続:NHK『クローズアップ現代』の「現代型うつ」の根本的誤り
引きつづき、2011/11/23のNHK『クローズアップ現代』で取り上げられていた現代型うつ病の話題。
この番組の後半に登場した中年男性患者が、自分の他罰性(何でも他人のせいにする傾向)に気づいて再就職への道を模索し始めた、となっていたのは、認知療法として一定の意味はあるのではないか、というご意見をツイッターで頂いた。
このご意見をいただいて、僕自身、自分の精神疾患についての考え方について気付かされたことがある。それは、僕自身が暗黙のうちに「治療と社会復帰は別問題」という前提をおいていたことだ。
たしかに、「現代型うつ」の認知療法による治療として、まず本人に自分の「他罰性」に気づかせるのは意味があるだろう。そのことは否定しない。
しかし、そのような認知療法が一定の治療効果をあげ、患者さんが社会生活により適応しやすくなったとしても、その患者さんがもともと仕事をしていたような職場にもどって、また同じように仕事ができるようになるかというのは、全く別の話だ。
認知療法は、患者さん本人がなぜ自分が社会とうまく折り合いをつけられないのか、その理由を「個人的に」納得するにはたしかに役に立つだろう。
しかし、それはあくまで「個人的な」納得でしかない。患者さん自身が納得したとしても、社会が患者さんを見る目も同じように納得し、変化してくれるわけではない。
職場に復帰するということは、まずは職場まで徒歩や交通機関をつかって出社できること。そして出社した後、リハビリ勤務中は短時間勤務だとしても、一定の時間、連続して業務ができることが最低条件になる。
誤解をおそれず単純化すると、職場復帰は精神的な問題ではなく、ほとんど肉体的な問題だ。
かつて強烈な不安を感じた空間に、一定時間いつづけられる体力があるか。めまいがしたり、吐き気がしたりしないか。すぐ下痢をしてトイレに駆け込んだりしないか。そうした身体的な問題についての不安の方が、職場復帰にあたってはより重要になる。
職場の人たちは、職場復帰した患者が心の中で何を思っているか、いちいち想像してくれるほどヒマではない。各人が実際に職場ではたしている外面的な機能でしか見てくれない。
極論すれば、精神的な問題がまったく改善していなくても、決められた勤務時間中だけ、なんとか他人と一定レベルの意思疎通ができ、一定の思考能力と体力が続きさえすればいい。たとえ帰宅後、自分の部屋でぐったりして翌朝までろくに動けなかったとしても職場復帰はできてしまう。
この最低ラインをクリアするために、何種類もの薬を服用しつづけなければならないとしても、いちど職場から完全にドロップアウトしてしまう損失に比べればまだ良い、という考え方もある。
たぶん僕は、患者にとっては、じっくり時間をかけて治療するより、どんな手を使っても元の生活に近い生活を送れるようになることの方が、はるかに重要な場合があると、暗黙のうちに前提していたらしい。
ご承知のように精神疾患には、体の病気のように完治という区切りをつけることがむずかしい。
「寛解」という専門用語を見ればわかるように、完全に治ったとは言えないが、ふつうの生活に支障がないくらいには回復しているというところで、精神疾患の治療にはひと区切りつく。
その「寛解」の状態が、本人の内面的な納得と、周囲の人たちの内面的な納得の両方に支えられていればたしかに理想的だし、再発の可能性も低くなるだろう。しかし、そういう理想的な状況を実現するには、時間がかかるし、したがって費用もかかる。
しかも、周囲の人たちの内面的な納得を得るには、患者の周囲にいるかも知れない、ちょっと困った人、つまり、「自分の他罰性に気づいていないが、自分が精神疾患にかかることがないような図々しく無神経な人」に対しても、一種の認知療法をほどこす必要がある。
神経科や精神科を訪れてきた患者であれば、自分が病気だという認識(=病識)があるので、認知療法をしても一定の効果が期待できる。
しかし、患者の周囲にいる「自分の他罰性に気づいておらず、その他罰性に何ら問題を感じないまま周囲に対して攻撃的で無神経な人」には、当然、病識がなく、いかなる治療もできない。
いまの社会で、認知療法が社会復帰のための治療として機能するには、じっさいには患者本人だけでなく、患者の周囲にいる人たちも巻き込む必要があるのではないだろうか。
ただ、患者の周囲にいる人たちは、自分たちが病気でもないのに、なぜ新たな患者を職場から出さないために、あるいは精神疾患で休職中の社員の職場復帰のために、まるで自分たちの方に問題があるかのように「トレーニング」を受けなければならないのか、納得がいかないという気分になるに違いない。
そういう納得がいかない気分は、首記の『クローズアップ現代』に登場した企業の人事担当者の「メンタル社員」という蔑称によくあらわれている。「メンタル社員」という蔑称は、非があるのはあいつらなのに、なんで自分たちがいちいち研修なんかやらなきゃいけないんだ、という本音を表現している。
このような現代社会で、患者に対する認知療法に一定の成果が出たからといって、それがそのまま社会復帰につながるかのような『クローズアップ現代』のレポートの組み立て方は、あまりに楽観的すぎる。
楽観的すぎるだけでなく、精神疾患の患者を「メンタル社員」という差別用語で呼ぶ企業側の理論を、補強するだけに終わるおそれがある。
その意味で、認知療法の効果を信じている医師は、患者の職場や家庭まで巻き込んで、拡大された意味での認知療法をやる覚悟を持つ必要がありそうだ。
そうでなければ、患者ひとりが自分の「他罰性」に気づいたところで、その患者が職場へもどった後に、また病気の遠因となったタイプの人間に行き当たることになる。
つまり、自分の「他罰性」に気づかないまま周囲に当たり散らすタイプの人間に、精神的に打ちのめされ、せっかく職場復帰した患者はまた「他罰性」をとりもどすおそれがある。そして、弱い「他罰性」と強い「他罰性」のぶつかり合いで、またその患者は敗れ、職場からドロップアウトするかもしれない。
そのくり返しになるくらいなら、より強力な「他罰的」人間になって職場へもどっていくという選択肢をとらざるをえない場合もあるのではないか。むしろ現代の日本の職場においては、そういう選択肢の方が、精神疾患の患者が決定的に社会からドロップアウトするのを防ぐのに有効ではないのか。
僕は個人的にはこう考えているし、現実の日本社会は、すでにそうなっていると考えている。
仮に認知療法のような根本的な治療法が、多数派の治療法として患者の社会復帰に有効に機能しているなら、職場の精神疾患は順調に減っているはずだし、年間の自殺者数も減っているはずだ。
しかし実際には毎年3万人強がコンスタントに自殺している。職場の精神疾患も減らないばかりか、「現代型うつ病」と名付けられる新しいタイプの精神疾患が出てきている。
これは、認知療法のような根本的な治療が成果をあげておらず、社会の成員の一人ひとりが、自己理解と相互理解を深める方向になっていない証拠、つまり、認知療法のようなタイプの治療が失敗している証拠ではないだろうか。
そういう中では、いったん社会からはじき出された患者は、再び社会に適応することが極めて難しくなる。
さらに、認知療法のような治療法を最初からあきらめ、おもに薬の力で「身体的」条件を回復して職場復帰した患者は、ふたたび社会に適応できるが、いわばそういう「ドーピング的治療」で社会復帰する患者が増えると、こんどは別の人々が職場からはじき出されることになる。
こういう社会を全体として眺めると、次のようになる。
向精神薬や抗うつ薬の処方量が増えていく一方で、精神疾患の患者数や自殺者数は減らない。かといって、精神疾患によって社会からドロップアウトした人々が、街頭や公園にあふれかえるような、目に見えて悲惨な状況にもならない。
今の日本社会は、いったん、こういう悪しき均衡状態にあるのではないか。
出発点の2011/11/22放送分、NHK『クローズアップ現代』からずいぶん離れてしまったが、今の日本社会が精神疾患の増加によってどのような姿になっているか、僕個人の考えを書けば、以上のようなものになる。
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