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2011年11月の記事

2011/11/25

続:NHK『クローズアップ現代』の「現代型うつ」の根本的誤り

引きつづき、2011/11/23のNHK『クローズアップ現代』で取り上げられていた現代型うつ病の話題。

この番組の後半に登場した中年男性患者が、自分の他罰性(何でも他人のせいにする傾向)に気づいて再就職への道を模索し始めた、となっていたのは、認知療法として一定の意味はあるのではないか、というご意見をツイッターで頂いた。

このご意見をいただいて、僕自身、自分の精神疾患についての考え方について気付かされたことがある。それは、僕自身が暗黙のうちに「治療と社会復帰は別問題」という前提をおいていたことだ。

たしかに、「現代型うつ」の認知療法による治療として、まず本人に自分の「他罰性」に気づかせるのは意味があるだろう。そのことは否定しない。

しかし、そのような認知療法が一定の治療効果をあげ、患者さんが社会生活により適応しやすくなったとしても、その患者さんがもともと仕事をしていたような職場にもどって、また同じように仕事ができるようになるかというのは、全く別の話だ。

認知療法は、患者さん本人がなぜ自分が社会とうまく折り合いをつけられないのか、その理由を「個人的に」納得するにはたしかに役に立つだろう。

しかし、それはあくまで「個人的な」納得でしかない。患者さん自身が納得したとしても、社会が患者さんを見る目も同じように納得し、変化してくれるわけではない。

職場に復帰するということは、まずは職場まで徒歩や交通機関をつかって出社できること。そして出社した後、リハビリ勤務中は短時間勤務だとしても、一定の時間、連続して業務ができることが最低条件になる。

誤解をおそれず単純化すると、職場復帰は精神的な問題ではなく、ほとんど肉体的な問題だ。

かつて強烈な不安を感じた空間に、一定時間いつづけられる体力があるか。めまいがしたり、吐き気がしたりしないか。すぐ下痢をしてトイレに駆け込んだりしないか。そうした身体的な問題についての不安の方が、職場復帰にあたってはより重要になる。

職場の人たちは、職場復帰した患者が心の中で何を思っているか、いちいち想像してくれるほどヒマではない。各人が実際に職場ではたしている外面的な機能でしか見てくれない。

極論すれば、精神的な問題がまったく改善していなくても、決められた勤務時間中だけ、なんとか他人と一定レベルの意思疎通ができ、一定の思考能力と体力が続きさえすればいい。たとえ帰宅後、自分の部屋でぐったりして翌朝までろくに動けなかったとしても職場復帰はできてしまう。

この最低ラインをクリアするために、何種類もの薬を服用しつづけなければならないとしても、いちど職場から完全にドロップアウトしてしまう損失に比べればまだ良い、という考え方もある。

たぶん僕は、患者にとっては、じっくり時間をかけて治療するより、どんな手を使っても元の生活に近い生活を送れるようになることの方が、はるかに重要な場合があると、暗黙のうちに前提していたらしい。

ご承知のように精神疾患には、体の病気のように完治という区切りをつけることがむずかしい。

「寛解」という専門用語を見ればわかるように、完全に治ったとは言えないが、ふつうの生活に支障がないくらいには回復しているというところで、精神疾患の治療にはひと区切りつく。

その「寛解」の状態が、本人の内面的な納得と、周囲の人たちの内面的な納得の両方に支えられていればたしかに理想的だし、再発の可能性も低くなるだろう。しかし、そういう理想的な状況を実現するには、時間がかかるし、したがって費用もかかる。

しかも、周囲の人たちの内面的な納得を得るには、患者の周囲にいるかも知れない、ちょっと困った人、つまり、「自分の他罰性に気づいていないが、自分が精神疾患にかかることがないような図々しく無神経な人」に対しても、一種の認知療法をほどこす必要がある。

神経科や精神科を訪れてきた患者であれば、自分が病気だという認識(=病識)があるので、認知療法をしても一定の効果が期待できる。

しかし、患者の周囲にいる「自分の他罰性に気づいておらず、その他罰性に何ら問題を感じないまま周囲に対して攻撃的で無神経な人」には、当然、病識がなく、いかなる治療もできない。

いまの社会で、認知療法が社会復帰のための治療として機能するには、じっさいには患者本人だけでなく、患者の周囲にいる人たちも巻き込む必要があるのではないだろうか。

ただ、患者の周囲にいる人たちは、自分たちが病気でもないのに、なぜ新たな患者を職場から出さないために、あるいは精神疾患で休職中の社員の職場復帰のために、まるで自分たちの方に問題があるかのように「トレーニング」を受けなければならないのか、納得がいかないという気分になるに違いない。

そういう納得がいかない気分は、首記の『クローズアップ現代』に登場した企業の人事担当者の「メンタル社員」という蔑称によくあらわれている。「メンタル社員」という蔑称は、非があるのはあいつらなのに、なんで自分たちがいちいち研修なんかやらなきゃいけないんだ、という本音を表現している。

このような現代社会で、患者に対する認知療法に一定の成果が出たからといって、それがそのまま社会復帰につながるかのような『クローズアップ現代』のレポートの組み立て方は、あまりに楽観的すぎる。

楽観的すぎるだけでなく、精神疾患の患者を「メンタル社員」という差別用語で呼ぶ企業側の理論を、補強するだけに終わるおそれがある。

その意味で、認知療法の効果を信じている医師は、患者の職場や家庭まで巻き込んで、拡大された意味での認知療法をやる覚悟を持つ必要がありそうだ。

そうでなければ、患者ひとりが自分の「他罰性」に気づいたところで、その患者が職場へもどった後に、また病気の遠因となったタイプの人間に行き当たることになる。

つまり、自分の「他罰性」に気づかないまま周囲に当たり散らすタイプの人間に、精神的に打ちのめされ、せっかく職場復帰した患者はまた「他罰性」をとりもどすおそれがある。そして、弱い「他罰性」と強い「他罰性」のぶつかり合いで、またその患者は敗れ、職場からドロップアウトするかもしれない。

そのくり返しになるくらいなら、より強力な「他罰的」人間になって職場へもどっていくという選択肢をとらざるをえない場合もあるのではないか。むしろ現代の日本の職場においては、そういう選択肢の方が、精神疾患の患者が決定的に社会からドロップアウトするのを防ぐのに有効ではないのか。

僕は個人的にはこう考えているし、現実の日本社会は、すでにそうなっていると考えている。

仮に認知療法のような根本的な治療法が、多数派の治療法として患者の社会復帰に有効に機能しているなら、職場の精神疾患は順調に減っているはずだし、年間の自殺者数も減っているはずだ。

しかし実際には毎年3万人強がコンスタントに自殺している。職場の精神疾患も減らないばかりか、「現代型うつ病」と名付けられる新しいタイプの精神疾患が出てきている。

これは、認知療法のような根本的な治療が成果をあげておらず、社会の成員の一人ひとりが、自己理解と相互理解を深める方向になっていない証拠、つまり、認知療法のようなタイプの治療が失敗している証拠ではないだろうか。

そういう中では、いったん社会からはじき出された患者は、再び社会に適応することが極めて難しくなる。

さらに、認知療法のような治療法を最初からあきらめ、おもに薬の力で「身体的」条件を回復して職場復帰した患者は、ふたたび社会に適応できるが、いわばそういう「ドーピング的治療」で社会復帰する患者が増えると、こんどは別の人々が職場からはじき出されることになる。

こういう社会を全体として眺めると、次のようになる。

向精神薬や抗うつ薬の処方量が増えていく一方で、精神疾患の患者数や自殺者数は減らない。かといって、精神疾患によって社会からドロップアウトした人々が、街頭や公園にあふれかえるような、目に見えて悲惨な状況にもならない。

今の日本社会は、いったん、こういう悪しき均衡状態にあるのではないか。

出発点の2011/11/22放送分、NHK『クローズアップ現代』からずいぶん離れてしまったが、今の日本社会が精神疾患の増加によってどのような姿になっているか、僕個人の考えを書けば、以上のようなものになる。

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2011/11/24

アニメのコピーのコピーのコピーの存在意義

朝日新聞オンライン版の「小原篤のアニマゲ丼」という連載コラムで、筆者の朝日新聞社の小原篤氏が、押井守監督の講演にふれていることを、グーグル・ニュースで見つけた。

『小原篤のアニマゲ丼』(2011/11/21 朝日新聞オンライン版)

2011/11/12に東京芸術大学大学院映像研究科が「第2回映像メディア学サミット LOOP-02 マンガ・アニメの映像メディア学的再考」という講演会を開催し、第一部は竹宮恵子、第二部が押井守の講演だったようだ。

小原篤氏が第一部の竹宮恵子氏の講演にまったく触れていないこと自体が、とても示唆的なのだが、それは置いておこう。

まさか小原篤氏が、少女マンガを日本のマンガ史上、単なる傍流だとみなして無視したのではあるまい。仮に無意識にであっても、そういう考え方から無視したのであれば、そもそも小原篤氏に日本のマンガやアニメを語る資格はない。

さて、小原篤氏によれば、講演の中で押井守は次のように語っていたらしい。

「そして現実の劣化コピーに過ぎない実写と違い、『現実に根拠を持たない』アニメは珠玉の工芸品となり得、アニメはその根本から細部までコントロール可能であるがゆえにその力を使ってアニメ監督は、全世界・全歴史に向けて自分の言いたいことを完全な形で言えてしまうという誇大妄想の極限を味わうことができる。

これは悪のにおい、危険なにおいがする。ゆえに若い人をひきつける。しかし僕の見る限り現在のアニメのほとんどはオタクの消費財と化し、コピーのコピーのコピーで『表現』の体をなしていない」

これはあくまで小原篤氏が要約した、押井守の発言であり、押井守のオリジナルの発言の文字おこしではないことに注意すべきだ。

ただ、この要約から押井守の意図を抽出すると、アニメが本質的にそなえている表現方法としてのせっかくの可能性を、現在のアニメのほとんどはムダにしており、単なる「オタクの消費財」と化してしまっている、となる。

押井守は、アニメが「現実の劣化コピーに過ぎない実写」と違って、「誇大妄想の極限」とでも呼べるような可能性をもつ表現方法であることを、プラスにとらえている。

そして、そのせっかくのプラスの側面、アニメの持つ本質的な可能性を、現在のアニメ作品のほとんどが活かせていないことを非難している、と読める。

押井守がアニメという表現方法を、何らかの思想や内容を伝えるための、単なる手段に過ぎないとみなすはずがない。

したがって、ここで押井守が「全世界・全歴史に向けて自分の言いたいこと」と語っているのは、アニメという表現方法でしか伝えられない思想や内容というものが存在し、それらは実写作品では決して伝えられない、という前提に立っているのだろう。

ここまでは、僕も完全に同意できる。

世の中には、次のような誤った考え方を持つ人がたくさんいる。少し長くなるが、その誤った考え方を書き下してみよう。

表現すべき思想や内容というのものは、表現方法に先立って、作者の頭の中に存在する。そして、小説、実写映画、絵画、アニメ、マンガ、音楽、演劇、などなどの表現方法は、単なる「手段」である。

だから、ある手段で表現できる思想や内容を、わざわざ別の手段を使って表現する必然性はない。アニメに表現できて、実写で表現できない思想や内容などないし、マンガに表現できて、小説に表現できない思想や内容もない。

ところで、アニメやマンガというのは、実在する事物をデフォルメしたり、単純化したりして描写するので、実在する事物から大事な本質を奪いとってしまう、「劣った」表現方法である。

同じ思想や内容を表現するなら、アニメやマンガよりも、小説や実写など、実在する対象をより実物に近くリアルに表現できる方法をとるべきだ。

にもかかわらず、あえてアニメやマンガといった表現方法を選択するのは、そもそもその表現者の表現したい思想や内容が、アニメやマンガといった「劣った」表現方法でも十分伝わる「劣った」思想や内容だからだ。

したがって、アニメやマンガという「劣った」表現方法で表現されているような思想や内容は、そもそも鑑賞する価値がない。


かなり長くなったが、以上のような誤った考え方をもっている人は意外に多い。例えば、橋田寿賀子ドラマや韓流ドラマのファンだが、『輪るピングドラム』のようなアニメ作品は唾棄すべきものとみなす人がいるかもしれない。

この誤った考え方を一言でいうと、表現における内容と形式の完全な独立、ということになる。表現方法と、表現される内容が、お互いに完全に独立している、という考え方だ。

こういった素朴なリアリズム、「現実」というものに対する素朴な考え方を持っている人は多い。

このような人たちは、小説であれ、映画であれ、絵画であれ、どのような表現形式で表現しても、表現される側の「現実」の方は何の影響もうけず、確固たるものとしてあり続けると思い込んでいる。

つまり、誰がどのような方法で表現しても、決して影響をうけない確固たる「現実」というものが存在すると思い込んでいる。

西洋や東洋の哲学史を少しでも勉強したことがあれば、このような意味での「現実」自体が、人間の作り出した単なる「虚構」でしかないことは、説明するまでもないだろう。

同じ「現実」を目の前にしても、それがどのように見えるかは、一人ひとり違う。しかも、そもそも「現実」とは何かということは、一人ひとりの持っている表現方法によって違ってくる。

いちばん分かりやすい例は、言語だろう。

ある民族の言語では、雪の色を表現するのに何とおりもの単語があるというし、空にかかる虹の色を表現する色の単語の数も、言語によって違う。極端な話、自然科学の専門用語を使えば、虹の色はいくらでも精緻に区別することができる。

このことは、表現方法によって何の影響もうけない「現実」が、ゆるぎないものとして先に存在するのではなく、むしろそれぞれの人がもっている表現方法によって「現実」がどのようなものであるかが決まる、ということだ。

したがって、橋田寿賀子の脚本によってはじめて表現できるドラマ『渡る世間は鬼ばかり』的な「現実」もあれば、幾原邦彦の脚本によってはじめて表現できるアニメ『輪るピングドラム』的な「現実」も存在する。

どちらの「現実」がより優れているかは、純粋にその人の個人的な考え方であり、絶対的な基準があるわけではない。実写のドラマは大人の見るもので、アニメやマンガは子供の見るものだという考え方は、逆に子供っぽく、あさはかな考え方だ。

ここまで来て、ようやく最初に引用した、押井守の発言にもどることができる。

押井守は、現実の劣化コピーでしかない実写に対して、アニメという表現方法の方がより大きな可能性を秘めていると主張している。

しかし、そのアニメという表現方法の中にも、現実の劣化コピーではない真の描写としての優れたアニメと、既存のアニメのコピーでしかない劣化したアニメが存在するとも主張している。

既存のアニメのコピーであるアニメは、アニメという一つの「現実」を、アニメという一つの「表現方法」で表現したものである。

アニメという一つの「現実」を表現するには、たとえばアニメ作家を主人公にした小説を書くという表現方法もあるし、アニメ作品を分析する批評を書くという表現方法もある。同じように、アニメについてのアニメを作るという表現方法もある。

もし、押井守の言いたいことが、アニメのコピーであるアニメが無条件に「表現」の体をなしていないという主張であるなら、押井守のこの主張は、押井守自身のアニメ擁護論と完全に矛盾している。

アニメというものも、人によってさまざまな見方のある「現実」の一つでしかない。そのアニメという「現実」を表現したいとき、方法としてアニメを選択するのは、押井守自身の論によれば、「現実の劣化コピーでしかない」結果をまねかないための優れた方法であるはずだ。

アニメについての評論を書く代わりに、アニメについてのアニメを作ることが、無条件に押井守から「『表現』の体をなしていない」というマイナス評価をうけるいわれはない。

おそらく押井守は、アニメという表現方法を特権化しすぎているのではないだろうか。あまりにアニメという表現方法を特権的なものと考えすぎるあまり、アニメが単なる「現実」の一つであることを忘れてしまっているのではないか。

より正確に言えば、アニメが表現方法であると同時に、表現される「現実」の側でもあることを、押井守はうっかり捉えそこねているのではないか。

アニメに限らず、小説でも映画でも批評でも絵画でも、あらゆる表現方法が、「小説についての小説」「映画についての映画」「批評についての批評」「絵画についての絵画」など、自己言及的でありうるということは、押井守自身がいちばんよく知っているはずだ。

表現方法は、表現される思想や内容に奉仕する奴隷ではないし、逆に、表現される思想や内容も、表現方法に奉仕する奴隷ではない。どちらも現在の社会を構成する、さまざまな機能の一つでしかない。

表現方法と、表現される思想や内容は、社会においては、ともに入れ替え可能な機能の一つでしかない。ときには一方が他方を表現することもあり、一方が他方によって表現されることもある。

押井守が本当に、実写は現実の劣化コピーでしかないと考えているなら、アニメという現実を表現するにあたっても、その表現方法として、アニメは実写より優れているはずだ。

であれば、アニメがアニメを「コピー」し、そのコピーをまたアニメが「コピー」している状況を、「オタクの消費財」であると断定するのは早すぎはしないか。

少なくともアニメの「コピーのコピーのコピー」と見えるものの中にも、単なる「オタクの消費財」と化していない、アニメによるアニメという「現実」の表現があることを指摘すべきではないか。

表現される現実と、表現方法の入れ替え可能性が、即、何ら新しい可能性を生み出さないということにはならない。戦闘機に乗って闘う存在が、たとえ純粋に機能的に入れ替え可能な存在だとしても、即、そうした機能を果たす存在に意味がないということにはならない。

アニメという「現実」を表現するアニメがあり、そうした「現実」をさらに表現するアニメがある。そのような、表現される側でも、表現する側でもありうるアニメという「現実」の、自己言及的な表現・被表現の連鎖、原作があり、二次創作があり、さらにその二次創作がありといった連鎖が、何の付加価値も生み出さない「消費財」に過ぎないということにはならないだろう。

押井守がアニメという「現実」かつ表現方法に、その程度の価値しか見ていないのであれば、押井守は単に個人的にアニメに絶望しているというだけのことだ。

そもそも、表現し、表現されるという自己言及的な創作の連鎖と無縁な表現方法など存在するだろうか。例えば、古典が古典として読み継がれるために、子供向けに表現し直されたり、演劇や映画に翻案されたりしてきたのではないか。

押井守が本当に冒頭のようなことを講演でしゃべったのだとしたら、とても残念だと思ったので、長くなったが、アニメの「コピーのコピーのコピー」の存在意義について、僕の個人的な考え方を書いてみた。

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2011/11/23

NHK『クローズアップ現代』の「現代型うつ」報告の根本的誤り

昨日、2011/11/23のNHK『クローズアップ現代』で現代型うつを取り上げていたが、大いに疑問が残った。

現代型うつが、従来のうつ病と違って「他罰的」であるというのはいい。

しかし、番組後半に登場した病院で、現代型うつの患者どうしが自分の病歴を話し合うことで、それぞれの他罰的な傾向に気づき、その気づきから社会復帰のきっかけをつかむ、という部分。

この流れはどう考えてもおかしい。

他罰的という言葉の意味は、他人の責任にするという意味だ。

従来型のうつ病患者は一般的に、「すべて自分が悪い」と自分を責める「自罰型」で、自分自身に対して攻撃的になり、自分の身体を傷つける自傷行為に走ったり、私生活でも部屋に閉じこもるなど、活動レベルが下がると言われている。

それに対して現代型うつは、「すべて周囲が悪い」と他人のせいにして、私生活では自分の趣味にかえって活動的になるなど、単なるサボりと誤解されることが多いとされる。

しかし、他罰的か自罰的かというのは、単なるうつ病の症状のパターンにすぎない。

たとえば、昨日の『クローズアップ現代』の後半で紹介されていた、現代型うつ患者の中年男性。

今まですべてを周囲のせいにしていた考え方を改め、自分自身の責任も認識できるようになったということと、彼がこれから社会復帰できるかどうかは、まったく別問題だ。

というのは、読者のなかで会社勤めをしている皆さんも、自分の職場を思い出してみればすぐ分かる。職場で何か問題があっても、まったく自分の責任を感じる様子のない人というのは、どの会社にもいる。

しかしそういう人たちが全員、他罰的だからといって、それが「原因」で現代型うつ病になって休職したり、退職したりするわけではない。

その人の精神的な傾向が、他罰的であれ、自罰的であれ、それがつねに休職や、社会からのドロップアウトにつながるわけではないのだ。

つまり、他罰性や自罰性は、その人が休職するなど、社会生活に適応できなくなった「結果」、たまたま目立って見えてくる特徴に過ぎないのであって、他罰性や自罰性が「原因」で、うつ病になるのではない。

こんなことは、少し考えればわかるだろう。

したがって、昨日の『クローズアップ現代』の後半にあったように、あたかも自分の他罰的傾向に気づくことが、社会復帰への鍵であるかのような伝え方は、完全に間違っている。

むしろ、同じように他罰的だったり自罰的だったりする人たちのなかで、なぜ一部の人たちだけが、仕事を続けられなくなるほど体調を崩してしまうのか?ということの方が、本質的な問題だ。

もっと言えば、現代型うつであれ、従来型うつであれ、その真の原因は、一方的に個人の側にあるのではない。

個人の期待や考え方と、周囲の環境との食い違いが生じたとき、それを個人の側、環境の側の両方から歩み寄って解決しようという社会的なしくみが不足していること。この点こそが本質的な問題だろう。

うつ病の人間などいらない、という組織であれば、環境の側からの歩み寄りを、わざと止めればいい。そうすれば、適応できない人間は「勝手に」うつ病になり、最終的には退職してくれるだろう。

そうしてドロップアウトした人間は、国が失業保険や生活保護の形で面倒を見るしかない。個々の組織がコストを負担してまで面倒を見るのがイヤなので、わずらわしい人間は国に押しつけ、税金で面倒を見てもらおうという考え方だ。

そういう個々の組織の「部分最適」な考え方は、最終的には毎年の自殺者が3万人台だったり、失業した結果、経済力のない若者が子供を持たなくなるなど、日本社会の構造的問題に帰結する。

そして、日本経済の内需を衰退させ、市場の縮小や、社会保険料の企業負担分の増額など、回りまわって個々の組織そのものの首を締めることになる。

これは典型的な合成の誤謬、「部分最適」な考え方が社会「全体」の効率を悪化させる例だ。

要はどんな組織であれ、国のセーフティーネット(失業保険や生活保護)にタダ乗りすれば、最終的には自分自身がツケを払わされるというだけのことだ。

残念なことに、今の営利企業のほとんどは、基本的にこういう「タダ乗り」式の考え方で運営されており、その考え方は職場の「空気」に反映される。

その結果、独力で環境との食い違いを解決できない人間は、診断名は従来型うつ、現代型うつ、適応障害でも何でもいいが、とにかく組織からはじき出されることになる。

ではなぜ最近になって、「独力で」環境と自分自身の期待や考え方の食い違いを解決できない人が増えてきたのか?

それは、今までは職場から見ると「独力で」解決していたかのように見えていたが、実際には個々の社員の背後にある家族や友人や恋人が、会社組織の代わりに解決してくれていただけのことである。

つまり、今までの職場が、社会問題になるほどうつ病患者を出さずにやって来られたのは、単に営利企業という組織が、個々人を支える社会的な資源(家族や友人や恋人など)にタダ乗りしていただけのことなのだ。

ではなぜ最近の会社員には、そうした社会的な資源を利用できる人間が減ってしまったのか。ここまでさかのぼって初めて、本質的な問題を議論することができる。

本質的な問題から生じた結果の、そのまた結果でしかない「他罰性」を、表面的、一時的に本人に納得させたところで、現代型うつが解決するわけでは決してない。ましてそうした現代型うつ病の社員に、「メンタル社員」というレッテル貼りをするような組織に、本質的な問題解決の能力があるはずがない。

以上のような理由で、昨夜のNHK『クローズアップ現代』の「現代型うつ」のとり上げ方は、ほぼ完全に間違っていた。というより、まさに社会への適応に障害をもつ人たちを生み出す側の、企業の論理で語られていた、と言える。

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2011/11/21

水樹奈々CD売上枚数推移グラフ

ヒマなので水樹奈々の2001/12/05発売『supersonic girl』から2011/08/03発売の最新シングル『純潔パラドックス』まで、オリコンの推定初動売上枚数と、累計売上枚数の推移を横棒グラフにしてみた。

Nanamizuki_rankingsingle201111

Nanamizuki_rankingalbum201111

このグラフを見ると、最初のブレイクは2002年秋だったことがわかる。

2ndアルバム『MAGIC ATTRACTION』の初動売上枚数に対する、2週目以降の売上の多さと、シングル『POWER GATE』と『suddenly~巡り合えて~』の累計売上の差で、そのことが明らかだ。

ただ、この時期は最初のコンサートツアー『ATTRACTION 2002』が始まる前だし、シングルのタイアップにも目立つ作品はないし、フェイト・テスタロッサ役は2004年に始まるので、この最初のブレイクの理由がよくわからない。

水樹奈々ファンの方、ご教示いただければ幸いです。

第二弾のブレイクは2005/10/19発売のシングル『ETERNAL BLAZE』のようだ。翌年発売のアルバム『HYBRID UNIVERSE』の初動、累計とも、その前のアルバム『ALIVE & KICKING』の約1.5倍に跳ね上がっている。

この第二弾のブレイクは、やはり『魔法少女リリカルなのはA's』で、水樹奈々が演じるフェイト・テスタロッサが、ヒロインの高町なのはのパートナー役になったことによる、作品自体のヒットが原因だろうか。

第三弾のブレイクは2007/04/18発売のシングル『SECRET AMBITION』で、この曲で、シングルの方の売上は累計8万枚が一種のベースラインになったようだ。これも『魔法少女リリカルなのは』シリーズの主題歌で、やはりテスタロッサ人気と連動しているのだろう。

一方、アルバムの方は『HYBRID UNIVERSE』、そしてその次のベストアルバム『THE MUSEUM』、『GREAT ACTIVITY』と順調に初動、累計とも売上を伸ばしている。じわじわとファンが増えているのがわかる。

このあたりは2002年以降、毎年コンスタントにコンサートツアーを行なっていることも寄与していると思われる。

第四弾のブレイクは2009/06/03発売のアルバム『ULTIMATE DIAMOND』だろうか。2009年はシングルの累計売上の変動がないのに大して、このアルバムは初動だけで一つ前のアルバム『GREAT ACTIVITY』を軽く超えている。

また、ウィキペディアによれば、声優によるオリコン週間アルバムチャート初登場1位は、1968年から始まったオリコンの歴史で初めて、とのことだ。

ここまでの彼女の最高累計売上シングル『Trickster』や、『深愛』『STARCAMP EP』が収録されているというだけで、この伸びは説明できない気がする。これもお分かりの方は、ご教示いただければ幸いです。

その後、シングルは2010/01/13発売の『PHANTOM MINDS』が初動でオリコン週間シングルチャート第1位を獲得し、今に至るまで水樹奈々の最高累計売上のシングルとなっている。この曲も『魔法少女リリカルなのは』シリーズで、劇場版の主題歌。やはりテスタロッサ人気は根強い。

シングルはこの『PHANTOM MINDS』以降、比較的落ち着いた動きを見せているが、同じ年2010/07/07発売の『IMPACT EXCITER』は前作『ULTIMATE DIAMOND』よりさらに売上を伸ばしている。

2003/11/27発売のアルバム『DREAM SKIPPER』以降、アルバムについては、ほぼ勢いが衰えることなく売上を伸ばし続けている。しかも毎回、2週目以降の売上も伸び続けており、固定ファン以外に新たなファンを獲得し続けていることもわかる。

ただ、『IMPACT EXCITER』以降のシングル売上の推移を見ると、明日フラゲ日、明後日の2011/11/23発売のベストアルバム『THE MUSEUM II』は、おそらく『IMPACT EXCITER』と同程度の売上枚数にとどまりそうな感じがする。

何の内容もない記事で済みませんでした。

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2011/11/18

alan、中国帰国後第一弾シングル『我回来了(ただいま)』の歌詞日本語試訳

alanの中国帰国後、そして中国大陸でavex Chinaから楽華娯楽へ移籍して第一弾のシングル『我回来了(ただいま)』の歌詞を日本語に試訳してみたい。

個人的な感想をひとことで言えば、とても美しい歌詞だ。

日本での活動の想い出や、日本のファンの温かい応援をあえて振り切って、中国で新しい一歩を踏み出す、そういうalanの心境をそのまま描いたような歌詞になっている。

《我回来了(ただいま)》

作詞:王雅君 作曲:林俊杰

经过了多少个街灯
街灯をいくつも通りすぎて

才找到回家的大门
やっと家の玄関にたどりついた

今晚我舍不得关灯
今晩は灯りを消すのも惜しい

只要不被打扰的
そっとしておいてくれさえすれば

回忆像开过的列车
回想は列車のように走ってゆく

幸福是每一次启程
幸せはいつも旅立ちのようなもの

直到你的手松开后
あなたが手を離したそのときに

我才彻底的醒了
私はようやくはっきり目ざめる


每个吻都有几次 伤透心的可能
口づけするたび
心は何度も傷つくかもしれない

才熬成不让眼泪 每一次都会疼
でもそうして初めて
涙流しても心は痛まなくなる

我 不曾完整走的旅程 却走得曲折
私はまだ歩み終えていない旅路を
曲がりくねった道でも歩いてゆく


每个人都在渴望 需要爱的眼神
人はみな 愛する人のまなざしを求めている

却忘了时间仍然留不住他的体温
でもいつまでも
その温もりにとどまることはできない

我 乱了永恒 才甘心的等待下一次的旅程
私は永遠をかき乱して
ようやく次の旅路を心から待ち望む

(*恋人の胸の温もりの中にいつまでもいたい気持ちをふりはらって、初めて新たな旅に出る心の準備ができる、という意味と、日本のファンの応援という温もりの中に、いつまでもとどまっていたい気持ちをふりはらって、初めて、中国での新しい活動を始める心の準備ができる、という意味が、二重になっていると思われる)


离开了 昨天的 天亮了 复活了
さよならした 昨日とは 夜は明け よみがえる

这一刻 我回来了
この瞬間 「ただいま」


每个人都在灼热 需要爱的眼神
人はみな 愛する人のまなざしを求めている

却忘了时间仍然留不住他的体温
でもいつまでも
その温もりにとどまることはできない

我 乱了永恒 才甘心的等待下一次的旅程
私は永遠をかき乱して
ようやく次の旅路を心から待ち望む


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alan中国帰国後初のシングル『我回来了(ただいま)』(新浪娯楽ニュースより)

alanが中国に帰国して最初のシングルを発売するようなので、中国大陸の情報サイト「新浪娯楽」の記事を日本語に試訳しておく。

(試訳ここから)

阿兰归国首发心声《我回来了》开启崭新之路(『alan帰国後初の心の声「ただいま」が新たな道を切り開く』2011/11/18 11:02 新浪娯楽)

契約帰属問題のために関心を集めていた歌手alanが、ついにニューシングル『ただいま』で帰ってきた。同時に、11月22日に中国大陸の新鋭レコード会社楽華娯楽との契約発表会を盛大に開催し、正式に新たな音楽の旅程を歩み始める。

短い4年間で、alanは数枚の中国語、日本語アルバムおよび十数曲のシングルを発表し、アジアのさまざまな大賞に挑戦した。これまで中国国内での活躍は比較的少なかったが、映画『レッド・クリフ』の主題歌を歌ったことで、中国国内の観衆にも愛されるようになった。11月22日の契約前に、楽華娯楽はalanとともにニューシングル『ただいま』を発売し、alanがいまいちばん伝えたい心の声を表現した。袁惟仁が自らプロデュースし、林俊杰が作曲したこの曲『ただいま』は、一貫して"alan式"のおおらかなメロディーとなっている。また彼女の心境にぴったりの歌詞は、alanの高く澄みきった声で歌われることで、特別に心にしみ入り、リアルに聞こえる。

(試訳ここまで)

Alan_xinlang20111118a


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2011/11/16

社会の複雑化と「アイドル声優」という機能

このところ出張つづきで落ち着いてブログを書けないため、間があいてしまった。久しぶりのブログで、読みごたえのある記事を書くのだろうというご期待を裏切ってしまうことになるが、水樹奈々という人物について書いてみたい。

水樹奈々とは紅白歌合戦に出場経験のある女性歌手・アニメ声優である。

僕の配偶者のように、アニメを「非写実的で荒唐無稽」という理由だけで、低く評価するタイプの人々には、水樹奈々のような芸能人は縁がないので、ご存じない読者もいらっしゃるに違いない。

1970年代から80年代につながるアイドル女性歌手のブームと並行するように、アニメ声優にもそれぞれの時代で最も人気のある女性「アイドル声優」というのが存在する。

それ以前、1960年代のアニメ作品で活躍した女性声優の多くは、洋画や米国のテレビドラマの吹き替え出身者が多く、「アイドル声優」として位置づけられる女性声優はほとんどいない。

1970年代を代表する「アイドル声優」は、例えば潘恵子だ。『銀河鉄道999』のユキ、『新竹取物語 1000年女王』の雪野弥生、『機動戦士ガンダム』のララァなど。

それから、ネタ切れのバラエティー番組が、最近よくキャスティングする日高のり子は、1980年代を代表する女性声優といえる。ご承知のようにアニメ『タッチ』で浅倉南の声を当てている。

同じように1990年代では『新世紀エヴァンゲリオン』の綾波レイ役の林原めぐみが、代表的な女性声優だろうか。ただ彼女の場合は、失礼ながら外見的な基準から「アイドル」と呼べるかどうかは微妙だ。

ここでは女性声優に対する一般的な見方を代弁して、あえて女性差別的な書き方をするのをお許しいただきたい。

というより、そもそも女性声優の「アイドル性」は、ある意味、女性アイドル歌手のような、その人物単独で成立するアイドルよりも、さらに「処女性」や「無垢性」といった「女性性幻想」をずっしり負わされている。

女性声優は、ぶっちゃけて言うとアイドル歌手よりも外見的に劣っていても「アイドル声優」として通用する。その理由は、当然のことだが演じているアニメのキャラクターとセットで人気が出るからだ。

そして「アイドル声優」の演じるアニメのキャラクターは、同人誌などの二次創作はとりあえず置いておくとして、「処女性」や「清純さ」といったアイドルとしての機能を、その作品中で果たしている。

逆に言えば『ルパン三世』の峰不二子や、『新世紀エヴァンゲリオン』の葛城ミサトを演じる声優は「アイドル声優」たりえない。

ところが、モーニング娘。以降、女性アイドル歌手がグループとしてしか成立しなくなり、明らかに芸能界での機能が変質したのに対して、女性の「アイドル声優」は2000年以降も依然としてアニメ業界、声優業界の中で一つの機能として成立している。

つまり「処女性」や「無垢性」のようなものが、アニメーションの中ではいまだに虚構として機能することができており、その「処女性」や「無垢性」の負荷を連帯して背負うことができる女性声優も「アイドル」として機能し続けている。

水樹奈々はすでに30歳を過ぎているが、それでも2000年代(ゼロ年代)を代表する「アイドル声優」の一人として社会の中で機能し得ているのは、アニメのキャラクターとセットであるという、声優ならではの構造によるものだろう。

もう一つ、「アイドル声優」が「処女性」や「無垢性」の機能を現実の社会で果たし続けられるのは、逆説的ではあるが、水樹奈々のような「アイドル声優」が演じるアニメのキャラクターが、二次創作の中で「処女性」や「無垢性」を剥奪されるからこそである。

つまり、原作のアニメでは、水樹奈々の演じる魔法少女や、吸血鬼の血を引く半人半獣の女子高生は、当然のことだが、深夜の時間帯に放送される作品であっても、直接的に性的関心の対象として描かれることはない。

だからこそ、それら『魔法少女リリカルなのは』や『BLOOD-C』を元ネタとする、同人誌などの二次創作では、それらのキャラクターは性的な対象として描かれる。

この原作と二次創作との間で、性的でない側面と性的な側面が機能的にきれいに分離されているからこそ、原作側でそのキャラクターを演じる女性声優の「処女性」や「無垢性」の機能が担保されるのだ。

なので、水樹奈々が声優であるという背景を全く知らない人々、あるいはその背景を一旦カッコに入れてしまうと、彼女の「アイドル声優」としての振る舞いは、この2000年代の芸能界においては明らかに白々しい、時代錯誤のものとして、浮いてしまう。

例えば1970年代に、日本各地にキャンディーズの親衛隊が結成され、いい年をした大学生がコンサートでは鉢巻などの「ユニフォーム」で、喉を枯らしてキャンディーズを応援することは、本来なら、2000年代のオタ芸と同じくらい奇怪で、ある人々の目から見れば、ただただ気持ち悪い行動様式のはずである。

ところが、1970年代、80年代アイドルの親衛隊が、青春のほろ苦い思い出のようにして正当化されるのに、2000年代のオタ芸が単に気味の悪い没入として一般人に忌避されるとすれば、理由はアイドルやアイドルのファンの方ではなく、日本社会の変質の方にある。

かつては、アイドルが「処女性」や「無垢性」の機能を果たしうる余地が、現実の日本社会に残されていたのに対して、今やアイドルの「処女性」や「無垢性」を担保するためには、まずそれがアニメという、いわざ二重化された虚構、エンターテインメント業界というだけで、一義的に虚構化されているのに、さらにそれを実写ではなくアニメで表現することで虚構化するという、二重化された虚構に裏付けられていることが必要となる。

そしてさらに、原作としてのアニメ作品が、同人という、性的な表現を許容する二次創作によって拡張されることが必要となる。

実写作品ではないアニメという虚構の二重性と、さらに原作を拡張する二次創作の場という、その虚構を楽しむ受容の方法の二重性、これだけの条件がととのって初めて、「アイドル声優」の「処女性」や「無垢性」が担保されているということだ。

言うまでもなく実写作品にベタに感動することに対して、アニメ作品をさらに二次創作した同人作品を楽しむという作品受容の形態は、作品受容の単純化ではなく複雑化である。

有り体に言えば、実写作品にベタに感動するのはバカでもできるが、アニメ作品の二次創作、さらにその二次創作といったN次創作を楽しむ作品受容は、バカにはできない。

水樹奈々のような「アイドル声優」は、その意味で、実写作品にベタに没入することしかできない、旧時代的な作品受容の能力しかない消費者にとっては、西洋古典音楽のオペラ作品のように、実年齢が70歳のソプラノ歌手が、厚化粧で20代の娘を演じるのと同じように、ただただ気味の悪い存在にしか見えない。

しかし現実には、「アイドル声優」という機能の成立には、多重化された虚構や、多重化された作品受容という、社会の複雑化が背景として存在する。

逆に言えば、社会の複雑化に対応して、松田聖子のような生身のアイドル歌手という機能は社会においてもはや成立しなくなり、初音ミクのようなボーカロイドのアイドル歌手であったり、水樹奈々のような「アイドル声優」といった、社会に適合した「アイドル」の機能が新たに生み出された、ということなのだ。

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2011/11/07

TPPについて、日経ビジネスのクズ記事とGIGAZINEの優良記事

日経ビジネスオンラインのTPP擁護記事がひどすぎる。

『「農業の守り方を間違った」元農水次官の告白』第1回 高木勇樹・元農林水産事務次官(日経ビジネスオンライン 『TPP亡国論のウソ』 2011/11/07)

『本当に重要なのはTPPに加入した後の戦略 TPPは亡国の政策か救国の政策か』(日経ビジネスオンライン 『小峰隆夫のワンクラス上の日本経済論』 2011/11/07)

今日掲載されたこの2つのTPP擁護論、読者コメントを見ると痛烈な批判が目立つ。日経BP社は、今の時代の読者がマスメディアだけでなく、インターネットからもさまざまな情報を得られることの、本当のインパクトをほとんど理解していない。

前者『元農水次官の告白』にいたっては、TPP擁護論について、元農水官僚にインタビューするという、編集部の意図が見え見えの構成だ。

日経ビジネスオンラインの編集部は、次のように読者をバカにしているのである。

”TPP反対派の読者は、TPPにもっとも激しく反対しているのは農水官僚だと思っているに違いない。であれば元農水官僚にTPP擁護論を語らせれば、読者もTPPに賛成するようになるはずだ”

というぐあいに。日経ビジネスオンラインの読者もバカにされたものだ。こんな見えすいたやり口であっさり騙されるほど、ネット時代の読者はバカではない。

その証拠に、これら日経ビジネスオンラインの「クズ記事」と、次のGIGAZINEの良質な記事を読み比べてみるとよい。GIGAZINEのこれらの記事は、誰もが参照できる資料に語らせるという、よりフェアな方法でTPPのウラに隠れている米国の意図をあぶり出している。

日経ビジネスオンラインの編集部よりも、はるかに頭のいいやり方だし、読者に新しいインターネット上の資料を示すことで、議論をよりオープンな方向へ導いている。見えすいたやり口で読者の意見をTPP擁護の方向へ誘導しようなどという、姑息な手段はとっていない。

『アメリカで「TPP」を推進して米政府を操る黒幕たちの正体』(GIGAZINE 2011/11/04 22:16:48)

『TPPは全世界で反対されている、自由貿易ではなく公正貿易が必要』(GIGAZINE 2011/11/05 17:25:40)

これらのGIGAZINEの記事をざっと見てみよう。

前者は米国政府自身が作成しているウェブサイトを紹介し、米国政府が国内向けにTPPのメリットをいかに具体的に説明しているか、その資料をありのままに示すことに徹している。

そして後半では、日本で言う経団連にあたるTPP推進の圧力団体のウェブサイトを、その参加企業のリストとともに紹介することに徹している。

これら米国のウェブサイトを紹介することで、GIGAZINE編集部は、日本政府がいかにまずいやり方で意思決定しようとしているかをあぶり出している。

つまり日本政府は、日本国民に対して、これら米国のウェブサイトに相当するようなきめ細かい情報提供をまったくおこなわないまま、首相の「政治判断」という単なる独断で国の行方を決めようとしている。そういう日本政府のバカさ加減をあぶり出している。

さらに後者の記事、『TPPは全世界で反対されている、自由貿易ではなく公正貿易が必要』では、TPP反対論が米国内にも存在することを暴露し、さらに網羅的なTPP反対論の一覧表を示している。

そして記事の最後に、外交交渉とはどういうものかを、コンパクトかつ明解に示している。例えば次のように。

「TPPについて、賛成とか反対とかは問題ではなく、実は問題となっているのはただ一点、『今から交渉する余地は本当にまだ残されているのか』という点のみです」(同GIGAZINEの記事より引用)
「質問する中身自体が既に問題の本質を突いた答えになっており、あとは相手がどのように回答しても問題なくさらに先へ話を進められるように持っていく、これが『交渉』です。(中略)『交渉』と『話し合い』は違うのです」(同GIGAZINE)
「TPPに関する議論はほとんどが問題の範囲を農業などに『矮小化』することと、『TPPに賛成か反対か』という極端な選択肢に集約されています。(中略)これもまた『交渉』の一パターンであり、今の日本は上から下までこの『交渉』にうまくのせられ、既に操られてしまっている、というわけです」(同GIGAZINE)

つまり、日経ビジネスオンラインのように、「TPPに賛成か反対か」という選択肢を前提にし、まして読者をTPP賛成へ誘導するような記事を書いてしまうこと自体が、すでに日本がTPPの「交渉」において、主導権を失っており、ただあやつられているということの何よりの証拠である。

GIGAZINEの記事はここまで議論を詰めているのだ。

日経ビジネスオンラインとGIGAZINEの、どちらがまっとうな社会人の読むべき良質なウェブサイトか、言うまでもないだろう。

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2011/11/02

alanの新契約先はハン・ギョンと同じ楽華娯楽社

昨日に引きつづいて、avex Chinaの解散とalanの新契約先に関するニュースが新浪エンタメニュースに掲載された。例によって日本語に試訳する。

いずれにせよ、alanが新事務所と契約することで、中国国外での活躍も継続することになったようで、日本に住むalanファンとしては、期待が持てるところだ。

もちろん、だからといってalanが今まで以上に日本でブレイクするとは到底思えないが、やはり中国人歌手は、中国大陸の音楽業界に精通した現地の事務所に所属しなければ、安定した活動ができないということなのだろうか。


《爱贝克思中国解散 阿兰转签内地唱片公司》(2011/11/02 avex China解散、alanは中国大陸のレコード会社と契約)

(試訳ここから)

「今年10月、設立5年、中国大陸市場に専心してきたエイベックス音楽影像制作(中国)有限公司は静かに解散した。解散前、avex Chinaは数人のアーティストにそれぞれの転出先を提供し、チベット族の歌手alanはすでに中国大陸の別の会社と契約した。

日本最大規模のレコード会社エイベックスは本部の決裁を経て、avex Chinaを解散し、中華圏全体をエイベックス台湾の単なる一部門にとどめた。太合麦田社が「レコードはすでに死んだ」と宣言し、新たに新人と契約しないことを発表したことに継いで、今回のavex Chinaの解体は、また中国大陸の音楽業界の一大ニュースとなった。この知らせが一度確認されると、avex China所属の多くのアーティストの動向がホットな話題となった。信頼できる筋によると、歌手のalanは中国大陸の楽華娯楽から高額の報酬を得て契約したとのことだ。同時に、alanは引きつづき海外市場での発展も拡大していくとのこと」

(試訳ここまで)

ちなみにalanが新たに契約した楽華娯楽という事務所は、元Super Juniorのメンバーであるハン・ギョン氏が所属している、中国大陸では大手の芸能事務所である。

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2011/11/01

avex China解散の裏事情?

avex Chinaの解散について、本当の背景とおぼしきことが中国ツイッター(新浪微博)で語られていたので、日本語試訳で引用してみる。

ちなみにこの情報は、中国大陸からネット規制をくぐりぬけてツイッターをしているらしい@bibileniから教えていただいた。

日本在住で中国のalanファンの間では有名な朱耀忠さんも、今日(2011/11/01)avex Chinaが解散したことをつぶやいたのだが、それを湖南放送の日本駐在員である欧陽楽耕さんがリツイートしつつ、コメントを付け加えている。

欧陽楽耕 2011/11/01 16:09

まず、もともとのavex China解散についての朱耀忠さんのツイートを日本語訳してみる。

「avex Chinaが解散。avex Chinaの運営は昨日(訳注:2011/10/31)までとなり、今日から同社社員は散り散りになる。私は前から知っていたし、alanがavexを離れて、中国大陸の別の新興レコード会社に転じているのも知っていたけれど、それでも残念に思う。今日から堂々とこのことを報道できるので、私も書いていいというわけだ。avex Chinaの友人である、劉君と、涛さんに言いたい、ご苦労さまでした!」(2011/11/01 14:37 朱耀忠さんのツイート)

次に、このツイートに対するリツイート部分を日本語訳してみる。これもあくまで試訳なのでご注意を。

欧陽楽耕:「中国レコード市場はすでにジリ貧の末路ですね。当時、彼らエイベックスが中国に進出した時、多額の投資をしました。私は北京支社の責任者である斎藤氏と何度かお会いしたことがあります。中国で稼ぐのは、難しすぎます」(2011/11/01 15:57)
朱耀忠:「要するにあなたは彼らを助けてあげなかったと」(2011/11/01 16:04)
欧陽楽耕:「彼らはいわゆる中国のトップ人脈の迷信を信じすぎたんです。最初からかなりの金をとられてましたし」(2011/11/01 16:09)
朱耀忠:「あらら、中国に進出する日本企業はどこも回り道をするんだね」(2011/11/01 16:16)
欧陽楽耕:「日本人は三国志を見過ぎ。自然とこうなってしまいます。我々なら解決できる事ですが。たぶん彼らエイベックスは残念なことに近きを捨てて遠くを求めたわけです。簡単なことを複雑にした。彼らはプロセスを楽しむのが好きなんですね」(2011/11/01 16:21)

この湖南放送(湖南は中国の湖南省のことね)の日本駐在員の方のコメントを読んで、僕が思い出したのは、温家宝の歓迎会に出席するalanの姿だ。

なんとなく、理想主義者で真っ直ぐなエイベックスのスタッフが、老獪な中国政府の役人に、うかつにもビジネスに何の役にも立たない交際費をつぎ込んだ姿が思い浮かぶようなのだ。

だから言わないことはない。理想やきれいごとだけで、ビジネスが成り立つはずがないのだ。

エイベックスが新人発掘と育成という、日本国内のビジネスモデルに固執したのも、ある意味、理想主義的すぎる。

そうしたことを、上記の湖南放送の日本駐在員のコメントが証明しているような気がして、そのためにalanの才能が十分活かされなかったのかと思うと、残念で仕方ない。

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エイベックス・チャイナ2011年10月31日に解散

avex chinaが2011/10/31に解散していたことが分かった。以前ここで紹介した「うわさ」は嘘ではなかったようだ。下記リンク先の新浪音楽のニュースページを日本語訳してみる。あくまで試訳なのでご注意を。

また記事の後半には、以前ここで紹介した『新聞晨報』の、alanがavex Chinaとの契約を打ち切ったという記事の一部がそのまま引用されている。

《爱贝克思中国低调解散 阿兰等艺人转投新东家》(2011/11/01 14:54 新浪娯楽『avex China静かに解散 alan等のアーティストは新しい契約先に』)

(試訳ここから)

Xinlangyinyue20111101a

10月18日、台湾の歌手・信のニューアルバム発表会で、全てのメディアは「これがavex Chinaがおこなう最後の発表会である……」との知らせを受けた。同月、設立5年、中国大陸市場に専心してきたエイベックス音楽影像制作(中国)有限公司は静かに解散した。解散前、avex Chinaは数少ないアーティストたちに既に転出先を提供し、最も注目されていたチベット族歌手alanも既に中国大陸の別の会社に転じて契約した。しかし、信、彭于晏、A-Linなどエイベックス台湾のアーティストは影響を受けない。

avex Chinaは設立5年で解散、台湾部門は残る

2006年、日本最大規模のレコード会社エイベックスは巨額の資金を投じて中国大陸市場に進出、同年11月北京で正式にエイベックス音楽影像制作(中国)有限公司を設立、設立と同時に江一燕とトップアーティストとして契約した。

5年間、エイベックスはalan、関喆、風雲組合などのアーティストと次々と契約、決して他社に所属していたアーティストと契約せず、音楽の品質も重視したが、変化の激しい中国市場で地歩を固められなかった。2011年10月、エイベックス日本本部はエイベックス中国の解散を発表、中華圏全体をエイベックス台湾の単なる一部門にとどめた。

18日、信のニューアルバム発表会で、メディアは「これがavex Chinaが行う最後の発表会である……」との知らせを受け、そのような声明が公開されるとの情報がスタッフからも漏らされた。しかし31日をもって、avex Chinaはすでに解散しており、新浪娯楽はエイベックスの元スタッフと連絡をとり、彼が既に別の道に進んでいることを知り得た。しかし正式な情報による状況説明はない。

経営不振で解散に プロ歌手と契約せず新人をブレイクさせる困難

関係者によれば、エイベックスが今回中国大陸の支社を閉鎖したのは全て日本の本部の決定によるとのことだ。新しいリーダーが中国大陸のレコード業界は不景気だと認識し、利益をあげられず、これにより日本以外の支社は縮小するとした。討議の結果、avex Chinaは即解散の宣告となった。関係者の分析によれば、プロの歌手なら既に多くのコンテストを経て一定の人気とライブの実力があり、容易にブレイクできるが、エイベックスはプロの歌手と契約するのを望まなかった。エイベックスは伝統的な新人を育成する方法をとったが、低迷する市場で一定の地位を占めるのは難しかった。しかも海賊版の被害にあったために、今回の解散を免れなかった。

メディアの報道によれば、解散前のavex Chinaの決算は黒字の状態で、その一部はライブによるもので、音楽のダウンロード販売によるものもあったが、支出が収入を超えたため、最終的には資金不足となった。エイベックスの日本本部は大きな利益を上げられない中国大陸のエイベックス支社について閉鎖を選択することしかできなかった。それによって台湾や東京等の法人で人員削減することで経営を正常化した。

alanなどは新しい会社を探す 台湾支社のアーティストに影響なし

それ以前に、avex China所属の歌手はすでに一人また一人と解約しており、関喆と風雲組合はすでに一年前に解約、日本で素晴らしい活躍をするalanも中国大陸の別の会社に転じて契約し、中国大陸でのマネジメント契約とレコード発売契約を新たな会社と交わしている。しかし台湾地区のアーティストはそれほど大きな影響を受けない。報道によれば、エイベックス台湾のアーティストは、Dance FlowとRommieの2グループが解約されたのを除いて、信、彭于晏、A-Linなどの活動は正常に進められ、彼らの中国大陸での宣伝活動は台湾チームが直接引き継ぐか、大陸で新たなチームを探して行うとのことだ。

エイベックスは1988年設立、本部は日本の東京にあり、日本の独立系レコード会社の基礎を築いた。浜崎あゆみ、安室奈美恵、倖田來未、大塚愛、EXILEなど、日本の第一線のアーティストを擁する。業務はCD制作発行、アーティスト・マネジメント、ライブ企画制作、ファンクラブ運営、アーティスト発掘および育成等。エイベックスは東京本部の他、香港、台湾、北京等に現地法人を持つ。2011年10月、北京のavex Chinaは静かに解散。

(試訳ここまで)


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