はない。

おそらく日本の若い独身女性の消費動向をよく分かっていない中年オヤジたちが、自分たちの米国に対するノスタルジックな欲望を、huluという外面だけ新しいサービスに投影してしまった結果の、バカげた決断があったのではないか。

日本に進出したhuluが、NTTドコモと独占的マーケティングパートナーシップを締結したという事実からも、中年オヤジ的勘違いの線が濃厚である。それにしてもNTTドコモは、beeTVの失敗から何も学習していないらしい。哀れである。

あらかじめ、ご愁傷さまと言っておきたい。

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2011/09/01

風評被害とコミュニケーション

日経ビジネスオンラインに、久しぶりにツッコミどころ満載の記事を見つけたので、かなり長くなるが、検証してみたい。

2002年東京大学経済学部卒、政策研究大学院大学助教授の安田洋祐氏による『風評被害はこうすれば解消できる~「情報の経済学」で買い控え問題を読み解く』(2011/08/22)というコラムだ。

このコラムは、東日本大震災以降の風評被害を、生産者と消費者の間の情報の非対称性で説明しようというものだ。まずコラムの議論を要約する。

ある食品が放射線に汚染されておらず安全だと生産者は知っているが、消費者にはその情報が伝わらず、そのためその食品が売れない、という状況があるとする。

そして、自分の作った食品が汚染されていないと知っている生産者Aと、汚染されていると知っている生産者Bがいるとすると、4つのパターンの情報伝達が起こりうる。

【1】
生産者Aも生産者Bも「うちの食品は安全です」と言うだけで、その情報発信に全くコストをかけない場合、正しい情報が消費者に伝わらず、風評被害はなくならない。

【2】
生産者Aが「うちの食品は安全です」と言いつつ実際に食べてみせ、情報発信に「コスト」をかける場合、生産者Bは実際に食べてみせてまで情報発信しない可能性が出てくるので、正しい情報が消費者に伝わる可能性が出てくる。

【3】
コストをかけずに食品を検査機関で検査してもらえる場合、生産者Aにも生産者Bにも検査を依頼してその結果を情報発信する動機付けが生まれる。生産者Bの中でも、汚染レベルがより低い生産者は、低いことを伝えたいからだ。結果として正しい情報が消費者に伝わる。

【4】
食品を検査機関で検査するのにコストがかかる場合、生産者Aも生産者Bも、自分の食品が汚染されているか否かとば全く別の経済的事情で、検査を依頼できず、結果として検査結果を情報発信できたりできなかったりする。結果として正しい情報が消費者に伝われない可能性が出てくる。

以上のことから筆者は、政府や自治体が検査コストを負担すれば、【3】の状態となり、正しい情報が消費者に伝わり、風評被害はなくなると結論づける。

このような安田洋祐氏の議論は、社会におけるコミュニケーションについて、きわめて素朴な主体主義にとどまっている。社会においてコミュニケーションするのは、個々の人間だという、あまりに素朴すぎる前提にとどまっている。

現実には、社会においてコミュニケーションするのは、人間ではなくコミュニケーションである。

たぶん意味がよくわからないと思うので、ていねいに説明してみる。

上記の例で生産者が消費者に情報発信する場面を思い浮かべてみよう。テレビを通じてでも、説明会場のような場所でもかまわない。

その時、消費者が生産者の発信する情報を信じるかどうかが、何によって決まるかを考えてみよう。

安田氏の考えるもっとも好ましいシナリオである【3】の場合であっても、例えば消費者は、疑おうと思えば、いくらでも疑わしい点を見つけ出すことができる。

たとえば、生産者が食品を検査に出すとき、本当に自分の生産した食品を出したか、また、検査機関は本当に中立なのか。

逆に言えば、生産者の情報を消費者が信じる、という事態が成り立つには、生産者と消費者の間のコミュニケーションをとりまく無数の要素が、その信頼を支えていなければならない。

では、その信頼を支えるものは何だろうか?

たとえば、消費者が生産者の誠実さを信じるためには、生産者と消費者の間にあらかじめ何らかのコミュニケーションが起こっている必要がある。

それは直接でなくてもいい。昔、その生産者が作った食品を食べたことがあるとか、その生産者のテレビCMを見たことがある、などでもいい。

また、消費者が検査機関の中立性を信じるためには、検査機関と消費者の間にあらかじめ何らかのコミュニケーションが起こっている必要がある。

これも直接でなくていい。その検査機関のウェブサイトを見たことがある、検査機関に同じ大学の先輩が勤務している、などでかまわない。

つまり、生産者と消費者の間に、「信頼」という価値をもつコミュニケーションが成り立つには、そのコミュニケーションは無数の別のコミュニケーションに支えられている必要があるのだ。

もっと言えば、生産者と消費者の間にコミュニケーションが成り立つには、別のコミュニケーションがすでに成り立っている必要がある。コミュニケーションを成り立たせるのは、先行するたくさんのコミュニケーションなのである。

よく考えてみよう。消費者は単独で、生産者とのコミュニケーションが信じられるか判断できるわけではなく、それ以前に経験したたくさんのコミュニケーションを手がかりに、判断するしかない。

仮にその消費者が、今まで何度もくり返し、検査機関や生産者にだまされていたとしたら、今さら検査機関や生産者の言うことを信じられるだろうか?

このように、先行するコミュニケーション群は、その後に起こるコミュニケーションが成立するための要件になっている。

人間と人間が出会うだけでは、そこに無意味な記号のやりとりは生じるかもしれないが、それ以上のものは何も生じない。

人間と人間が出会ったとき、意味のある、つまり、「信頼できる」などの価値を帯びたコミュニケーションが成り立つには、先行するコミュニケーション群があらかじめ起こっていなければならない。

これが、「社会においてコミュニケーションするのは、人間ではなくコミュニケーションである」ということだ。

賢明な読者はすでにお気づきのように、あるコミュニケーションが成り立つには、先行するたくさんのコミュニケーションが必要だということは、それら先行するコミュニケーションが成り立つためには、さらに先行するたくさんのコミュニケーションが必要で、さらに...という具合に、この先行関係は無限につづくことが分かる。

このことは、皆さんの実感にとても近いと思う。

僕らはこの世に生まれるとすぐに、いきなりたくさんのコミュニケーションの中に放り出される。

それ以来、大人になるまで、それぞれに経験してきた無数のコミュニケーションが、あなたが今、誰かと交わすコミュニケーションを成り立たせる条件になっている。

むしろ社会における主役はコミュニケーションであって、特定のコミュニケーションの組み合わせの結果が、あなたという人間であると言えなくもない。ちょうど無数の塩基配列が、あなたという人間のDNAになっているように。

さて、そうすると、安田洋祐氏のように、情報の経済学の数理モデルを利用するだけでは、風評被害を解消することなど、とうてい出来ないことがすぐに分かる。

なぜなら、情報の経済学の数理モデルには、重大な欠陥があるからだ。その欠陥は大きく2つ指摘できる。

(1)「風評被害」というコミュニケーションを、先行するコミュニケーションから切り離して、単独で考察しさえすれば、「風評被害」を解消できるという誤った考え方をとっている。これを専門用語で「要素還元主義」と言う。

(2)コミュニケーションが成り立つのは、生産者と消費者の「間」であるのに、送り手である生産者を、受け手である消費者から切り離して、単独で情報の立証可能性と情報伝達コストを考察しさえすれば、消費者にそのコミュニケーションがどのような結果をおよぼすか予見できるという前提に立っている。これも「要素還元主義」だ。

このような2つの「要素還元主義」、つまり、本来は全体のつながりの中で考えるべきものを、バラバラの要素に分解するだけでなく、それらの要素のうち、一部分(ここでは生産者側)の問題だけを解決しさえすれば、全体(ここでは「風評被害」)が解消するという、完全に誤った考え方をとっている。

そのため、安田洋祐氏が提供している解決策は、およそ解決策になりそうにないものとなっている。

現に皆さんは、政府や自治体が放射線測定のコストを肩代わりしさえすれば、食品の放射線物質による汚染についての「風評被害」が解消したり、軽減されたりすると思われるだろうか。

東日本大震災以来、僕も含めて、今までどれだけ政府の発表や、東京電力の発表、また、大震災の前にさかのぼって、食品の現産地偽装など、食品の安全性について何度だまされてきただろうか。

それらの先行するコミュニケーションが、いま僕らが直面する「風評被害」を成り立たせているのである。

いま問われているのは、政府と国民、政府と企業、政府と食品生産者の間の、長い時間をかけて失われた信頼関係を取り戻すには、これからどのようなコミュニケーションを積み重ねていかなければいけないか、である。

「風評被害」をいくつかの要素に分解して、その一部に改良を加えれば一丁あがりといった、簡単な状況に置かれているわけでは決してない。

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