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2011年12月の記事

2011/12/31

中野剛志『TPP亡国論』を今ごろ読んだ

中野剛志『TPP亡国論』(集英社新書)を今ごろ読んだ。本書のあとがきは2011/02に書かれているので東日本大震災前だ。

本書はAmazonの星1つの書評をあわせて読むとおもしろい。星1つの書評が、ほとんどまともな反論になっていないからだ。

なぜまともな反論になっていないか、その理由を一言でまとめると、そういった反論が、終戦後の日本の経済成長がすべて意図的な対米追従外交の上に作り上げられたものであることに無自覚だからだ。

東大卒で経産省のお役人である中野剛志は、戦後の官僚たちが「敢えてする対米追従」の下に国民たちを「平和ボケ」のままにしておくことでしか、日本の復興と経済成長がありえないことを見越していたことを知った上で、本書を書いている。

例えば、ソニーやホンダは、旧通産省による官僚的生産統制をはねのけたからこそ日本の高度経済成長が実現したのだ、というレビューがあるが、これこそ官僚の手のひらの上で見事に踊らされている「愚民」の典型と言っていい。

発展途上国の経済成長は、新規市場の開拓や技術革新ではなく、単なる人口の増加による労働集約の結果だ。日本の高度経済成長もしかり。

確かにソニーやホンダは画期的な商品を送り出し、海外市場を開拓したかもしれないが、それが日本の高度経済成長の主な動力になったわけでは決してない。日本の高度経済成長の主な動力は、戦後の急激な人口の増加である。

それに加えて、官僚に後押しされた田中角栄が徹底した公共投資を行なって内需をなかば強引に拡大したことで、地方にも雇用が産み出され、地方の労働者が農業などの一次産業から「引きはがされ」、ソニーやホンダのような二次産業の労働力へ人工的に転換された。

そういう官僚的内需拡大政策と産業構造の転換政策があったからこそ、ソニーやホンダのような企業が日本国内で大量の工場労働者を獲得し、資本を蓄積し、たっぷりと研究開発投資ができるようになり、技術革新や海外進出の足場を築くことができたのだ。

まるで民間企業が、官僚のそうした意図的な内需拡大・産業構造転換政策の恩恵とは無関係に、独力で技術革新と海外市場の開拓を成し遂げたかのような「大いなる勘違い」をしている国民の存在こそが、むしろ旧通産省による官僚的生産統制がいかに成功したかの証拠になっている。

と同時に、自称「官僚制に批判的な良識ある市民」が、いかに官僚の手のひらの上で踊らされてることに無自覚であるかの証拠にもなっている。

経産省出身である中野剛志はそういった、自分は賢いと思い込んでいる「愚民」の勘違いなど、とうの昔にお見通しなわけで、その上でこの『TPP亡国論』という「あえて」扇動的なタイトルの本を書いているわけだ。

「あえて」扇動的というのは、今度は本書の主張を受けいれる側に立ってみれば分かる。

本書の表面上の主張に乗っかって、TPP反対!と言い出すやいなや、中野剛志の論理展開によれば、それは「自主防衛」ということになる。つまり米国の軍事力の傘からの離脱ということだ。

本書をそういうふうに理解して、「そうだそうだ、日本は米国の軍事力に守ってもらうのではなく、自主防衛のために再軍備しなければいけない。そうして初めてTPPのような対米追従的な外交から逃れることができるのだ!」と読者が考えるとすれば、これもまた中野剛志の「あえてする」扇動に間違ってハマっていることになる。

中野剛志の言う「自主防衛」は、ある種の皮肉と解釈すべきだろう。つまり「自主防衛なんて、やれるもんならやってみろよ」というのが中野剛志の本当の主張と解釈すべきだ。

つまり、TPP賛成の立場なら、日本の内需を縮小させ、デフレを悪化させるのを覚悟で、対米追従外交、あるいは、少なくとも米国と明示的に対立しない外交的立場を維持することになる。

TPP反対の立場なら、自主防衛への外交政策転換で米国と対立することによる、アジア地域での日本の外交的地位の低下を覚悟しなければならない。

TPPに賛成しようが反対しようが、日本の経済的・外交的状況がそれほど良くなるわけではない。それが中野剛志の論旨だ。

じゃあ本書はいったい何が言いたいんだ!と言えば、簡単なことで、TPPに関する賛否を「あえて」明示的に論じない外交がもっとも賢明である、というだけのことだ。

本書を読んで、TPP反対派が「我が意を得たり!」と思うのも誤読だし、TPP賛成派が「官僚による統制経済を復活させるのか!」と怒るのも誤読である。

白黒はっきり付ける決然主義でなければ外交じゃない、という発想こそが「愚民」の低レベルな発想でしょ、というのが、本書における中野剛志の「あえてする」TPP亡国論のメタメッセージなわけだ。

そこまで読み込んでこそ、一人の国民としてようやく経産省の官僚である中野剛志と、何とか互角に議論できるわけで、Amazonの特に星1つのレビューのように、いちいち噴き上がっていたのでは、やはり「愚民」は「愚民」に過ぎないというオチになってしまう。

中野剛志がニコニコ生放送で語っていたことだが、そんな中野剛志から見て、古賀茂明のような元経産省官僚が滑稽に映るのは当然だろう。

本書『TPP亡国論』の「あとがき」で中野剛志は、経産省が風通しの良い組織であることを強調している。これはおそらく本当だ。ただし、「あえてする」TPP亡国論のように、特定の議論にわざと没入するという皮肉を自覚的に効かせることができる人間にとってだけ、風通しの良い組織なのだろう。

そんな中野剛志からすると、古賀茂明は「愚民」の噴き上がりにベタに共感して官僚たたきをしてしまっている「単なるバカ」にしか見えないに違いない。

ただ、中野剛志のような経産省の内部者の立場としては、わざわざ経産省を離れて「愚民」と共闘し、官僚たたきをしてくれる古賀茂明のような人物は、戦略的に考えると「ガス抜き」装置として極めて有用である。

古賀茂明程度の元官僚の官僚たたきなど、おそらく官僚たちにとって痛くも痒くもない。その程度の官僚たたきで「愚民」が溜飲を下げてくれるなら、官僚たちにとってはかえって仕事がしやすくなるというものだ。

本書『TPP亡国論』の中で、中野剛志がやたらと「戦略的」という言葉の真の意味にこだわっているのは偶然ではない。古賀茂明を「愚民」のガス抜き装置として活用するぐらいの「戦略」がなければ、対米追従外交からの離脱など望むべくもない、ということである。

本書は実はそれくらい身も蓋もない書き方がされている本だということを、所詮「愚民」である一般の読者が読み取ることまでは、中野剛志はちっとも期待していないだろうが、一応僕の方が駒場後期課程のたぶん一年先輩(駒場の国際関係論卒だと初めて知ったよ全く)なので、勝手ながら書かせてもらった。

当然、外交カードがゼロどころか、マイナスの状態で、TPP参加交渉表明してしまった野田首相など、中野剛志のような官僚から見れば「愚民」の一人に過ぎないことは言うまでもない。

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2011/12/30

厄払いを勧められたときの完璧な反論法

忘年会で起こった、ちょっとおもしろい出来事について。

同じ職場に来年本厄をむかえる社員が複数名いることが話題になり、管理職が酒も入って半分冗談で「初詣で厄払いしておいた方がいいよ」と話した。

単なる酒の席での笑い話なので、真面目にツッコミを入れる話題ではないのだが、僕個人としてはここ数年間でもっともひどかったのは一昨年、単身赴任先で本格的なうつ病に罹ったことだ。

最新の抗うつ剤(SNRI)のおかげで、1年前の自分が信じられないほど寛解に向かっているが、酒が飲めない僕はその場で、その管理職に向かって「じゃあ僕の一昨年のうつ病は何だったんでしょうね」と意地悪なツッコミを入れたくなった。

なので僕は個人的に「厄年」などというオカルトはどうでもいいし、職場の忘年会で、いまだうつ病の治療中である社員のいる席で、まさに来年2012年に「本厄」を迎える僕に対して、管理職がうかつに口にすべき話題でもないと思う。

一般的な日本人の半分冗談、半分本気の非合理性、非科学的態度というのは、この程度のものなので、そもそも一般的な日本人とは、彼らは合理性をあえて忌避しているのだという前提で雑談した方がいいのだ。

その意味では宮台真司・大塚英志の『愚民社会』という書物も、日本の市民に対する理性による啓蒙に、幾分かの希望を見出している点で、まだまだ楽観的すぎるのかもしれない。

そもそもこの『愚民社会』を、たまたま書店で手にとって勢いで購入したとしても、僕の職場にいる人間にはちんぷんかんぷんで、完読できるはずがない。

ルーマンの社会システム理論、フッサールの現象学、ルソーの社会契約論みたいなものは、日本の高等教育では一切まともに教えないのだから、参考文献からして既に日本のふつうの会社員にとっては意味不明なのだ。

ところで、それでも「本厄(前厄)なんだから厄払いしなさい」と言われたら、次のようにさらっと反論しておくのがいい。

「厄払いしないで悪いことが起こったら、あなたはきっと『厄払いしなかったからだ』と言うでしょう。

厄払いして悪いことが起こったら、あなたはきっと『厄払いしたからこの程度で済んだんだ』と言うでしょう。

厄払いしないで無事過ごせたら、あなたはきっと『運が良かっただけだ』と言うでしょう。

厄払いして無事過ごせたら、あなたはきっと『厄払いしたおかげだ』と言うでしょう。

結局、来年がどんな年になっても、厄払いしたかしなかったかとは、全く無関係だということを、あなた自身が証明することになるということは、すでにわかっています。

なので、厄払いなんてものにムダな金をかける必要はないですよ」

そういうわけで、初詣で厄払いするよりも、自分の愚かさに対する自覚を掘り下げることに時間とお金をかける方が、よほど有意義な一年を送れるというものだ。

こういう合理的な判断のできない人間が管理職になっても、日本企業はつぶれずに回るのだから、一般的な企業に見られるマックス・ウェーバーの本来の意味での官僚制組織というのは、よくできた社会サブシステムだと実感する。

つまり、僕自身も含めてバカが集まっても、そのバカさ加減が最悪の結果を生み出さないような自己保存機能がはたらくように出来ているのだ。

そういうふうに社会というものは、誰かの作為によって設計され、維持されているということを自覚していないからこそ、ふつうの会社員は「厄払い」といったオカルト主義を平気で口にできるのであり、マスメディアにあっさり「洗脳」されてしまうのだ。

フリージャーナリストの上杉隆が、昨日のニコニコ生放送で、来年2012年はきっとマスメディアが、福島第一原発事故を忘却し、復興のために前向きにがんばろうというキャンペーンを張るだろうと予言していたが、たぶんそうなる気がする。

前向き、ポジティブ、こういった言葉にいとも簡単に感染してしまうのが、ほとんどの一般的会社員だから。

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2011/12/28

宮台真司・大塚英志『愚民社会』を読んだ

宮台真司・大塚英志『愚民社会』(太田出版)を読んだ。

普段から宮台真司の議論をフォローしている人にとっては、最近の宮台真司の議論のおさらいになるので、いつもながらとても明快な内容で、何の違和感もない。

ただ、本書が宮台真司の他の著書と違う点は、大塚英志氏がかなりしつこく宮台真司のコミュニケーション戦略を相対化し、ツッコミを入れているところだ。

特に第三章で大塚英志が宮台真司に対して、あえてする改憲の主張という戦略に、本当に不備がないと思っているのか、しつこくつっこんでいる部分が参考になる。

そのしつこいツッコミに対して、宮台真司は最後の最後では自分は楽観的であると告白し、それに対して大塚英志は悲観的であると告白する。

つまり、宮台真司は啓蒙的なコミュニケーションが、ごく少数の人々に対してであっても影響をおよぼし、日本の不毛な政治的・文化的言論を変えることができるという希望を持っているが、大塚英志は啓蒙的なコミュニケーションよりも、既存の思考様式にのっかる、ある種の単純化・マニュアル化という切り下げのコミュニケーションでなければ、何も変わらないと悲観的だ。

僕個人の立場は大塚英志に近い。

宮台真司の議論はつねに明快だけれど、僕自身も正しく理解している自信はない。単なる宮台フォロアー、似非ミヤダイ信者と化しているおそれは十分にある。それは、結局のところ宮台真司本人に判定してもらうしかない。

いまあえて「宮台真司本人に判定してもらうしかない」と書いたように、宮台真司が自分の議論についての誤解を、懸命に訂正すればするほど、宮台真司の議論を読んだり聞いたりしている人たちは、ますます自分の理解が間違っているのではないかと不安になる。

そして不安になればなるほど、ますます宮台真司の言論に依存するようになる。これは宮台フォロアーを増やすだけで、宮台真司が期待しているように、彼の協力者を増やす結果にはならない。

結果として、日本の市民は、宮台フォロアーと、宮台嫌いと、宮台真司を含む言論空間全般に無関心な一般人の三種類に別れる。圧倒的多数を占めるのは、もちろん無関心な一般人で、宮台嫌いは、宮台真司の議論に多少なりとも関心を持つだけまし、ということになる。

この状況に悲観的にならない宮台真司が理解できない、という大塚英志の「感覚」は、僕も大いに共感する。

宮台真司は承認を決して安売りしない。それは思想家としては正しいが、いくら宮台氏自身が「あえて」大乗仏教的な説き方をしたところで、無関心な一般人にその声はそもそも届かない。

宮台真司は自分の声が、宮台氏が顔を思い浮かべることの出きる数十人、数百人単位の人たちを除いて、誤解されるどころか、まったく届いていないことに「あえて」気づかないふりをしているのだろうか。

こんなことを書いている僕の声は、残念ながら宮台真司には届かない。届かないので、僕は自分の解釈を訂正しようがない。訂正しようがない限り、僕は宮台真司を正しく理解しているかどうかについて、永遠に宙吊りのままになる。

永遠に宙吊りのままでは、僕は宮台真司の議論に同意することはできても、それに基づいて行動することまではできない。いや、正確に言えば、行動しないことはできないので、自分の行動が僕が個人的に正しいと考えている宮台真司の意図に沿った結果を生み出すものなのか、僕一人では検証できない。

そうしてますます似非ミヤダイ信者として、宮台真司の言説に依存せざるを得なくなる。

『愚民社会』の書評として、こんな下らないブログが書かれていることについて、宮台真司はがっくりするしかないだろう。

しかしそれは宮台真司のコミュニケーションが、僕のような「愚民」に届いたときに常に引き起こす蓋然性のある「コミュニケーションの失敗」なのだから仕方ない。

宮台真司自身が宮台真司をめぐるコミュニケーションのすべてを、完全にコントロールできるという考え方は、言うまでもなく自己矛盾だ。失敗が起こりえないなら、そもそも愚民社会を議論する必要さえない。

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2011/12/24

『輪るピングドラム』における作為の契機と愛と共同性

『輪るピングドラム』がTBSでは昨晩最終回をむかえたので、とりあえず最初のレビューを書いてみる。表現技法については置いておいて、物語についてのレビューだ。

この物語は、要約すると次のようなことだと思う。

いま自分が生きている世界は、別の姿でもありえたが、その別の世界で起こったかもしれない大きな不幸をなくすために犠牲になった誰かのおかげで、いまの自分がある。この世界は、運命が決めたものでもなく、自分一人の意思で変えられるものでもなく、みんながいっしょに作っているものだ。

でも、最終回を見て、次のように思った人もいるかもしれない。

『輪るピングドラム』は並行世界についてのお話である。こうであったかもしれない世界もあれば、ああであったかもしれない世界もある。複数の可能な世界が、地下鉄のように入り組みながら走っている。

登場人物たちは、主人公の少女(高倉陽毬)の命を救うために、一つの世界から別の世界へジャンプした。その結果、元の世界で三人でいっしょに暮らしていた幸福を失ったが、少女の命は救われた。

こんなふうに解釈することもたしかにできそうだ。

でも『輪るピングドラム』は複数の並行世界を、SF的に客観的かつ平等にあつかっているお話ではない。そうではなく、いま自分が生きている世界がいかに理不尽であっても、それを引き受けなければならないというお話だ。

三人がいっしょに暮らしていた世界は、あくまでこの世界を説明するための単なる仮定、単なる手段である。

自分が生きている世界は自分で選んだわけでもないのに、どうして押し付けられなきゃならないのか、と言いたくなるかもしれない。

その素朴な疑問に対して、いやいや引き受けなければならない理由があって、それはこういうことだよ、と語りかけてくるのが『輪るピングドラム』である。

もう少しくわしく説明しよう。

自分が生きている世界は、たしかに自分が複数の選択肢から自分の意思で選んだものではない。SFの並行世界のように、一つの世界から別の世界へ自分の意思でジャンプできるようなものではない。

しかし、自分が選んだものではないからといって、この世界は神様のような人間を超えた存在が作ったものではないし、自分が「この」世界に生まれたのは、運命のような抗しがたい力によるものでもない。

この世界は自分と同じ、不完全で説得可能な人間たちが作り上げた、あくまで人為的なものである。神が創ったものでも、運命が決めたものでもない。

僕らがまず自覚しなきゃいけないのは、この世界で僕らが受ける不幸も幸福も、僕らと同じ人間が作り出したものということだ。

そういう不幸や幸福を、神様や運命といった人智を超えたものの責任にするのは、この世界に生きている人間は自分一人だけだという、とんでもない思い上がりか、自分は何ものでもないという、とんでもない自己否定かの、どちらかだ。

『輪るピングドラム』によく登場する、運命という言葉が嫌いだ、というセリフは、この世界が人間の作った不完全なものであることを引き受けよう、というメッセージである。

また、「何ものにもなれないお前たち」というセリフは、この世界が神様や運命といった人智を超えたものの産物だと思い込んでいる人たちに向けられている。この世界は人間の作ったものだ。

ただ、この世界が人間の作ったものであることを認めるのは、大変だけれど、死ぬほどではない。

主人公の少女(高倉陽毬)と、血のつながらない二人の兄(高倉冠葉、高倉晶馬)の三人がいっしょに暮らしていた世界は、『輪るピングドラム』の中では実在するものとしてではなく、この世界が人間の作ったものだということを説明するための、単なる手段として描かれている。

ふつうに考えれば、あの三人、高倉冠葉、高倉晶馬、高倉陽毬の血のつながらない三兄弟の生活こそ、理想的な世界のように思える。

しかし、あの三人の共同生活がある世界は、世界は自分の自由意志で選ぶことができると考えた人々が起こした、大きな不幸の上に成り立っていた。

物語の中で「企鵝の会」という、オウム真理教を思い出させる宗教団体が、地下鉄で起こした爆破テロ事件がそれだ。

しかし爆破テロという主体的な行為によって、世界は天国のような場所にはならなかった。世界は特定の人たちの自由意志だけで、一発逆転みたいに天国に変えられるほど単純ではない。

ところが、テロ行為を起こした家族に生まれた息子である高倉冠葉は、中途半端な幸福しかない世界を、両親と同じ考え方で、一気に幸福な世界に変えようとする。

愛すべき妹の高倉陽毬が不治の病であるという設定は、この世界の幸福がどこまで行っても完璧ではなく、不幸とうらはらで、不完全であることの象徴だ。

高倉冠葉は、そんな中途半端な世界を、完璧な世界に変えるために、つまり、高倉陽毬の不治の病を完全に治すために、自分の両親がかつて使った「世界を一気に変える方法」を再び使おうとする。つまり地下鉄の爆破テロだ。

しかし、その高倉冠葉の血のつながらない弟である高倉晶馬は、自分の命が高倉冠葉のくれた「半分のリンゴ」で救われたことを、やっとのことで思い出す。

この「半分のリンゴ」は、自分の生きている世界が、人智を超えた存在によって保たれたのではなく、人間のささやかな優しさ、たった半分だけのリンゴのようなものによって作られたことを示している。

たしかにそうして作られた世界は、完璧に幸福というには程遠いかもしれない。むしろ不幸の方が多いと感じるかもしれない。しかし、不幸を運命のように思ってもいけないし、テロのような行為で一発逆転できるようなものだと思ってもいけない。

世界の不完全さを受けいれることで初めて、僕らはこの世界にささやかな幸福を感じながら、生き続けていけるのではないか。そうすることで初めて、僕らは「何ものか」になれるのではないか。

高倉晶馬が半分のリンゴを思い出したことで、高倉冠葉もようやく、この世界の不完全さと、この世界が自分たちと同じ人間の作ったものであることを受け入れ、「何ものか」になる。

「何ものか」になるということは、言い換えると、他の可能性、他の世界をあきらめるということだ。何かをあきらめなければ、この不完全な世界で生き続けることはできない。それが「生存戦略」である。

高倉冠葉が高倉陽毬の命を救うためにあきらめたのは、この世界を一発逆転で完全なものに変えられるという、まったく間違った狂信と、高倉陽毬が自分の愛すべき妹であるということだった。

そうすることで、高倉冠葉、高倉晶馬、高倉陽毬は、三人とも、ほんとうの意味での世界、つまり、不完全だけれどもささやかな幸せのある世界に戻ることができた。

その結果、高倉冠葉と高倉晶馬の兄弟は、結局、自分の愛すべき妹である高倉陽毬を失ったことになる。不完全なこの世界では、高倉陽毬はもはや、冠葉や晶馬の妹ではなく、見ず知らずの他人になってしまう。

でも、以前の世界でも、テロを決行して世界を失う代わりに、陽毬を救ったところで、そんな世界で三人とも生き延びることはできなかっただろう。

三人は、世界の完全性をあきらめたことで、初めて世界の中で生き延びることができた。生存戦略。

陽毬は、高倉冠葉と高倉晶馬の妹ではなく、知り合いでさえない、見ず知らずの他人になってしまうことで、実質的には二人の兄を失った。

それでも、三人ともが生き延びたこの不完全な世界には、世界がたしかに人間の作ったものだという「痕跡」がちゃんと残っているのだ。

「大スキだよ!!お兄ちゃんより」という、ぬいぐるみのお腹の中に入っていた手書きのメモ。

あのメモは、不幸なこともたくさんあるけれど、自分が「何ものか」としてこの世界を生き延びさせてくれた人々、この世界を作っている人々が、この世界に残した「痕跡」だ。

たとえこの世界で、たくさんの不幸や理不尽なことに出会っても、自分が「何ものか」として生きていけるのは、あのメモのように、この世界を作っている人々が、自分のために残してくれた「痕跡」があるからだ。

その「痕跡」を「愛」と呼んでもいいだろう。

すべてが運命で決められているのでもなく、すべてを自分の意思で一発逆転できるわけでもない、そんな不完全な世界には、逆に、自分に向けられた「愛」が至るところに散らばっている。

その「痕跡」は、この世界が人間の作ったがゆえに不完全であることの証拠でもあり、自分が愛されていることの証拠でもある。

幸福なことも不幸なこともふくめて、この世界は自分と同じような人間たちが、いっしょに作り上げたものだからこそ、至るところに自分に向けられた「愛」を見つけることができる。

僕らはこの世界が自分の選んだものではないこと、自分の意思だけではどうにもならないことを嘆く必要はない。

この世界が人々が共同で作っている不完全なものであることを受け入れれば、至るところに愛の痕跡を見いだすことができ、そのおかげで、この世界を紡ぎつづける作業に加わることができる。つまり「何ものか」になることができる。

運命の果実をいっしょに食べるということは、この不完全な世界が、自分ひとりではなく、人々がいっしょに作り上げているということだ。運命と呼ばれているものは、実は人々がいっしょに作り上げ、紡ぎつづけているこの世界そのものであるということだ。

この世界の人々がいっしょになって、この不完全な世界を作り上げ、紡ぎつづけていることに気づけたからこそ、三人は運命の果実を飲み下し、この世界が一冊のノートによってあらかじめ決められているといったような、運命の呪縛から解き放たれる。

運命の呪縛から解き放たれたとき、最終回までずっと、この世界を説明するための手段として描かれてきた架空の世界は、くるりと回転した。

そして、不完全だけれど、至るところに愛の痕跡を見いだせるこの世界、まさに僕らが生きているこの世界に、もどってくることができたのだ。

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2011/12/22

福島第一原発事故による健康被害の初の査読済み論文が米医学誌に掲載

ビデオニュース・ドットコムやTBSラジオ『Dig』でお馴染みのジャーナリスト・神保哲生さんのこちらのツイートで驚くべきことを知ってしまった。こちらのサイトだ。

Medical Journal Article: 14,000 U.S. Deaths Tied to Fukushima Reactor Disaster Fallout(2011/12/22 Global Research.ca)

とにかくこのページの本文を日本語に試訳してみる。

(ここから日本語試訳)

『International Journal of Health Services』の2011年12月号の主要論文によれば、米国での死亡者数増加のうち約14,000人は、日本の福島原発事故による放射性物質の降下と関連性があるとのことだ。これは福島事故の健康被害に関して、医学誌に初めて査読を経て出版された論文ということになる。

論文の全文はこちら。

International Journal of Health Services, Volume 42, Number 1, Pages 47–64, 2012 (based at the Johns Hopkins University, School of Hygiene and Public Health)

筆者のジョゼフ・マンガノとジャネット・シャーマンは、福島のメルトダウンの後の14週間の米国の約14,000の死亡例は、1986年チェルノブイリ後の17週間の16,500の死亡例に相当するとしている。福島事故後の死亡者数の増加は、米国の1歳以下の幼児で最も大きい。2010年春に対して2011年春の幼児の死亡者数は1.8%増加したが、それに対して事故以前の14週間で比較すると8.37%減少している。

3月11日福島原発の4基の原子炉で破滅的なメルトダウンが起こった、たった6日後、科学者たちは米国の沿岸部に毒性のある汚染物質の降下を検出した。それに続く米国環境保護庁の測定では、大気、水、牛乳の放射線レベルは米国全体の通常レベルの数百倍であることが分かった。米国でヨウ素131の降下が最も多く検出されたのは次の地域である(単位はピコキューリー。通常レベルの水中のヨウ素131濃度は約2ピコキューリー):アイダホ州ボイズ(390)、カンサスシティ(200)、ソルトレイクシティ(190)、フロリダ州ジャクソンビル(150)、ワシントン州オリンピア(125)、マサチューセッツ州ボストン(92)。

疫学者であるジョゼフ・マンガノは次のように言う。「福島の健康被害に関するこの研究は科学誌に初めて掲載されたものです。これは懸念すべきことで、日本の福島県が全世界に与える影響を理解するには、健康に関する研究をぜひ続ける必要があります。今回の発見は、新たな原子炉を建設するかどうか、老朽化した原子炉をあとどれくらい運転させ続けるかといった議論にとって重要な意味を持ちます」

マンガノは放射線と公衆衛生プロジェクトの事務局長で、27の査読済みの医学誌の論文およびレターの著者でもある。

内科医であり毒物学者であるジャネット・シャーマンは次のように言う。「私たちは引き続き研究をしていますが、それによればここ米国での実際の死亡者数は18,000に及ぶかもしれません。これは同じ期間のインフルエンザと肺炎による死亡者数の5倍にもなります。死亡者は全ての年齢層にわたっていますが、幼児が最も影響を受けていることが継続して観察されています。その理由は、幼児の組織の成長は速く、免疫機構が未発達で、放射性元素の影響が大人よりも大きいためです」

(日本語試訳ここまで)

とりあえずあまり時間がないので途中までしか訳さないが、気になった方は論文の原文(英語)を上記のリンク先のPDFファイルでお読み頂きたい。また上記の記事に誤訳があればご指摘頂きたい。

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2011/12/21

9割がプロジェクトの失敗を繰り返す理由の理由

日経ITProに、かなり下らない記事を見つけた。

『[結果報告]9割がプロジェクトの失敗を繰り返す』(2011/12/21 日経ITPro)

システム開発側の人たちに、直近のシステム開発について質問したアンケートで、「スケジュール遅延やコスト超過、稼働後のシステム障害、関係者間の信頼関係の悪化など、深刻な問題」が発生した割合が94.5%、そのうち「同じ失敗を繰り返している」割合が89.9%という結果だ。

回答者の65.7%がシステム開発会社側、残りがシステム利用企業側なので、「同じ失敗を繰り返している」という回答者のうち、過半数が「他の顧客企業でも同じような失敗を繰り返している」という意味で答えたことになる。

何より注目したいのは、「そこで回答者に、問題を引き起こした原因として、最も大きいと思うものを聞いた」その回答の割合だ。

(1)「人間力の欠如(合意形成がうまくいかない、対立関係を解消できない)」44.9%
(2)「マネジメント力の欠如(計画が甘い、指示・伝達がまずい)」43.5%
(3)「技術力の欠如(製品知識が足りない、技術的な経験不足)」11.6%

なんじゃこりゃ、と思わないだろうか。

「人間力」って意味不明の日本語だし、計画の甘さや、指示・伝達のまずさレベルの問題がわざわざ「マネジメント力」と名付けるほど大げさな論点だろうか。

ちなみに僕は、こんな簡単な原因も解決できないのかよ、と言いたいわけではない。僕が言いたいのは、本当の原因ではないことを原因だと思っているから、問題がいつまでたっても解決しないんじゃないの?ということだ。

たとえばこの記事では、以下のようなことが個別の失敗事例の「原因」だと推測している。

―「ユーザー側は高圧的にならず、もっと相手の意見を聞くなど柔軟な姿勢が必要」
―「PMにも決め付けや疑心暗鬼があり、対立関係を大きくした可能性がある」
―「不信感が漂う両者の歩み寄りが、どこかで必要だったのではないか」
―「予算に合わせた根拠なき見積りは、アンチパターンの一つである」
―「責任のなすり付けは、人間力の欠如といえる」
―「WBS(Work Breakdown Structure)などで作業を分解し、役割分担を明確にしなかった点はマネジメント力の欠如である」

...などなど。

これらの「原因」は情報システムの開発に限ったことだろうか。むしろ日本企業の組織に共通する、ごくありふれた特徴ではないだろうか。

カネを払う側がや非合理的に高圧的なのは、大手メーカーの購買部門の仕事の様子を見ればすぐにわかる。社内情報システム部門だって、外からモノを購入するときは、購入先に対して非合理的なほど圧迫的なコミュニケーションをとる。

その結果、協力関係どころか、お互いに感情的なしこりを残したままストレスフルな関係が続くというのは、日本企業の日常的な風景だ。

それが常態化しているために、モノやサービスを提供する側も、決め付けや疑心暗鬼になるのは、ある種のリスク回避として当然の行動様式だ。その結果として対立関係が大きくなるのではなく、もともとゼロサムな関係、つまり、どちらが勝つか負けるかというWin-Loseの関係しか築こうとしないので、そうなるのは当然だ。

表面的にモノやサービスを買う側と売る側が良好な関係にあるように見えても、それは単に売る側が買う側に気をつかって、対立関係が表面化しないように努力しているだけのこと。

だから日本の会社員はアルコール漬けになって、精神的な鬱憤をぶちまける手続きを、ことあるごとにくり返す必要がある。そもそも問題を合理的に解決しようという意思が、誰にもないのだから、これは必然的な帰結だ。

「予算に合わせた根拠なき見積り」というのも、情報システムの開発に限った事象ではない。

日本企業どうしの、モノやサービスを売買する関係は、仕様と価格を合理的に比較した結果で決まるのではなく、過去からのつきあいや、関連会社とのしがらみなど、それ以外の要素によって、経営陣が政治的に決定するからだ。

ある売り手は、買い手企業の責任者の機嫌を損ねた結果、出入り禁止になり、相見積もりに参加できない。ある売り手は、買い手企業の大株主の系列企業なので、安値で無理やり受注させられる、などなど。

そんな事例は会社員である皆さんの周りに、いくらでも転がっているはずだ。調達費用が合理的に決定されないのだから、日程も合理的に計画されないのは当たり前のこと。

「責任のなすり付け」は、もともと日本企業では一人ひとりの要員の職務分掌がはっきり決まっていないのだから、これも当たり前。誰も拾わなかったボールが、売る側と買う側の真ん中にあれば、当然、責任のなすり付け合いになる。両方に共通する言い分は、「こっちはボランティアでやってるんじゃないんだ!」

WBSの件は、WBSは一度テンプレートを作ってしまえば、ほぼ機械的に作れるが、一つひとつのタスクの担当者が、最後まで空白とか、個人名ではなく部署名が入っているとか、そうしたことが常態化しているからだ。

これも日本企業の職務分掌があいまいであることの必然的帰結である。

これらの問題を解決するためのテーマとして、日経ITProは、「要件定義手法の確立」「プロジェクト支援組織(駆け込み寺)の整備」「さまざまなルールの順守」「メトリクス(尺度)の導入」「失敗を教訓に変える取り組み」の5つを挙げている。

しかし、そもそも日本企業の組織とその要員は、何か問題が起こったとき、合理的なアプローチで解決する「心の習慣」(by 宮台真司)がないのだから、どれも解決策にならないことは自明である。

自明だからこそ、毎年毎年、日経ITProのようなメディアは、プロジェクト管理手法に関する似たような連載を飽きもせずくり返し、読者も読者で、似たような連載を飽きもせずくり返し読むことになる。

どうやら『日経SYSTEM』2012年1月号には、「さらば失敗プロジェクト」と題して、現状を打開する宣言をするらしいが、日経BP社のIT系の雑誌のバックナンバーをご覧になれば、同じような記事が毎年、どこかに掲載されているはずだ。

こういうマッチポンプみたいなことを、日本の出版社がいつまでくり返せば、実も蓋もない現実をぶっちゃけるようになるのか。

実際には同じような内容の記事を毎年使いまわすことで、記者のみなさんはあまり頭を使わずに仕事を続けられるのだから、記者のみなさんにとって、健忘症の読者は非常にありがたい上得意のはずだ。

日本の会社員には、日経のようなメディアで働く会社員も、その受容者企業側の会社員も、アルコール漬けで健忘症になっているので、同じことのくり返しにも飽きないらしい。彼らに足りないのは、何よりも現状に対する「絶望」だという気がする。

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2011/12/20

鬼束ちひろの10年ぶりのライブ参加報告

鬼束ちひろ10年ぶりのライブに行ってきた。

神戸、名古屋、東京の3公演のうち、最終回、2011/12/17東京国際フォーラムホールAの公演。正式なタイトルは『鬼束ちひろ CONCERT TOUR 2011 「HOTEL MURDERESS OF ARIZONA ACOUSTIC SHOW」』。

なお、今回のライブを収録するDVDはこの東京公演の模様なので、ご興味のある方はDVDをご覧いただきたい。

鬼束ちひろの過去のライブはDVDでしか観たことがなく、実際に参加したのは初めてだ。

2011/07/24北海道での夏フェス「JOIN ALIVE」に出演したときは、エキセントリックな歌唱の模様がネットニュースで伝えられたり、その後のニコニコ生放送のレギュラー番組でのぶっ飛び具合が、ナインティナインのオールナイトニッポンでも話題になったり、正直どんなライブになるか心配だった。

先行予約で入手したチケットは二階席だったが、直前にミクシィで一階席10列目という良席を定価でお譲りいただき、やや舞台下手よりだったが、ほぼベストな位置で観ることができた。

公演時間は1時間半とコンパクト。伴奏は彼女の『DOROTHY』のプロデューサーでもある坂本昌之氏のピアノ演奏のみ。

以前ここで取り上げた彼女の自伝エッセイ『月の破片』にもあったように、ライブの舞台は彼女がパニック障害を発症した場所でもあり、10年ぶりのライブがこれだけコンパクトでシンプルだったのは、慣らし運転ということだろう。

慣らし運転のためにプロのアーティストが6,500円もとるなよ、という意見もありそうだが、彼女のファンはライブの対価としてではなく、彼女が音楽活動を続けるための投資としてチケットやグッズを購入しているのだから、外野はとやかく言う必要はない。

ちなみにこのあたりは、ローレンス・レッシグの『Free Culture』や、岡田斗司夫と福井健策の対談本『なんでコンテンツにカネを払うのさ? デジタル時代のぼくらの著作権入門』を参照のこと。

開演前、東京国際フォーラムホールAは、フランツ・リストの『ラ・カンパネラ』がリピートされていた。(ピアノソナタやショパンの夜想曲ではないのでご注意を)

会場が暗転し、最小限の照明の中、坂本昌之氏の前奏が静かに始まると、舞台前方の大きなアートフラワーっぽいオブジェの後ろ、おそらく床にすわってスタンバイしていた鬼束ちひろが、客席に背を向けたまま、ゆっくりと立ち上がる。

その衣装は意外にも光沢のある翡翠色のロングドレス。裾の長さはアンコール前の退場のときに初めて分かったが、彼女の背丈と同じくらい床に伸びていた。

七分袖の肩は高くふくらみ、両方の袖口から三日月のような形の飾り布が垂れ下がっている。デコルテは四角く開いていて、胸ぐりの縁にきらきらと輝く丸ボタンが等間隔で付けられていた。

背中の中央、縦のラインにも同じ丸ボタンが、胸ぐりより密な間隔でならんでいて、髪は腰までとどきそうな長い黒髪。メイクは高貴なロングドレスにほどよくつり合っている。

異界の王女とでも形容したい、美しくも妖しい姿に、まったく不意を突かれてしまった。

セットリストは他のファンの方がブログに書かれているので、ここには書かない。

一曲歌い終わるたびに、ロングドレスのひざのあたりを両手で少し持ち上げ、上手、中央、下手の順に、客席に向かって微笑み、ちょこんと腰を落としてお辞儀をする。まるで貴族の舞踏会で、婦人たちがそうするとされているように。

開演してから数曲、静まり返った客席は、ただ彼女の歌に聴き入っていた。

3曲目あたりだったか、さすがに彼女自身、少し居心地が悪くなったのか、背を向けて次の曲の準備をしながら「何か言ってよ」とマイクにつぶやいた。それ以降は曲間にファンから声がかかるようになった。

ややリズムのはっきりした曲では、前奏や間奏の部分でドレスを持ち上げて回るように踊ったが、多くの曲では、マイクを持たない左腕の表現が印象に残った。過去のライブ映像で見るような、力強く大きな動きではなく、指先までたおやかで、目の前にある透明でこわれそうなものに、そっと触れるような動きだ。

歌唱については他のファンの方がブログに書いているように、声量を抑える部分で音程がやや不安定だった感は否めない。一方、サビなど声量が大きくなる部分は、声の伸びも表現力はすばらしい。

ただ、『蛍』の間奏直後のサビのリフレインにはハッとさせられた。ささやくようなファルセットは鳥肌が立つほど透明感があり、美しく響いた。

そして舞台前方のオブジェは、見間違いなら鬼束ちひろ本人に申し訳ないが、歌詞が表示されるモニターを客席から隠す役割もしていたと思う。歌唱の途中、ときどき彼女はそのモニターがあると思われる方向に視線を落としていた。

プロの歌手なら自分で作詞・作曲した歌の歌詞ぐらい丸暗記しろよ、と言いたくなるかもしれない。しかし、これはあくまで僕の勝手な推測だが、ベンゾジアゼピン系睡眠薬か安定剤を長期服用していることによる、記憶力の低下のせいではないか。

彼女の自伝エッセイ『月の破片』を読めば、彼女が『月光』でブレイクした後の最も多忙な頃から今にいたるまで、不眠症に悩まされていることがわかる。なので、10年近く、何らかの睡眠薬か安定剤を服用し続けているはずだが、彼女はパニック障害の診断もあるので、ベンゾジアゼピン系の薬のはずだ。

僕自身、ベンゾジアゼピン系安定剤を10年以上服用しているが、加齢による記憶力の低下より速いペースで記憶力が落ちていると実感している。認知能力には全く問題ないし、日常生活に支障をきたすレベルではない。

だが、ただでさえ過剰な緊張症の彼女が、リラックスできないライブの舞台の上で、カンペなしで歌詞を完璧に歌うのは、まず無理だと思う。舞台に上がる前に緊張をほぐすために、安定剤を服用しているかもしれないし。

誰にも「持病」というのはあるので、歌手にとっては客観的にはプロ意識を疑われるかもしれないが、そのあたりは多めに見るべきではないかと個人的には思う。

最後の『Beautiful Fighter』は、坂本昌之氏のピアノ伴奏はサブで、鬼束ちひろ自身のギターの弾き語りだったが、ギターの腕は確実に上がっている。右手のカッティングはグルーヴ感を出すには程遠いけれど、左手のコードの間違いはほとんどなかった。

彼女は気まぐれだけれど、根が真面目という印象があるので、ギターだけでなく、ヴォーカルの方も本調子にもっていくべく意識的にトレーニングを続ければ、全体のパフォーマンス・レベルは確実に上がるはずだ。

曲間のMCで観客との掛け合いがあり、舞台と客席の距離が近いと感じたのも、アンコールでスタンドマイクを舞台中央に持ってきたのが、鬼束ちひろの実の妹さんだったのも、ライブの舞台をパニック障害を発症したときのような場にしないための、彼女なりの工夫かもしれない。

今回のライブで「致命的」な失敗をしないための彼女の神経のつかい方は、はたから見ている以上に実は大変だったに違いない。

『Sweet Rosemary』の歌詞じゃないけれど、人生は長いのだろう、彼女がアーティストとして活動する時間もまだまだ長いのだろう。今回のライブはそのリスタートの第一歩にすぎない、と考えるべきだろう。

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2011/12/19

J:COM NET 160Mbpsはギガ対応機器でないと意味ナシ


自宅のケーブルテレビがJ:COMで、インターネットと電話もまとめると、NTT東日本のフレッツ光とKDDIのメタルプラスをばらばらに契約するより安くなるので、ネットをJ:COM NET 160Mbpsに切り替えた

160Mbpsと言っても、もちろんベストエフォートだが、営業担当がフレッツ光より実効速度も速くなりますよと言うので、まあベストエフォートの100Mbpsと、ベストエフォートの160Mbpsを比べて、前者のほうが実効速度が速かったらお笑いだよな、と思って契約してみた。

すると不安は的中、微妙な差ではあるが、こちらの「BNRスピードテスト」というサイトで複数回測定して平均をとると、何度測定してもJ:COM NET 160Mbpsの方が速度が低く、かつ、毎回の測定値のバラつきも大きい。

技術を売りにしている企業の営業担当というのは、だいたいいい加減なことばかり言うものだが、さすがにこれはないでしょうとサポートに連絡した。

技術者は営業担当と違って、辛抱強くこちらの検証結果の話に付き合って下さり、最終的に予防保守ということで、モデムの交換と速度の実測に再度、来訪して下さった。

そのとき保守担当の技術者の方が、ふと「仮に100Mbpsオーバーの速度が出たとしても、ルータがギガ対応でないと頭打ちですし」という意味のことを話されたので、そうかと思い、ギガビット・イーサ対応の手持ちのノートPCとモデムを直結してみた。

すると、NTT東日本のフレッツ光では決して出なかった、90Mbpsオーバーの速度が実測値として出るようになった。

僕はIT関係の仕事をしていながら、ルータがギガビット対応か否かで、たとえ100Mbps未満であっても実効速度に差が出てくるということを知らなかったのだ。お恥ずかしい限り。

そういうわけで今は無線LANルータも、15mのCat6ケーブルで自室へ引き込んでいる有線LANのHUBも、どちらもギガ対応にして、無事、90Mbpsオーバーの実効速度を實現できている。

ただ、実効速度の上下変動は、やはりNTT東日本のフレッツ光よりJ:COM NETの方が大きい。それでも40Mbpsを下回ることはないし、電話と合わせてトータルで月額料金が安くなるので、まあ良かったかなという感じ。

たまにはこういう毒にも薬にもならない話題もいかが。

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まだ油断できない日本国民の原発事故の認識レベル

野田首相の事故収束宣言には、ただただ暗澹たる気分になる。

首相が野田氏に交代してから、民主党全体のスタンスが政権交代直後に比べて、旧来の自民党的な方向への大きなバックラッシュが起こってしまっている。何のための政権交代だったのか、今となってはほとんど意味がなかったと言っていい。

NHKの報道でさえ、福島第一原発事故については「収束」させる方向へ舵を切っているように見える。たとえばこの動画。

「NHK「冷温停止宣言」野田首相記者会見中継を打ち切られた部分」(2011/12/16 YouTube)

フリージャーナリスト神保哲生氏の、政府の事故収束宣言の欺瞞を突く質問がバッサリとカットされたことを見ても、その危惧は十分にある。

昨夜2011/12/18のNHKスペシャル『シリーズ原発危機 メルトダウン~福島第一原発 あのとき何が~』には、ツイッター上でも賛否両論あるようだ。

僕自身を含め、福島第一原発事故の後、9か月間にわたって既存のマスメディアの欺瞞を追い続けてきた人たちにとっては、たしかに物足りない内容で、むしろ東京電力の現場作業員を弁護しているようにさえ見えたかもしれない。

ただ、すでにインターネット上では「常識」になりつつある、政府発表やマスメディアの大ウソにまだ気づいておらず、マスメディアにしかふれていない「素朴な」国民というのは、残念ながら一定数存在する。

それは野田首相の支持率が、彼の何の節操もない政策変更にもかかわらず、おそらく「人がら」だけで40%に近いことからもわかる。多くの日本国民の「民度」というのは、まだまだその程度のものだ。

なので、昨夜放送のNHKスペシャルは、野田首相による事故収束宣言直後のタイミングであの番組を見れば、「冷温停止状態」などということが完全にナンセンスだということが分かるだけでも、放送された価値があると見なすべきだ。

ついてこれない「愚民」は切り捨てる!というのでは、状況全体を変えることはできないだろう。

この週末もUSTREAMで、京都大学の小出助教が北九州の講演会で、いつもの話をされている様子が生中継されていた。

『2011/12/17 小出裕章講演会 in 北九州』(2011/12/18 IWJ_FUKUOKA)

残念ながら日本の現状は、小出助教のような専門家が地方にまで出向き、一般市民に語りかけなければ、マスメディアや政府発表のウソをひっくり返すことができない、まだそういうレベルにあるということだ。

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2011/12/16

加BlackBerry社、来年2012年末まで新機種ナシ!

今回はお仕事の話。Androidが登場するまで、スマートフォンと言えばiPhoneかBlackBerryだったが、そのBlackBerryに信じがたい不幸なお知らせ。

'RIM: BlackBerry 10 smartphones won't arrive until end of 2012' (2011/12/15 18:40米国時間 engadget)

なんと来年中頃まで、端末の製造に必須のチップセットが入手できないため、来年2012年末までBlackBerryの新モデルは発売されないとのこと。これでBlackBerryがAndroidやiPhoneに大きく水を開けられるのは必至。

ちなみに、僕が所属する会社では、Androidが4.0になっても外部ストレージ(マイクロSDカード等)の暗号化機能に対応せず、内蔵ストレージの暗号化機能も、Android 4.0が起動してしまうと、PCに接続すれば普通にUSBメモリとして中身が丸見えになるという法人向けセキュリティ機能のお粗末さから、まだBlackBerryのみを社内標準スマートフォンにしている。

ただ、NTTドコモがAndroid端末に注力するにつれて、ますますBlackBerryに対するやる気をなくしているらしく、先日もちょっとしたトラブルでNTTドコモのBlackBerryサポートに問い合わせたところ、複数部署をたらい回しされた上、最後には、最初に電話をかけた部署に戻されるという、マンガみたいなお役所仕事。

NTTドコモも完全にBlackBerryを売る気がないようなので、法人スマートフォン・ユーザとしては、AndroidがOSレベルで一刻も早くまともなデータ漏えい防止機能を実装してくれるか、お金をかけて端末管理システムを導入するしかない。

そもそもNTTドコモはBlackBerryの最新機種を日本市場に投入する気がないし、上述のように欧米でも新機種が来年末まで発売されないようだし、日本市場でのBlackBerryは終わったようだ。

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2011/12/15

続・モーターショーで「リア充」がカメラ小僧を見くだす風景について

先日のイベント・コンパニオンのお話について、続きを書いてみたい。

たまたま今日の『日経ビジネスオンライン』の連載「フェルディナント・ヤマグチの走りながら考える」が『カメラ小僧も迷子も集うモーターショー。まだまだクルマは捨てたもんじゃない』(2011/12/15掲載分)が、タイトルのとおりカメラ小僧に言及していたからだ。

この連載は『日経ビジネスオンライン』の連載の中ではいつも軽妙な文章と、筆者フェルディナント・ヤマグチ氏のほどよいボケも含めて、人気の連載のようで、僕もたまに楽しく読ませて頂いている。

で、今回の記事からイベント・コンパニオンとカメラ小僧について言及した部分、正確に言うと写真のキャプションの文章を引用してみる。

まず、車の前でポーズを決めるイベント・コンパニオンを、カメラ小僧が取り囲んでいる写真のキャプション。

「で、パニオン嬢。今回は『女性だけの撮影お断り』なんてブースもあったりして、行き過ぎたカメラ小僧対策に乗り出した会社もあった。だが、やはり大勢いらっしゃる『パニオン狙いのカメラ小僧』諸氏」

次に、受付嬢のイベント・コンパニオンを、カメラ小僧が取り囲んでいる写真のキャプション。

「慣れた方はクルマの前に立つパニオンだけでなく受付嬢も対象にする。しつこく食い下がり意味不明の質問を繰り返す姿は異様としか言いようがないのだが、若き受付嬢は作り笑いを崩さずに余裕の対応。いやプロってのは大したもんだ。しかし男の社員もボサっと見てないで助け舟を出してあげりゃいいのに」

さすがフェルディナント・ヤマグチ氏、そつのない文章だが、一つだけ気になるのは「しつこく食い下がり意味不明の質問を繰り返す姿は異様としか言いようがない」という部分。

たしかに土日、秋葉原を歩いていても、ビラ配りのメイド姿の女性に、「しつこく食い下がり意味不明の質問を繰り返」している中年男性はいる。

フェルディナント・ヤマグチ氏は明らかに「リア充」で、車を趣味として楽しみ、体力づくりのためにランニングにいそしみ、『日経ビジネスオンライン』に連載を持っているくらいだから、それなりの収入もある人なのだろう。

一方、展示会のイベント・コンパニオンや、秋葉原でビラ配りをしているコスプレ姿の店員など、ある意味「無防備」な若い女性でなければ、彼女らと話す機会のない中年男性は、フェルディナント・ヤマグチ氏に比べれば「非リア充」であることに違いない。

イベント・コンパニオンと秋葉原のビラ配り店員に共通するのは、話しかけたり写真を撮ったりしても、無料、ということだ。もし経済的余裕があれば、今の日本には若い女性と話すことができるシステム、メイド喫茶やキャバクラなどが存在する。そしてメイド喫茶やキャバクラで働くことで生活のための収入を得ている女性たちが存在する。

公共の場で「リア充」たちの軽蔑の視線を浴びつつ、イベント・コンパニオンに話しかけるよりは、同じ目的で来店している客しかいない「お店」で若い女性に話しかける方が、「非リア充」の方々にとって気楽なはずだ。

まして上述の記事では、「非リア充」の方々は、フェルディナント・ヤマグチ氏の残酷なカメラのレンズの被写体としてもてあそばれている。

なぜ「非リア充」の方々がそうしないのかと言えば、経済的余裕がないからだ。いや、経済的余裕がないから、「非リア充」に陥ったというべきだろう。

彼らに経済的余裕がないのは、数十万円する大砲のような望遠レンズや、アニメのキャラクターの稀少なフィギュアに給与をつぎ込んでいるからかもしれない。

しかし、そういう消費行動で経済的余裕がなくなった結果、「非リア充」になったのではなく、「非リア充」だから、イベント・コンパニオンを撮影した写真や、フィギュアを収集することで「しか」、生きている実感を得られないと言うべきだろう。

つまり、経済的余裕がないから、経済的余裕のある人々から見れば軽蔑したくなるような趣味的な行為でしか、生きている実感を得られないということだ。

非正規雇用の増加が、従来から経済弱者だった母子家庭や女性の単身世帯をさらに困窮させるのと並行して、男性の単身世帯も二極化させたのは厳然たる事実だ。男性の単身者は、かつて「独身貴族」と呼ばれたような「リア充」層と、言葉は悪いが、一目でそれと分かるような「非リア充」層に、はっきり分かれた。

モーターショーのような展示会場で、イベント・コンパニオンに群がるカメラ小僧と、それを嘲笑する人々は、この二極化の一つの風景である。

しかし、前回のくり返しになるが、イベント・コンパニオンも会社勤めのOLに比べれば、安定した職業とは言いがたい。展示会の華やかな姿は一見「リア充」だが、経済水準では必ずしも「リア充」とは言えない。

ただ、性別役割分業がいまだに残っている日本の社会では、彼女たちには結婚という「永久就職」の選択肢が残されている。なので男性の「リア充」が、彼女たちを自分の側の「リア充」階級と勘違いする現象も出てくる。

その勘違いの片鱗は、上記に引用したフェルディナント・ヤマグチ氏のキャプションにも現れている。「若き受付嬢は作り笑いを崩さずに余裕の対応。いやプロってのは大したもんだ」という箇所に。

この表現は暗に、「カメラ小僧のような”下層階級(=非リア充)”の相手をさせられる”上流階級(=リア充)”は、彼女らのように冷静であることによって、上流階級としての矜持を保たねばならない」という意味のことを言っている。

そんな下々の者にカメラのレンズを向け、モザイク入りとはいえ『日経ビジネスオンライン』という、曲がりなりにも有名経済誌のウェブ版に掲載してしまう、フェルディナント・ヤマグチ氏の「リア充」としての傲慢さが、毫も非難されていない点に、『日経ビジネスオンライン』がまさに経営者側の経済誌であることが見て取れる。

ところで、コスプレを趣味にしている女性のブログやウェブサイトを見ると、トップページによく次のような意味のことが書いてある。コスプレなどに嫌悪感を持つ方はご覧にならないことをおすすめします、などなど。

お台場の東京ファッションタウンのような、建物の外から見えるガラス張りの会場でコスプレ・イベントが行われるとき、一般の家族連れが向かい側の建物から、イベント会場を埋め尽くすコスプレイヤーやカメラ小僧に向ける視線は、あからさまに軽蔑の視線だ。

モーターショーでフェルディナント・ヤマグチ氏のような”上流階級”の人々が、カメラ小僧のような”下層階級”の人々に向ける視線も同じく、憐れみをたたえた軽蔑の眼差しである。

日本で自動車が売れなくなっているというのは、こういうことなのではないか。

もしかすると、今は二極に分かれてしまっている男性たちも、小学生のころは同じようにモーターショーで「かっこいいスーパーカー」に瞳を輝かせていたかもしれない。

しかしその後の人生が彼らを二つの階層に分離したのかもしれない。

一方の”上流階級”は日常的にお気に入りの自動車の走りを恋人や家族といっしょに楽しむ生活をし、他方の”下層階級”は若い女性との直接の接点にならず、維持費ばかりかかる自動車より、むしろイベント・コンパニオンの写真を収集することに楽しみを見いだすようになったのかもしれない。

そして今の日本社会では、「機会の平等」が確保されているという神話を信じるなら、”下層階級”がそうなったのは自己責任、彼ら自身の選択である。

イベント・コンパニオンに「しつこく食い下がり意味不明の質問を繰り返す」ような「異様としか言いようがない」姿を公衆の面前にさらしているのは、彼ら自身の責任である。

今日の『日経ビジネスオンライン』のフェルディナント・ヤマグチ氏のコラムのタイトルと、悪意のあるモザイク入りのカメラ小僧たちの写真には、そういった自己責任論がはっきり読みとれる。

彼らのお世辞にも小ぎれいとは言えない服装にカメラを向け、『日経ビジネスオンライン』誌上にさらすことが、”上流階級(=リア充)”の自己責任論を正当化し、その自尊心をくすぐってやまないのだろう。

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2011/12/14

サンケイビズ、再生可能エネルギーに対するトンデモ反論記事

産経って本当に読者をバカにしたような記事を書く新聞だ。

『原発の発電コスト、政府試算で最低8.9円』(2011/12/14 05:00 サンケイビズ)

このサンケイビズの記事、例によって後半は産経グループの原発推進の立場から、再生可能エネルギーの欠点をあげつらっている。しかし論点がまったく見当違いで、笑える。

例をあげてみよう。

「(再生可能エネルギーを)原発に代わる安定電源と位置づけるには、立地場所の確保など課題が多い」

いやいや、立地場所の課題が多いのは、誰がどう考えても原発の核廃棄物の最終処分場の方だろう。また原発は、すでに立地している自治体から、新型炉への改造工事の合意を取りつけるのも難しいはずだ。

「ただ、風の強い風力発電の適地は、日本では北海道や東北地方などに多く、立地地域は限られる」

だから、立地地域が限られるのは原発も同じだ。

地盤が強固で自身の影響が少なく、炉心冷却のための大量の海水を採取できる海辺で、かつ、大きな津波があっても電源が喪失の事態にならず、立地自治体の合意が得られるような地域。

ところが地盤と津波については、福島第一原発事故の後、専門家たちがあっさり過去の予測の甘さを認めている。今回の津波の規模は「想定外」だったとか、実は活断層が近くにあった等々。

しかも、これまで原発を建設できたのは、立地地域の自治体を補助金という「麻薬」づけにして、経済発展の幻影を見させるという、かなり姑息な方法を使ったからではなかったのか。

「(再生可能エネルギーの)試算には発電量が天候に大きく左右される再生エネに不可欠な系統安定化費用も盛り込まれておらず、コストはなお膨らむ可能性が高い」

それを言うなら、今回の原発の試算には、福島第一原発事故でまだ顕在化していない補償費用や、復興費用が盛り込まれていない。だからこそ最低8.9円で、コストは事実上「青天井」であることが報告書でうたわれたのだ。

再生可能エネルギーのコストが多少ふくらんだところで、コストがどれだけふくらむか予測もできない原発に比べれば、まだ再生可能エネルギーは「計算可能」である。

「期待の洋上風力も漁獲高への影響が懸念され」

福島第一原発事故が東北の太平洋沿岸の漁業に、何の影響も与えなかったとでも言いたいのだろうか。いったん放射能漏れが起これば、上述のような理由でいずれも海岸線に立地している原発の方が、地元の漁獲高に与える影響が大きいことは言うまでもない。

しかも、事故なく運転したとしても、大量の冷却水を海に戻すことによって、原発付近の海水温は上がり、すでに海洋生態系への影響は出ているのではないのか。

今までは僕自身も含め、原発に大きな疑問を持たない国民がほとんどだったので、そういった調査が本格的に行われていないだけの話だ。

「(再生可能エネルギーの)導入拡大には関係者の理解が不可欠で、将来の見通しはなお不透明だ」

記事の最後のこの一文は、そのまま今後の原発にあてはまる。

この記事全体が再生可能エネルギーに対する反論として、これっぽっちの説得力もない。こんな記事を平然と載せられる産経系のメディアは、やはりどうかしている。

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2011/12/13

モーターショーで「リア充」がカメラ小僧を見くだす風景について

東京モーターショーはじめ、自動車関連の展示会は、いわゆる「リア充」の人たちが展示内容を楽しむとともに、「非リア充」を見下してスッキリする場でもある。

恋人や奥さんを連れて来場している若い男性は、言うまでもなく「リア充」、つまり現実の生活が充実している人たちだ。

彼らはあくまで車を目当てに来場しているのに、コンパニオンの女性のまわりに、「非リア充」の典型であるカメラ小僧が群がっているのを目にすると、嫌悪感をいだく。

そして決まって、車を見に来てるのにアイツらがじゃまで見えねえだろ、など、「非リア充」のカメラ小僧たちについてボソッと悪態をつく。横にいる女性も「かわいそうだよね」とか、「キモい」とか、同調してカメラ小僧たちを軽蔑することもある。

カメラ小僧たちが血眼になって、大きな一眼レフカメラでコンパニオンを撮影してまわっているのを見て、「リア充」のカップルが気分を害するのはまあいい。価値観は人それぞれだ。

彼ら「リア充」がカメラ小僧に向ける侮蔑の眼差しは、いわゆるオタクに対する侮蔑の眼差しと同じ種類のものだ。

ただ、倫理的に考えると、そこにあるのは価値観の違いだけで、「リア充」の方が「非リア充」より正しいとか、優れているなどといった上下関係はない。上下関係を持ち込んで優越感にひたろうとする「リア充」は、他人を見下さなければ自分のプライドさえ保てない点で、褒められた人種ではない。

それはいいとして、「非リア充」のカメラ小僧たちとイベント・コンパニオンの関係をよくよく観察してみると、「リア充」の人たちには理解に苦しむコミュニケーションが成り立っているのが分かる。

カメラ小僧が撮影した写真をコンパニオンに見せて談笑していたり、コンパニオンが自分を取りかこむカメラのレンズに向かって、順番にポーズをとったりしている。

つまり、コンパニオンはカメラ小僧に写真を撮られることを、決して嫌がっているわけではない。逆に、カメラ小僧が群がっているコンパニオンのすぐそばに、一人ぽつんと取り残されているコンパニオンは、所在なさげにしていることさえある。

展示会に参加しているイベント・コンパニオンにとって、明らかにカメラ小僧に写真を撮られることは、テレビや雑誌などのメディアの取材を受けることに劣らず、仕事の一部になっている。

やや大げさに言えば、カメラ小僧にとってイベント・コンパニオンは、AKB48のような「会いにいけるアイドル」と同じくくりになっている。

そしてコンパニオンはコンパニオンで、カメラ小僧から自分がそう見られていることを意識しており、コンパニオンによっては、それが仕事のやりがいになっている場合もある。

コンパニオンは一見華やかだが、OLとは程遠いスズメの涙のような低賃金で、さまざまな展示会やイベントの出展社に派遣されている。

モーターショーのような展示会は、コンパニオンの仕事のなかでは最も華やかな部類で、一方では郊外のパチンコ店の開店イベントや、同じく郊外のロードサイドにある自動車用品店の特売イベントなどに駆り出されることもある。

コンパニオンによっては、写真愛好家が数千円単位で参加する撮影会モデルの仕事をする人もいる。

コンパニオンは、そのような仕事をすることで収入を得ているわけであり、アイドル歌手がファンなしに成立しない職業であるのと同様、イベント・コンパニオンもファンなしに成立しない職業だ。

さまざまな展示会の出展社や「リア充」の観客が、カメラ小僧をウザいと思うなら、メディア関係者以外による撮影を全面禁止し、警備員による監視を強化すればいいだけのことだ。

しかし、それによってイベント・コンパニオンの中には、コンパニオンという仕事に対するモチベーションが劇的に下がってしまう人がいることを知っておくべきだろう。

世の中には様々な職業があって、展示会のイベント・コンパニオンはパンフレットを配布したり、来場者から名刺を受け取ったり、漫然と立っていることだけを動機づけにして成立している職業ではない、ということだ。

カメラ小僧がいるからこそ、イベント・コンパニオンという仕事を続けている人たちもいて、そういう女性がいるからこそ、一定規模のコンパニオンという職業の市場が成立しているわけだ。だからこそスズメの涙であれ、彼女たちが一定の収入を得ることができている。

「リア充」の人たちが目ざわりなカメラ小僧を排除すれば、その結果は一定層の若い女性から仕事を奪うことになるのである。

社会というのは、自分が個人的に目ざわりだと思うものも含めて、そのようにお互いに関わり合いながら成立しているという事実を、忘れるべきではないだろう。

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2011/12/12

日経ビジネスオンライン、小平知良記者のトンデモ・クリーンヒット記事

週明けいきなり、日経ビジネスオンラインにまたまたトンデモ記事を見つけてしまった。

『「オリンパス問題で日本社会が問われている」の違和感~日本のガバナンスばかりが責められているけど』(2011/12/12 日経ビジネスオンライン 小平知良記者)

欧米メディアはオリンパス問題で、日本社会を非難しているが、欧米企業だってエンロンやワールドコムなど、他国のことを言えないじゃないか。そういう主旨の記事だ。

はっきり言って、この小平知良という記者は今回の問題の本質を完全に見誤っている。

オリンパス問題がなぜ欧米から責められているか。それは、日本社会に自浄作用がないことが分かったからだ。

確かに米国ではエンロンやワールドコムの事件があった。しかし米国はそれを自国の法制度で見つけ出し、対策を打つことができた。法律が整備されても、それを破る企業は新たに出てくるが、その不正行為をあぶり出すしくみが、欧米社会には組み込まれている。

ところが、今回のオリンパス問題は、外国人が社長になるまで明るみに出なかった。

初の外国人社長が過去の不正を知り、それを内部告発して初めて明るみに出たのだ。監査法人も、行政の監督官庁も不正を見抜けなかった。

いわば、日本社会にあるすべての制度を動員しても、明るみに出せなかった不正行為が、たった一人の外国人によって、いとも簡単に明るみに出た。しかも欧米メディアが突き上げるまで、会社に残った日本人経営者たちは、退陣しようとさえしなかった。

しかも日本の企業社会は、米国がエンロン事件などをうけて整備したSOX法をわざわざ輸入して、J-SOX法と通称されるしくみまで作ったのに、それにもかかわらず自浄作用が働かなかった。

欧米諸国は、この日本社会の自浄作用のなさを非難しているのだ。

これこそ日本社会の最大の問題点であるのに、それを個別企業の問題に矮小化し、「日本のガバナンスばかりが責められている」などというサブタイトルまで付けてしまう小平知良記者は、とっても恥ずかしい。

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2011/12/10

近未来の世界についての物語と、いわれのない偏見

近未来の世界で、こんなお話があったらどうだろう。

生きているうちには、さまざまな困難があるが、そこにつけこんで人々を自殺へいざなう新興宗教のようなものがあったとする。

ふつうの市民は自殺の背景に宗教があることを知らない。その宗教が人を自殺へ導こうとしているとき、先回りして防げるのは、ある特殊な能力をもつ人たちだけだ。

その特殊能力は特定の条件を満たす人間なら誰でも手に入れられるが、リクルーターのような役割をしている者たちと契約を結ぶ必要がある。

ただ、そのリクルーターは、潜在能力の高そうな人間の前にしか現れないので、じっさいその能力を手に入れた人数はごく少ない。

常識的に考えて、リクルーターが目の前に現れても、命を危険にさらしてまで正体不明の宗教と戦う気にならない。

そこで、リクルーターたちは交換条件を出す。戦いに参加してくれれば、あなたの希望を一つかなえてあげよう。その希望はどんなことでもかまわない。これがリクルーターと結ぶ契約の中身だ。

それでもこんなウサンくさい話にのる人は少ない。したがってリクルーターたちは、不幸な人間をねらって、声をかけることになる。

例えば、大事な人の病気を治してあげたいと願っている人間に、病気を完治させる条件で宗教との戦いに参加してもらう。

リクルーターと契約を交わした後、具体的にどのように宗教と戦うのかといえば、宗教の信者を殺害することによってである。決して楽な仕事ではないことを知った上で、それでも自分の願いをかなえたい人だけが、リクルーターと契約することになる。

ところが、じっさいに戦いを重ねるにつれて、精神的、肉体的な過酷さにくらべて、自分の願いがかなったことで得られたものが少ないことに気づく。

大事な人の病気を治すために契約した事例では、完治した人が健康になったことで、かえって自分なしでも生きられるようになってしまった。

そのためこの人は、自暴自棄になって宗教との戦いにのめりこみ、逆に、その宗教の側にとりこまれてしまうという悲劇が起こる。

よく考えると、人生のある時点での願いがかなったからといって、それ以降、死ぬまで幸せになるわけではない。願いを一つかなえることと引きかえに、戦いに身を捧げるという契約は、はじめから割りに合わないのだ。

リクルーターたちはそれを知った上で、潜在的な能力のある人間を誘っていた。

契約を結んで宗教との戦いに参加した人は、時間がたつと、みな宗教の側にとりこまれてしまう。すると、その宗教は勢いを増すので、リクルーターはさらに新たな人材を勧誘をする必要がある。自分で火をつけて、自分で消す。完全なマッチポンプ状態。

このお話は、近未来の世界はそうした絶望的な状況になっているかもしれない、ということを暗示している。

さて、この絶望的な状況を打破するには、どうすればいいだろうか。

一つの方法は、自分の親友が契約をして戦いに参加してしまったら、その親友が決して宗教の側にとりこまれないように、徹底的に手助けすることがある。そのために、契約の条件として「その親友と初めて出会った日にいつでも戻れる」ことを願う手がある。

そうすれば、親友が戦いで死ぬか、宗教の側にとりこまれるかしたら、その親友と初めて出会った日に何度でも時間をさかのぼって戻ることができる。

しかしこの方法には限界がある。何度同じことをくり返しても、結末は変わらないかもしれないのだ。

したがって最善の方法は、「この世から例の宗教がなくなる」願いを条件に契約することだろう。そうすれば、戦いの前提そのものが消えることになる。

ただ、この方法にも問題がある。この願いで契約を結んだ人は、自分の唯一の存在意義である戦いを失ってしまう。この人は事実上、世界に存在しないことになってしまうのだ。

宗教と戦うために契約し、そのために宗教にとりこまれ、とりこまれた人と戦うためにまた契約し、という、上記のマッチポンプ状態は消えてしまう。

このマッチポンプ状態が消えると、そう願った人間は、いわばこのマッチポンプの構造によって支えられていた世界全体を一身に背負って、世界の外側に永遠に追放されることになる。

でも逆に考えると、そうしてできあがった新たな世界は、世界の外側に追放されたその人が存在しなければ存続できないとも言える。古い世界を支えていたマッチポンプ的な仕組みを消したその人は、新たな世界を支える原理のようなものに変わる。もはや人ではなく、神のような存在になると言ってもいい。

だからこそ、そんな神のような存在になってしまった人間は、世界のあらゆる人々の記憶に、さまざまな形でかすかな痕跡を残すことになる。

以上、僕が何の話をしているか、すぐに分かった方と、分からなかった方がいると思う。

こういったすぐれて哲学的な物語に、『魔法少女まどか☆マギカ』というタイトルがついてアニメになっているだけで、毛ぎらいする偏見の持ち主は、残念な人たちだ。

そういった偏見の持ち主は、監督が宮崎駿で、『天空の城ラピュタ』などのタイトルがついていれば、まったく同じ物語でも、きっと喜んで観るのだろう。

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2011/12/07

更年期障害の原因が夫にもあるという、おバカな記事

ニュースリーダでいろんな記事を読んでいると、ときどき恐ろしく下らない記事があるものだ。

「更年期障害の原因が夫にもあるという大胆説」(2011/12/07 16:43 読売新聞)

これもその一つ。

戦後の高度経済成長期から現代まで、日本の典型的な核家族は、夫が定職につき、妻が専業主婦という男女の性役割分業にもとづいて成立していた。

そのため、性役割分業を支えていたロマンティック・ラブという、欧米のキリスト教的倫理観に由来する幻想が維持できなくなったとたんに、男性が自分自身の経済的な優位性を盾にとって、経済的に自立していない妻に辛く当たるというのは、必然的な帰結である。

ちなみにロマンティック・ラブというのは、男性と女性が一定期間の恋愛を経て「愛し合って」結婚するという虚構のことだ。

これが単なる虚構であることの何よりの証拠は、恋愛小説、恋愛映画、恋愛ドラマといった、恋愛にまつわる作品があとからあとから、途切れることなく作られていることだ。このようにして、民衆の息つくヒマもなく、次々と恋愛作品を生み出さないことには、「恋愛結婚」という虚構はとても維持できないのだ。

それでも先進諸国の社会が成熟し、価値観が多様化するにしたがって、異性間の恋愛結婚こそが市民としての幸福のもっとも良い形である、という虚構を維持することに無理が出てくる。

フェミニズムのような女性の市民としての権利を取り戻そうとする運動や、LGBT(ゲイ、レズビアン、バイセクシュアル、トランスジェンダー)といった性的少数者の権利主張が出てきたのは、異性間の恋愛結婚を近代市民の家族の模範とする虚構が、もはや維持できなくなっていることを示している。

しかし、先進諸国の中でも例外的に儒教の影響が根強い、日本と韓国では、いまだに性役割分業が社会制度に残っているので、人々の考え方が比較的自由になってきているのに、人々の行動は社会制度にしばられてしまう。

女性は経済的に自立したいと思っても、税制や各企業の明文化された制度や、暗黙の制度がそれをゆるさない。

そうした社会制度に抵抗することに、大変なエネルギーを使うくらいなら、夫に経済的に従属することになっても専業主婦になろう、という選択は、合理的な選択である。

ただし、女性の側は自分のその選択を自分自身に納得させるために、恋愛結婚の虚構をここで再び持ち出さざるを得なくなる。夫というものは自分のことを死ぬまで愛してくれるはずの存在だ、というふうに。

しかしここで持ち出された恋愛結婚の虚構は、望まない現実を正当化するための、自分自身に対する口実に過ぎず、当然、現実の夫がそのとおりの存在であってくれるわけではない。

夫は夫で、専業主婦としての妻は、社会に出てストレスフルな仕事をして家に帰ってくる自分を、優しく包んで支えてくれるはずだという、やはり恋愛結婚の虚構を持ちだす。

ともに虚構に頼って、それとは全く異なる現実を正当化しようとしているのだから、無理が出てくるのは当然で、無理が出てこない夫婦は、単に恋愛映画や恋愛ドラマといった古くさい情報宣伝活動に、あっさり「洗脳」されているだけのことである。

なので、夫婦がともに恋愛結婚という、とっくの昔に破綻した虚構に、ふたたび「洗脳」されさえすれば、更年期障害の原因の一つがなくなるといった、冒頭の新聞記事のような考え方は、ずいぶん市民をバカにしている。

まあ読売新聞なんて、その程度の新聞なので、仕方ないわけだけれども。

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CACHATTOに内部統制上、重大な欠陥発見!⇒2012年初旬対応予定

あまり仕事に関することはプライベートのブログに書きたくないけれど、他にも企業ユーザがいるはずなので、検索エンジンに引っかかるように書いておく。

以下、あくまで2011/12/07時点の情報なので、その後、改善されているかどうかは、開発元のウェブサイトをお調べいただきたい。

いいじゃんネットという会社が開発しているCACHATTO(カチャット)という企業向けシステムについてだ。

僕がなぜCACHATTOについて詳しく知っているのかは、あえて書かない。ただ一点、僕が開発元の関係者ではないことだけは確認しておく。

CACHATTOは、かなり以前、ここでもふれたことがあるかもしれないが、携帯電話やスマートフォンを使って、社外から社内の電子メールやグループウェアに、安全に接続するためのシステムだ。

「安全に」という意味は、無関係の第三者に情報を盗み見られないような仕組みで、ということである。

この「安全に」を実現するために、CACHATTOには以下のように何重もの防御がほどこされている。

(1)使い捨てパスワード
(2)独自の固定パスワード
(3)携帯電話やスマートフォン側に情報を残さない仕組み
(4)添付ファイルのダウンロードを禁止できる仕組み
(5)社内ネットワークのファイアウォールに、社外から社内への通信を許可する「穴」を開けなくてもよい仕組み

特に企業のシステム管理者にとっては、(5)のファイアウォールに社外から社内への、いわゆるインバウンド通信のためのポートを開放しなくてもよい点がありがたい。

インバウンドの通信ポートを開ける必要がある場合は、通常、社内ネットワークと社外ネットワークの境界であるファイアウォールの手前に、DMZ(非武装地帯)というネットワーク領域を構築する必要がある。

このDMZの構築にお金がかかるし、このDMZを常に外部からの攻撃から守るために、さらに運用コストがかかる。

つまり、CACHATTOは構築や運用のコストを抑えつつ、社外にある携帯電話やスマートフォンから安全に社内の電子メールやグループウェアに接続できる点で、非常に優れたシステムだ。

しかも、日本国内で発売されている携帯電話のほとんど全ての機種、そしてスマートフォンについても、アップル系(iPhone、iPad)とAndroid系の両方に対応している。また、通常のパソコンからでも、専用のWebブラウザをインストールすれば、同等の安全性を保つことができる。

ところが、これほど優れたシステムであるCACHATTOに、重大な欠点を見つけてしまった。内部統制上の欠点である。

CACHATTOを運用するには、どうしても社内にCACHATTOの運用担当者が必要になる。といっても、普段の仕事といえば、新入社員が入社したらその人を追加するといった程度だ。

CACHATTOを社内で管理するには、社内ネットワークからしか接続できないCACHATTOの管理画面にログインする。この管理画面にログインするにも、当然、ユーザ名とパスワードが必要だが、これはWindowsドメインやNotes/Dominoのシステム管理者のパスワードとは全く別に設定する。

CACHATTOの管理画面にログインして、「メンテナンス」タブから「ログファイル作成」画面に進み、「詳細ログダウンロード」で「USER_ACCESS_LOG」を選択し、「ダウンロード」ボタンをクリックする。

すると、CACHATTOに何か不具合が起こっているときに、原因を調査するのに役立つ詳細なシステム動作のログがダウンロードできる。

どれくらい詳細かと言うと、CACHATTOのプログラム本体であるJavaが社内の電子メールサーバやグループウェアにサーバに投げている命令と、その結果が、すべて残っているくらい細かいログである。

ここで、いよいよ本題になる。何とこの「USER_ACCESS_LOG」には、CACHATTOの利用者が電子メールサーバやグループウェアに接続するときのパスワードが、もろに書き出されているのだ!!

CACHATTOのシステム管理者が、CACHATTO利用者のこれらのパスワードを知ったところで、Lotus/Dominoを、Windowsネットワークとのシングル・サインオンにせずに運用している企業であれば、影響はLotus/Dominoの世界にとどまる。

つまり、CACHATTTOのシステム管理者が知りうるのは、CACHATTO利用者が社内のDominoサーバ接続するためのパスワードだけである。

同じように他のグループウェア、デスクネッツやサイボウズを、Windowsネットワークとのシングル・サインオンにせずに運用している企業なら、影響はグループウェア内にとどまる。

ところが、である。電子メールサーバとしてExchangeを使用している企業の場合、社員がExchangeサーバ上にあるメールを読みに行くときのパスワードは、Windowsネットワークに入るときのパスワードと共通になっている。

Windowsネットワークに入るときのパスワードというのは、会社のPCを立ち上げて、社内のWindowsネットワークに入り、その人の電子メールをOutlookを使って読み、その人にしか開けない共有フォルダを開くことができ、その人にしか開けないファイルを開くことができる、そういうパスワードだ。

極端な話、ある企業に導入されているCACHATTOを、社長が利用しているとすれば、情報システム部門の単なる一担当者であるCACHATTOのシステム管理者が、社長になりすまして、社内のネットワークにログオンしたり、社長の電子メールをすべてのぞき見することができるのだ。

そもそもほとんどの企業が、社内の認証の仕組みとしてマイクロソフト社のWindowsのActive Directoryを使っているのは、Active Directoryの管理担当者であっても、各社員が今、どのようなパスワードになっているかを見ることができない点にある。

もちろん、Active Directoryの管理者権限を持っていれば、勝手に他の社員のパスワードを変更して、その社員になりすますことはできるが、その場合、当の社員は、自分のパスワードが知らないうちに変わっているので、社内のネットワークにログオンできず、すぐに異常に気づく。

しかし、CACHATTOの「USER_ACCESS_LOG」を使って、他の社員の「今の」Windowsパスワードを知り得たCACHATTOのシステム管理者は、当の社員に気づかれることなく、その社員の電子メールや、その社員にしか開けないファイルを、こっそり見つづけることができるのだ。

つまり、CACHATTOとExchangeを組み合わせて使用している企業では、WindowsのActive Directory機能がいくらWindowsパスワードの安全性を強固に守っていても、CACHATTOのシステム管理者がかんたんにダウンロードできる「USER_ACCESS_LOG」から、Windowsパスワードが「ダダ漏れ」になるのである。

仮に、内部統制の監査対象になっている基幹業務システムを、Windowsのユーザ名とパスワードでログインさせるように構築している企業が、Exchangeとの組み合わせでCACHATTOを導入すると、CACHATTO自体が内部統制で求められるセキュリティに対して、大きな穴を開けていることになる。

本来、Windowsの管理者権限をもつ担当者でさえ知ることができない各社員のWindowsパスワードを、CACHATTOの「USER_ACCESS_LOG」が、CACHATTOのシステム管理者に対してはダダ漏れにしているためだ。

もしCACHATTOのシステム管理者が、トラブル対応のために保存したUSER_ACCESS_LOGを、不注意で、悪意なく、情報システム室の誰もが閲覧できる共有フォルダに置いてしまったら...などなど。

個人的には、CACHATTOのこの仕様は重大な欠点というより、内部統制上の欠陥と言ってもいいレベルだと考えている。

以上、訳のわからない方にとっては、まったく訳のわからない文章で申し訳ない。

*2011/12/09追記:
開発元のいいじゃんネットによれば、上記の「欠陥」は2012年初旬のバージョンアップで対応されるとのことだ。さすがいいじゃんネット!

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2011/12/06

世界の残りの半分と、荒川について

いま世間で起こっていることについて、地上波テレビの報道しか見ていない人と、インターネットでビデオニュース・ドットコムやニコニコ生放送、USTREAMなどの報道も見たり、ツイッターで良識のあるフリージャーナリストのつぶやきも読んだりしている人とでは、見えている世界がまったく違うと思う。

どれくらい違うかというと、地上波テレビの報道しか見ていない人は、後者の人たちがヘンな陰謀説に毒されているか、妙な新興宗教にだまされているか、単なるネット・オタクになってしまったかのように思えるくらいに、見えている世界がまったく違うと思う。

インターネットの報道が全面的に正しく、地上波テレビの報道が全面的に間違っていると言いたいのではない。

地上波テレビの報道しか見ていない人、とくに有名タレントが司会をしているワイドショー形式の報道しか見ていない人には、世界の半分しか見えていない。テレビとネットの両方にふれている人には、世界の残りの半分のかなりの部分が見えている。

得られる情報が多いほうが、より適切な判断ができる、というだけの能力を持っている人なら、世界の半分しか見えていないより、より多くの部分が見えている方が、望ましいと考えるに違いない。

最初から、私は真実など知りたくない、自分の信じる世界の中だけで生きられれば十分、という人にとっては、世界の残りの半分など、単に余計なものだろうけれど。

最終的には前者と後者の間で、話が通じなくなる可能性も、なきにしも荒川。

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2011/12/05

岡田斗司夫のニコニコ生放送ゼミについて

さっきまでニコニコ生放送で岡田斗司夫の放送を見てた。「ニコ生岡田斗司夫ゼミ」という番組。いろいろもっともらしいことを言ってたけど、意外に内容はムチャクチャなんだよね。

小飼弾は「機械政府」という表現で、東浩紀の「一般意志2.0」を2年早く言ってたが、東浩紀が評価されて小飼弾が評価されないのは、東浩紀が東大卒で学閥に所属しているからだ、云々。

岡田斗司夫の話は全般的に、インテリの王道を歩めなかった、ちょっと頭のいい人間にすごく訴求するように語られているんだよね。

なぜ村上隆と東浩紀は、やっていることの構造は同じで、どちらも数十年後、百年後に現代という時代をふり返ったとき、引用しやすい目印になるように現代をうまくまとめているだけだ、ということ。

なのになぜ村上隆は嫌われていて、東浩紀はそれほど嫌われていないかといえば、村上隆は成功して金を儲けているからだ。

この村上隆vs東浩紀論にしても、「結局はぼくら村上隆に嫉妬してるだけだよね」という、嫉妬の対象が才能なのか経済的成功なのか、わざとあいまいなところで「インテリ崩れ」の視聴者の感情のフックに見事にこたえるようなオチをつけている。

こういう話の展開も、あらかじめ岡田斗司夫がレジュメにまとめてあるんだから、その話をニコニコ生放送で視聴しながら、同意のコメントを書き込んでいる時点で、すでに岡田斗司夫の島宇宙の住人なわけだ。

ところで、小飼弾の「機械政府」の話は一度もまともに聞いたことがないけれど、そもそも民主主義という制度は効率性など求めていない。

民主主義を多数決と混同しているおバカさんは置いておいて、民主主義は合意形成のために少数派の意見を調整する過程まで考慮に入れた膨大な政治的手続きなので、効率的か非効率かといえば、非効率きわまりない政治制度だ。

日本には一度も本当の民主主義がなかったかもしれないけれど、欧米諸国で一定の本当らしさをもつ民主主義が何とか機能しているのは、それだけ非効率な制度であっても運用できるくらい、その基盤になっている社会が成熟しているからだ。

なので、メールや検索キーワード、ブログ、つぶやきなどなど、インターネット利用者がネットに向かって発信する膨大な情報を、グーグルの検索エンジンのような仕組みで解析して、集約する技術があれば、民意の最大公約数を効率的に抽出できるんだから、国家の意思決定機関である政府なんてほとんど不要になるし、それを実行する官僚機構ももっと小さくて済む。

これが岡田斗司夫が要約した、小飼弾の「機械政府」だけれど、民主主義のおこなっている少数派の意見の集約というのは、たしかに社会の複雑さを減らすための過程ではあるけれど、自然言語を解析して全体の傾向を抽出するといった単純化とは全く別物だ。

民主主義のおこなっている少数意見の集約は、少数意見を多数意見に解消させることが目的なのではなくて、意思決定の過程に少数派を参加させることで、多数派の意見を受けいれるように説得することに、最大の意味がある。

言い方を変えれば、少数派を説得するためのしくみや手続きを持たない民主主義というのは、単なる全体主義だ。

これだけ公正で透明な手続きでみんなの意見を集約した結果がこうなったんだから、まあ今回は自分たちの意見が通らなくても仕方ないか、でもいつかは自分たちの意見が通る可能性はまだ残されているな。

こういうふうに少数派を説得できない政治体制のことを、民主主義とは言わない。

なので小飼弾が「機械政府」をどう定義しているのか知らないし、興味もないけれど、「機械」の公正さや透明性に対する市民の信頼がなければ、「機械政府」は単なる全体主義、または独裁にすぎない。

仮に東浩紀の言っている「一般意志2.0」も、民主主義的な手続きの効率化という文脈で語られているのだとすれば、それは単なる民主主義の否定にすぎない。民主主義はそもそも面倒くさくて非効率的な制度だから。

岡田斗司夫はそんな風に小飼弾の「機械政府」の話をした後で、橋下徹が大阪市長に当選したことについて、日本のように成熟した先進国では、政治のリーダーってのは二流・三流の人材で十分、一流の人材は原子炉の廃炉とか、そういった分野に活用すべきと語っている。

橋下徹のような三流の人材の率いる政治団体が、大阪府知事と大阪市長にダブル当選してしまう事態は、上に書いたような、少数派を納得させるための手続きという意味での民主主義の手続きと考えればいい。

大阪府民や大阪市民も、ついでに、やしきたかじんのような歌手も、橋下徹と同じように三流市民なので、「橋下さんやったらしゃあないか」と納得してしまうのだ。その限りにおいて大阪府・大阪市の民主主義は健全に、かつ、もともととても非効率的な民主主義の中ではかなり効率的に機能したわけだ。

もちろんこれは皮肉である。

リーダーが二流・三流でいいというのは、市民たち自身が「私たちは二流・三流でいいです」とあきらめている成熟した社会にしか当てはまらないのであって、岡田斗司夫の言うように、全ての成熟した先進諸国に当てはまることではない。

たまたま岡田斗司夫と僕らの暮らしている日本という国が、成熟した社会の先進諸国ではあるけれども、リーダーが二流・三流の人材であることを許容するだけの諦観を持つ市民が多数派を占めているという、それだけのことだ。

まるで二流・三流の政治リーダーは、成熟した社会に共通の属性であるかのように普遍化して語るのも、岡田斗司夫流の誇張たっぷりの弁論術にすぎないのであって、そんなものにパソコンのディスプレーの前で「ふんふん」とうなずいている場合ではない。

まあ、立川談志のムダ話みたいなもんだと思って聞くぶんには、岡田斗司夫の話はとても面白いけれど、それ以上では決してない。

そんな岡田斗司夫のゼミが、ニコニコ生放送で来場者数4万人近い人気を集めているのは、ニコニコ生放送の視聴者の多くが、僕と同じような「インテリ崩れ」である事実を、素直に反映しているだけ。

まあ、そんなところ。

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2011/12/03

最近サラリーマン社会批判をあまり書かないことについて

最近、社内システム部門の仕事についての記事をあまり書いていない。

日本企業のサラリーマン社会について、日々考えることがないわけではないが、現場の仕事のいちいちについて取り上げて批評しても、あまり意味がないと思っているのだ。

日本人社員の平均点は高く、すき間仕事の取りこぼしがないように、助け合いながら仕事をするのは得意だが、一つひとつの新しい企画について、秀逸なアイデアを出せる人間は皆無に等しい。

僕に企画を任せてくれれば、もっとましな構想やシナリオ、段取りや手順を考えられるのだけれど、そのたびに口を出していたら単に空気の読めない、煙たい奴になってしまう。

日本の組織における同調圧力とは、そもそもそういうものであり、ふつうの日本人は幼稚園のころから、そうして和を乱さないことを叩きこまれてきている。

そういった仲良し集団から決定的にはじき出されてしまうと、そもそも仕事にならないので、普通の人たちの自尊心を傷つけないように注意しながら、自分のアイデアを神経をつかって小出しにしなければいけない。

頭脳をフル回転させなくてもできる仕事を毎日しなければいけないのは、確かに苦痛ではあるけれど、頭脳と体力を全開にしなければクビになるかもしれない過酷な競争のある職場よりはましだ。

何万という会社員が、こんなふうに考えながら、日本中のそれぞれの職場に埋もれているのだとすれば、日本経済が総体として斜陽になるのは当然。

これも長年にわたる日本の横並び式「みんな仲良く」教育の成果なので、そうかんたんに変えられるわけでもない。

無理してあまりラディカルなことを普段から発言していると、変人扱いされるのがオチ。

日本企業での会社員生活を15年以上も続けていると、変えられる部分と変えられる部分の区別がはっきりしてくる。それとともに絶望感も明確になってくる。

それだけのことだ。

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