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2012年1月の記事

2012/01/27

ツイッターの終わりの始まり

ツイッターがなんと、国別に別々の基準でつぶやきの検閲ができる機能を実装したことが話題になっている。というか、大ブーイングをくらっている。

きっかけはツイッターの公式ブログの記事「Tweets still must flow」(2012/01/26 twitter blog)

以下、試訳してみた。1年前の記事に書かれていたツイッター社のビジョンに比べると、明らかに個人の言論の自由の尊重という面で後退している。

ツイッターが国別のコンテンツ規制に踏み切ったことで、一つ言えるのは、YouTubeに対するDaily Motionのように、よりリバタリアニズム的な同種のサイトが成長する絶好の機会になるだろうということだ。

始まりはお気楽なリバタリアニズム的(=なんでもあり的)発想だったものが、企業として成長すると、事業の継続が最優先事項になり、とつぜん国家権力にひれ伏してしまう。お決まりのパターンだと言えばそうなのだが、まことに残念きわまりない話ではある。

1年前、『つぶやきは流れなければならない』という記事で次のように書いた。

「オープンな情報の交換は世界にプラスの影響をあたえることができる...世界のほとんど全ての国が表現の自由を人権と認めているが、多くの国は表現の自由には責任がともない、制限もあると認めている」

私たちは世界各国で成長しており、表現の自由の範囲にさまざまな考えを持つ国と出会うだろう。中にはあまりに私たちと考えが違いすぎて、とどまることができなかった国もある。私たちと考えが似ているけれども、フランスやドイツのように、ナチス擁護のコンテンツを禁止しているなど、歴史的、文化的な理由で、ある種のコンテンツを制限していることもある。

今までのところ、こうした国の制限を考慮するには、コンテンツをすべて削除するしか方法がなかったが、本日から、特定の国の利用者に対してのみ、要望に応じてコンテンツを制限する機能を作った。他の国の利用者からは、それらのコンテンツは閲覧できる。また、利用者に対してそのコンテンツがいつ、なぜ制限されるのかを、透明性をもって伝える方法も確立した。

私たちはまだこの機能を使っていないが、特定の国で、あるつぶやきを制限するように求められれば、利用者に知らせる努力をした上で、いつからそのコンテンツが制限されるかを明示するつもりだ。この透明性確保の一部として、「チリング・エフェクト」サイトと提携し、次のページ http://chillingeffects.org/twitterを公開している。このページはツイッターについての周知事項を見つけやすくするためのものだ。

ヘルプの中にある、ポリシーについてと、アカウント設定についてのページに、より詳細な情報がある。

企業としての私たちの核となる価値は、利用者どうしの声を守り、尊重することだ。私たちはいつでもどこでも、できる限りコンテンツを守ろうと思っている。そしてそれができない場合は、利用者に対する透明性を確保するつもりだ。つぶやきは流れつづけなければならないから。


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客観性を標榜する池田信夫は責任論に口を挟むな

福島第一原発事故による被ばく量を、喫煙や生活習慣病などの他のガンの原因と比べるのは、「客観的な科学者」の常套句だ。

でも疫学的な確率論を持ち出すのは、「どうせガンで死ぬんだから福島事故の被ばくなんて無視できる」と言っているのと同じ。

日本では、福島第一原発事故による被ばくより、自殺で死ぬ確率のほうが高いので、「どうせ自殺するんだから福島事故の被ばくなんて無視できる」と言っても、同じことになる。

以下、同じ例はいくらでもあげられる。

「どうせ交通事故で死ぬんだから福島事故の被ばくなんて無視できる」

「どうせ通り魔事件で死ぬんだから福島事故の被ばくなんて無視できる」

「どうせ正月に餅を喉につまらせて死ぬんだから福島事故の被ばくなんて無視できる」

「どうせ熱射病で死ぬんだから福島事故の被ばくなんて無視できる」

「どうせ雪下ろし中の事故で死ぬんだから福島事故の被ばくなんて無視できる」

「どうせ新歓コンパの急性アルコール中毒で死ぬんだから福島事故の被ばくなんて無視できる」

「どうせ某宗教団体の某化学物質大量散布事件で死ぬんだから福島事故の被ばくなんて無視できる」

「どうせ医療ミスで死ぬんだから福島事故の被ばくなんて無視できる」

死因に確率論を適用するのは科学的には正しい。しかし、実際に人が死んだ場合、一貫して確率論で死因を語ることによって、科学者は個別の死についての責任を負わずに済む。

例えば、一貫して確率論を持ち出す科学者は、100万分の1の確率とされる事象にたまたま当たって死んでしまった人について、科学的には「運が悪かっただけ」と論じる。これは科学的には完全に正しい。

確率論は、個々の事象の発生について、あらゆる恣意性を排除しなければ成立しない。例えば「神様のせい」など、そういった恣意的な説明づけを一切排除したところに初めて成立する。

つまり、確率論は個々の事象についての「社会的責任」の議論をあえて排除しなければ、客観的な化学として成り立たない。本質的にそういうものなのだ。

なので、客観性を標榜する科学者が、福島事故の被ばくについて客観的かつ科学的な議論をするのは全く問題ないのだが、だからと言って、個々の事象が起こった時に誰が責任をとるかの「社会的責任」の議論が免除されるわけではない。

もっと言えば、客観性を標榜する科学者たちは、原理的に「社会的責任」の議論に参加する権利はない。なぜなら、科学の客観性とは、個別の事象を特定の原因に帰属する恣意性を排除して初めて成り立つからだ。

しかし「社会的責任」を論じるときに、具体的な事象がまだ起こっておらず、起こるかもしれない、というケースがある。福島第一原発による健康被害はこのケースにあたる。

現実の社会は、まだ具体的な事象が起こっていないからといって、その事象が万が一起こった場合の責任者を明確にしておかないと、残念ながら回らない仕組みになっている。

まだ起こっていない事故についても、もし起こったら誰が責任をとるかを明確にしておかないと、現実の社会は回らないのだ。

しかし、純粋に客観的な科学は、まだ起こっていない事象について、誰が原因を作ったかを客観的・科学的に議論することはできない。なので責任の帰属についての議論では、科学者は完全に無力である。

したがって、客観的な科学者は、任意の福島県民が将来ガンにかかった場合、「その原因が福島原発事故である可能性は低い」と言うことはできるが、まず科学の水準で「その原因は福島原発事故ではない」と断言することはできない。

さらに、科学の水準をはみ出して「東京電力に責任はない」とか、「無駄な避難をさせた政府に責任がある」とか、責任の帰属について論じることは、原理的に不可能だ。

客観的な科学を標榜する池田信夫のような人たちが言うことが出来るのは、せいぜい次のようなことだけだ。

「無駄な避難をさせた政府に責任がある可能性が高い」

「原発を運営している東京電力には責任がない可能性が高い」

「大規模な除染事業をした政府に責任がある可能性が高い」

客観性を標榜する科学者たちは、とにかく「誰が責任をとるべきか」という議論に口をはさまないで頂きたい。

彼らは確率論的な客観性しか議論できないので、何一つ断言できないし、断言できないということは自分たちで責任をとるつもりも毛頭ないし、他人に対しても責任を取れという論理的な権利がそもそもない。

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シャープの轍を踏む東芝の「BookPlace」

東芝が発売する電子書籍端末「BookPlace DB50」、この強い既視感はいかんともしがたい。

シャープが芥川賞作家の平野啓一郎を招いて、電子書籍端末「GALAPAGOS」を大々的に発表したのは2010/11/29のことだった。

『シャープ、作家の平野啓一郎氏を招き「GALAPAGOS」イベントを開催』(2010/11/29 PC Watch)

正確にはもう少し前に「GALAPAGOS」は発売されていたが、それを平野啓一郎という若手純文学作家をダシに、端末機器の性能だけでなく、配信されるコンテンツ面からも力を入れますよ、というシャープのアピールだったと思われる。

しかし、純粋な電子書籍端末としての「GALAPAGOS」が大失敗に終わったのは、周知の事実だ。

そして東芝は、あれから1年強しか経っていないのに、同じ過ちをくり返そうとしている。

『東芝、電子書籍専用端末「BookPlace DB50」リリースの理由』(2012/01/26 19:00 IT Media)

さすがに純文学作家の平野啓一郎では、「平野啓一郎。誰それ?」という一般人に訴求しないと思ったか、「キレイどころ」の東京大学卒女性タレント・三浦奈保子と、より柔らかい作風の大衆小説家・井沢元彦の二人をそろえた。

東大卒の女性タレントと大衆小説家をゲストに呼ぶ時点で、すでに「電子書籍はコンテンツ次第で端末機器はどーでもいい」ということを、東芝は完全に見誤っている。

まず、この「BookPlace DB50」が情報端末としてどこまでのことができるかは、以下のGIGAZINEの記事が詳しい。

『東芝の電子ブックリーダー「ブックプレイス(BookPlace)DB50」で何ができるかまとめ』(2012/01/26 15:46:17 GIGAZINE)

Android端末としては使えないので、せっかくのWSVGA液晶やmicroSDカードスロットが、ほぼ完全にムダなスペックであることがわかる。まさにシャープが大失敗した最初の「GALAPAGOS」と同じ考え方で作られた製品だ。

では東芝は何で差別化しようとしているのかといえば、価格であって、価格しかない。

実売価格はネットの各種記事によれば22,000円前後になり、BookPlace専用の電子書籍販売サイトの5000円分ポイントが付いてくるらしい。それでも米国Kindle Fireより高い。

しかし、そもそもシャープの「GALAPAGOS」が大失敗し、ソニーの「Reader」がヒットしない根本原因は、価格ではない。日本の書籍流通が旧態依然たる構造になっていて、電子化される書籍にろくな本がないからだ。

「GALAPAGOS」発売のときにも同じことを書いたような気がするのだが、ゴミみたいな本しか読めないことはBookPlace専用のコンテンツ販売サイトに接続して、例えば「文学」や「ビジネス・社会・IT」、「ノンフィクション・ドキュメンタリー」をクリックしてみるといい。

まず、池田信夫氏に敬意を表して池田信夫著の書籍を検索すると、4件しか出てこない。あの多作の宮台真司にいたってはたったの5件。なんじゃこれは。

しかも、例えば最近、書店で平積みになっている池田信夫氏の新刊『イノベーションとは何か』は1,600円。

Amazon.co.jpで紙の『イノベーションとは何か』を注文すれば2,100円で翌日に届き、読み終わったら同じくAmazon.co.jpで古書として売り払えば、差し引き実質500円くらいで読めるだろう。ブックオフに売っても実質1,500円くらいでは読めるはずだ。

それに対して、BookPlaceで同書を購入してしまうと1,600円かかり、古書として売りさばくことさえできないどころか、自分のPCやスマホで読むことさえできない。

同じことは、現在日本国内で販売されている全ての電子書籍端末に当てはまる。この状況で電子書籍を購入する人は、金があり余ってどうしようもない人か、経済観念のまったくない人だろう。

いい加減、シャープ、東芝、ソニーなどなど、国内の電機メーカーは、日本国内の紙の書籍流通の現状を無視して、電子書籍がビジネスとして成立するという大いなる勘違いをし続けるのはやめたらどうか。

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2012/01/20

池田信夫が無視する「科学的合理性」と「政治的合理性」の違い

昨日(2012/01/19)のニコニコ生放送の『ニコ生アゴラ「放射能はそんなに危険?原発のリスクを考える」池田信夫×澤昭裕×高田純×松田裕之』を見て、池田信夫の限界が分かったので書いてみる。

この番組の主旨は、福島のほとんどの地区の現状の放射線レベルは、健康に影響がないというものだ。池田信夫は一貫してブログやツイッターで、そのように主張しているが、なぜ多くの日本人にその認識が広まらないのか、考えてみた。

その結果、池田信夫の議論の限界が分かった気がした。

それは、合理性には、「科学的合理性」の水準と、「政治的合理性」の水準がありが、池田信夫は一貫して「科学的合理性」の範囲内でしか語っていないことである。

以下、ていねいに説明してみたい。


1.科学的合理性の水準

まず池田信夫が言うように、福島第一原発の事故は「終わった」ものと仮定する。

じっさいには、原子炉の廃炉作業がこれから数十年にわたって続き、作業ミスや台風、余震などの自然災害による二次災害のリスクは十分に考えられ、とても「終わった」と言えない。

しかし池田信夫の言うように「終わった」、つまり、現状より放射性物質の飛散が増加することはないと仮定する。

その上で、上記のニコニコ生放送の番組に出演していた学者たちも言うように、原発周辺を除く福島のほとんどの地区の放射線レベルは健康に影響がないと認めよう。

ただし、ここでいう「健康に影響がない」というのは、広島、長崎、チェルノブイリなどの被曝者の疫学的調査に基づき、統計学的に作成された基準により、福島原発事故による将来の健康への影響を確率的に予測した、という意味だ。あくまで確率論である。

つまり、例えば福島のある住民が10年後にガンになったとき、「それは原発事故のせいです」と100%断言することはもちろんできないが、「それは原発事故のせいではありません」と100%断言することもできない。

ただ、原発事故が原因ではない確率が、限りなく100%に近い、と言うことはできる。これが池田信夫の主張だと思うし、僕もここまでは科学的に合理的な説明として納得できる。

(もちろん、そもそもICRPが基礎資料にしている広島、長崎の疫学的調査が、肥田舜太郎氏の言うように原爆投下後5年間の「空白」があったり、米国政府による隠蔽工作があるなど、本当に信用できるかという問題はあるが、ここでは無視する)


2.科学的に合理的な市民という想定

次に、そのような科学的に合理性のある主張を聞いた福島の市民が、どう行動するのが合理的かを考えてみる。

福島に住み続けて、仮に将来ガンになったとしても、それが原発事故のせいだと100%断言できないし、原発事故のせいでないと100%断言することもできない。ただし、原発事故のせいでない確率が100%に限りなく近い。

もちろん、生活習慣や喫煙・飲酒など、他の要素の方が、はるかにガンにつながる確率が高いので、事実上、原発事故による影響は無視できる。

しかし、ここでは池田信夫の信条にのっとって、徹底して合理的に考えたい。

ガンの原因が福島事故である確率をゼロだと断言できない。もしゼロ%だと断言してしまうと、徹底した合理主義者から見れば、単なるインチキ予言者になってしまう。

そこで、徹底して合理的な市民は、ガンになる確率を少しでも下げる避けるために、自分の意思で排除できる原因は排除しようとする。まず生活習慣を改める、喫煙をやめる、飲酒は適度にする、などなど。

同じように、放射線レベルが福島より低い地区があり、そちらへ移住するコストを負担できるとすれば、原発事故がガンの原因になる確率がゼロ%だと断言できない以上、移住することを選択するのが合理的だ。

周囲から福島事故の安全性を強調されようが、危険性を強調されようが、それらの議論と無関係に、「確率がゼロではない」という合理的判断のみに基づいて、移住を選択するはずだ。

問題は、徹底して合理的に考える能力はあるが、「そんな小さな確率のために移住するコストなど負担できない」という市民の場合だ。

市民のコスト負担能力、つまり、所得水準や、福島以外の土地に親戚・友人がいるなどの人脈のバラツキについては、ある程度「自己責任だ」とする合理的な議論は成り立つ。

しかし原発事故について、「あなたが福島に住んでいた責任だ」とするのは合理的ではない。福島の住民に将来起こるかもしれない原発事故の規模について、現実に事故が起こる前に、100%確実な情報を提供することは合理的に不可能だからだ。

つまり、原発事故が起こる確率がゼロでないことを知った上で福島に住んでいても、その事故が、既存の放射線防護基準にてらして、福島を出なければいけない規模になるかどうかは、誰も100%の確度で予測できない。

移住が不要な事故にとどまる確率が100%だと断言したとたん、それは科学的合理性ではなく、インチキ予言者になってしまう。


3.徹底した科学的合理主義者どうしの対決

したがって移住するのが合理的な行動になるが、その場合、少なくとも移住コストの一部分については、一義的には東京電力に対して補助を求めるのが合理的な行動となる。(東京電力に十分な補償能力がなければ国が助けることになるが)

さらに、移住した後ガンになったとして、そのガンの原因が、100%原発事故にあると合理的に断言できないと同時に、100%原発事故でないとも、合理的に断言できないからということで、この市民が東京電力(または国)を相手に訴訟を起こしたとしよう。

原発事故で移住した市民にとって、移住コストの補償を求める訴訟と、健康被害の補償を求める訴訟とでは全く性質が異ってくる。

議論をわかりやすくするために、もう一つ、福島に残った市民も訴訟を起こすと仮定してみよう。

ある市民が原発事故による健康被害はゼロではないが、限りなくゼロに近いので、福島に残ることに決めたとしよう。

この市民が、後々ガンになったと仮定し、その原因が(誰にも100%の確度で断言できないが)原発事故だとして、東京電力(または国)を相手に訴訟を起こしたと仮定しよう。

整理すると、ここまでで次の3種類の訴訟を仮定したことになる。

(1)福島を出た市民が、移住コストの補償を求める訴訟
(2)福島を出た市民が、健康被害の補償を求める訴訟
(3)福島に残った市民が、健康被害の補償を求める訴訟

これらの訴訟で、徹底して合理的な原告側の市民と、被告の東京電力を支持する徹底した合理主義者の対決を想像してみよう。

(1)について、被告である東京電力側の徹底した合理主義者は、移住という行為の責任は市民に100%帰属できるが、移住するという意思決定が100%誤りであること、つまり、原発事故による健康被害がゼロであることを断言できない。したがって、被告を擁護する余地は原理的には存在しない。

つまり(1)では、被告側は「移住が不要だった」こと、つまり「福島に残っても原告の健康や財産上の損害は将来にわたってゼロである」ことを証明する必要があるが、それは徹底した合理主義者には不可能である。

逆に原告側は、「移住によって健康被害がゼロになる」ことまで証明する必要はなく、「移住によって健康被害の確率が下がる」ことさえ証明できれば十分だ。

次に(2)について、同じく被告側の徹底した合理主義者は、「健康被害を避けるための移住」という選択をした責任は市民にあるので、それでも健康被害が避けられなかったからといって、被告を責めることはできないとして、被告を擁護できる。

つまり(2)では、被告側は「移住によって健康被害の確率がゼロになる」ことまで証明する必要はなく、「移住によって健康被害の確率が下がる」ことさえ証明できれば十分である。

逆に原告側は、「移住によっても健康被害の確率は下がらない」ことを合理的に説明すると同時に、自分たちが移住した理由をそれと整合的に説明する必要があり、これは徹底して合理的に考えると両立不可能だ。

最後に(3)について、同じく被告側の徹底した合理主義者は、原発事故による健康被害を100%ともゼロとも断言できないという理由で、被告を弁護する余地が生まれる。

つまり(3)では、被告側は「原発事故と健康被害の因果関係がゼロ」であることまで証明する必要はなく、「原発事故と健康被害の因果関係は100%と言えない」ことさえ証明できれば十分である。

逆に原告側は、「原発事故と健康被害に100%の因果関係がある」ことを証明する必要があり、これは徹底して合理的に考えると不可能だ。

以上のように、徹底した合理主義者どうしが原告・被告として、合理的に争うことを仮定すると、次のような結果になる。

(1)の「移住コスト」訴訟:原告の市民側が勝訴する確率が高い。
(2)の「健康被害」訴訟:被告の東京電力側が勝訴する確率が高い。
(3)の「健康被害」訴訟:被告の東京電力側が勝訴する確率が高い。

つまり、市民が徹底して合理的で、いわゆる「反原発派」「原発推進派」の政治的扇動に左右されず、あくまで合理的に考えて行動すると、健康被害については、移住しても、福島に残っても、民事訴訟に勝つ確率が低いことが分かる。

市民は、徹底して合理的に思考し、行動すると、移住した方が何らかの補償を得られる確率が高くなるが、健康被害についてはどちらにしても何の補償も得られない確率が高くなる。

ここに、科学的合理性の向こう側にある、政治的な合理性の水準が現れる。

以上のことから、市民は科学的合理性にてらして「あえて非合理的に」考えて行動した方が、自分自身に有利になる、という結論が導きだされる。


4.政治的な合理性の水準

つまり、市民が徹底的な合理主義者に対抗して、自分たちの健康や財産を保全するためには、「あえて非合理的に」思考し、行動する方がよいのだ。

おそらく市民はこのことを直感的に分かっている。

別の言葉でいえば、近代社会という仕組みは、徹底的に合理的に思考し、行動すると不利になる場合、ここまで説明したような複雑な論理的すじ道をたどらなくてもいいように(=社会の複雑性を縮減するために)、「非合理的」な思考や行動へ誘導するようにはたらく。

原発事故の健康被害をうける可能性がゼロと断言できない場合、「あえて非合理的に」思考し、行動することこそが「合理的」になる。この「合理性」は科学的な合理性とは別物なので、ここでは「政治的合理性」と仮に呼ぶことにする。

池田信夫は、「科学的合理性」が僕らの住んでいる社会において「常に」正しいと主張しているが、実際には、徹底して科学的な合理性を追求することで、かえって自分の生命や財産を保全できなくなる場合がある。

その場合、「科学的合理性」にてらし合わせると、一見「非合理的」であるような思考や行動を敢えてとる必要が出てくる。

原発事故におけるリスク・コミュニケーションで、相手を説得するための合理的説明(往々にして一方通行になりがち)よりも、相手の共感を得られるような共感的対話(どちらかというと相手の話を聞くこと重視)の方が有効とされるのも、「科学的合理性」の水準と、ここで「政治的合理性」と名付けた水準が、違うものであることを示唆している。

「科学的合理性」の水準においては、池田信夫がいつも主張しているように、福島における放射線レベルに市民がどう対処すべきかは、「あらかじめ」確定できる。

しかし市民にとっては、そのとおりに行動するよりも、「あえて非合理的」な思考や行動をとったほうが、自分たちの生命や財産を保全できる確率を高められるかもしれない。そしてどの程度その確率が高まるかは、「あらかじめ」確定できない。

その確率は高まるかもしれないし、ヘタをすれば低くなるかもしれない。

それでも、「科学的合理性」にもとづいて思考・行動するよりも、「あえて非合理的」に、つまり、「政治的非合理性」にもとづいて思考・行動した方が、自分たちでコントロールできる部分がより大きくなる。つまり自己裁量権が大きくなる。

だから市民は「科学的合理性」の説明ではなく、「政治的合理性」にもとづく「危険デマ」や「安全デマ」にも反応して行動するのである。

また、現実に民事訴訟などの法廷闘争になったときには「科学的合理性」の水準に巻きこまれることを敢えて避け、「政治的合理性」の水準で「命の大切さ」など、感情的な訴求力を持つ言葉を使う方が有利になる。

池田信夫が分かっていないのは、この「科学的合理性」の水準と、科学的合理性の水準で非合理的な行動が合理性を持ってしまう「政治的合理性」の水準の、厳然たる区別である。

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2012/01/19

低レベルすぎたフジテレビ『なかよしテレビ』の日中韓比較

フジテレビの『なかよしテレビ』をたまたま見たが、ひどい番組だった。視聴者の一般的な「中国観」におもねるのもいい加減にしろ、という感じだ。

周来友のような大声でまくし立てる、日本人の思う「典型的中国人」を出演させ、中国の世界最大の橋の話が出てくれば、品質は大丈夫なのかという、中国製品=粗悪品というお決まりのツッコミが入る。

唯一評価できるとすれば、中国人の夫婦は、共働きが当たり前、夫が家事をするのも当たり前という事実の紹介だ。

しかし、番組に登場した韓国人夫婦にも同じことが言えるが、明らかに「勝ち組上流階級」の家庭だけを取り上げるのはどうかと思う。バランスをとる意味でも、本当の一般家庭も取り上げるべきだろう。

ゲスト出演した石破茂は強引に、「日本も軍隊を持たなければ一人前の国とは言えない」という持論をしゃべり出すし。

いずれにせよ、番組の最後では3か国の出演者が無理やり「なかよしソング」的なものを歌わされるという、徹頭徹尾低レベルな番組で、見ていて気分が悪くなった。

ただ、ホリプロ所属でSDN48のメンバーであるチェン・チュー(陳屈)が出演しているので、彼女のせっかくのレギュラー番組をなくすのは酷だし...。

フジテレビの頭の悪いバラエティー班には、大人が見るまともな異文化交流番組は作れないということで、仕方ないといえば仕方ない。

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2012/01/12

リスコミに言及しつつもリスコミに失敗している啓蒙主義者たち

福島第一原発事故による放射線量について、厳密に科学的な情報発信をする人物と、科学的に厳密ではないが「共感的」な情報発信をする人物と、どちらがより多くの一般市民の賛同を得られるだろうか。僕はたぶん後者だと思う。

原発事故に関するリスク・コミュニケーションについて、池田信夫のブログに下記のページが引用されていた。とても興味深かったので皆さんにもご紹介したい。

山口浩『「ゼロリスク幻想」とソーシャル・リスクコミュニケーションの可能性』 (2011/04/19 23:17 SYNODOS JOURNAL)

この文章の中でも興味深いのは「リスクのとらえ方の差」という章だ。リスクマネジメントの専門家と一般人とで、リスクのとらえ方がどれくらい違うかが書かれてある。

内容については直接この文章をお読みいただくとして、ここ数日、僕がブログで言いたかったことが、とても簡潔に書かれていた。

人々がものごとに対する態度を決定するとき、十分な分析による方法(=システマチック処理)と、情報発信者への信頼や接触する情報量など周辺的な要素による方法(=ヒューリスティック処理)の二種類がある、らしい。そして...

「このうち前者を行うには、めんどうな手間を厭わない程に強い動機づけとそれを行う能力が必要であり、それらを持ち合わせない場合には、より簡便な後者に頼ることとなる。ある分野の専門家であれば、当該分野に関する重要な判断の際にはシステマチック処理を行うであろう。しかし一般の人々、あるいは専門家でも専門以外の分野については、手間のかかるシステマチック処理をわざわざ行う動機もなければ、そのために必要な知識もないことが多いから、自然とヒューリスティック処理に頼ることが多くなるだろう」(上記、山口浩氏の文章から引用)

まったくもってその通りだ。したがって...

「ヒューリスティック処理を行う一般の人々とのコミュニケーションは、詳細な情報よりも、共通の価値観をもつと思われる相手への共感を通じて成立する。難しいことはわからないがとにかく『安全・安心』なら受け入れるという人々へのもっとも効果的な回答は、『ゼロリスク』でも『リスクは10-7 件/台以下』でもなく、『自分たちは信頼に足る』というメッセージだ」(同引用)

...ということになる。これもまったくその通り。

つまり一般人に対しては、客観的な分析に依存せず、「自分たちは信頼できる」というメッセージを伝えることに成功しなければ、リスク・コミュニケーションとしては失敗になる。

その意味で、一般人の反原発派までを積極的に敵にまわして、自らの論理的正しさをブログやツイッターで主張し続けている池田信夫は、一部の「自分はインテリだ」と信じているネットユーザの支持は得られるが、多くの一般人からは無視されるか、「原発推進派」というレッテルを貼られ、全く信頼されないだろう。そのようにレッテルを貼られることに対しても、池田信夫は論理的な反論しかしないのだから。

ちなみに上記の山口浩氏の文章は、一般人への適切なリスク・コミュニケーションについて「啓蒙」から「共感」へ、というふうにまとめている。

池田信夫のような「共感」的コミュニケーションが全くできない人物は、実は日本全体の原発事故をめぐるリスク・コミュニケーションにとっては、百害あって一利なしかもしれない。

また、中川恵一氏のように「福島県では原発事故によるガンは絶対に起こらない」と「ゼロリスク」を断言してしまう専門家も(なにしろ『放射線医が語る 被ばくと発がんの真実』の帯にデカデカと書いてあるのだから)、いくら著書の中で被災者に共感的なメッセージを書いていても、リスク・コミュニケーションにおいて成功しているとは、とても言いがたい。

山口浩氏が上掲の文章で、2011/04の段階ですでに警告していたことを、池田信夫も中川恵一氏も実践できていないのだから、原発事故についての日本社会のリスク・コミュニケーションが決定的な成果をあげられないのは当然だと言える。

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2012/01/11

続・中川恵一氏の原発事故に関するコミュニケーション戦術のまずさ

中川恵一氏が著書『放射線医が語る 被ばくと発がんの真実』に書いてあった、ECRRのクリストファー・バズビー氏がいかがわしいサプリメントを販売しているという「噂」だが、噂ではなく、英『ガーディアン』紙のウェブサイトにちゃんと記事があった。

Post-Fukushima 'anti-radiation' pills condemned by scientists (2011/11/21 16:59GMT)

というか、僕がちょっとネットを探せば簡単に見つかるような記事があるなら、中川氏は著書の中で引用すべきだろう。

自身のツイッターでリスク・コミュニケーションが大事だ、大事だとくり返し言っておきながら、中川氏は「反原発カルト」に「洗脳」されている市民に対する最低限の配慮さえ欠いている。

だから僕は、中川恵一氏がコミュニケーション戦術を間違えていると言っているのだ。

中川恵一氏は、自分自身が池田信夫などの「客観的で中立的な科学的事実のみを信じる人々」の一員であることに、あまりに無自覚である。

池田信夫が「放射脳」と蔑称する人々にすでに「洗脳」された市民から見れば、池田信夫や中川恵一氏は、残念ながら、また別の「カルト」にしか見えないのだ、ということを中川恵一氏は自覚すべきである。

その自覚がなければ、まともなリスク・コミュニケーションなどできるはずがない。

英国の『ガーディアン』紙が中道左派であり、日本で「反原発カルト」に「洗脳」されやすい人々寄りのメディアであることを紹介し、その記事でECRRのクリストファー・バズビー氏の高額なサプリメントが、複数の学者によって効果を疑われていること。

それを説明するのに、注としてでもいいので、以下のような一文を『被ばくと発がんの真実』に付け加えるだけで、どれだけ説得力が増すか。

「ECRRのリーダーであるクリストファー・バズビー氏は、日本向に高額な放射線防護のサプリメントを販売していますが、中道左派のイギリス『ガーディアン』紙は2011年11月の記事で効果はないと非難しています」

中川恵一氏は、本当に福島県民に対するリスク・コミュニケーションの具体的な戦術を真剣に考えているのだろうか。

本当に考えているなら、ECRRが信用できないという主張を補強するのに、自分の言葉だけでは効果が薄く、欧米のメディアなど、第三者を援用する必要があることくらい分かりそうなものだ。

結局のところ、池田信夫にしてもそうだが、中川恵一氏の著書も、自身の正しさについての確信が言葉の端々に露骨に現れ、結果的に反対の立場の人々への軽蔑が行間ににじみ出てしまう。

その時点で、池田信夫や中川恵一氏には「反原発カルト」に「洗脳」された市民を「脱洗脳」することはできない。批判を先鋭化させればさせるほど、自分で自分の言説の説得力を弱めることになる。

別の表現をすれば、とくに池田信夫のような人物は、自身の言葉づかいについて、「心理学的」配慮を欠いているどころか、「心理学的」に逆効果の言説によって、反対派から感情的に嫌われるだけに終わっている。

僕は単なる会社員で、このブログは誰かを説得するためではなく、自分で考えたことをまとめるために書いているだけだ。

しかし中川恵一氏は自身のツイッターではっきりと、飯舘村民や福島県民へのリスク・コミュニケーションが重要であり、自分はそれを今後もやって行くと書いている。だから『被ばくと発がんの真実』という書物を執筆したのだろう。

氏のように他人の考え方を変えたいと思っている人間が、著書の中でガーディアン紙の引用をする程度の配慮ひとつできないのでは、有効なリスク・コミュニケーションなどできるはずがない。

P.S.
ちなみに、結局お前は中川恵一氏の意見に賛成なのか、共産党員の肥田舜太郎の意見に賛成なのかというツッコミが入りそうなので、現時点での回答を書いておく。

どちらが正しいかを判断するための基礎的な科学知識がないので、愚かな一市民としては、リスク回避的な思考にならざるを得ない。つまり、より放射線の危険性を強調する言説に、便宜的に、あくまで便宜的に賛成せざるを得ない。これが現時点での僕の意見である。

このような僕の意見を、バカだ、臆病だと罵倒するのは結構だが、どちらが正しいか確信が持てない以上、よりリスク回避的になるのは、無知な一市民として「心理学的」には当然だと思う。

池田信夫はこういう態度を、「文学的」と呼んで軽蔑するだろうが、そのように軽蔑する限り、池田信夫が「文学的」な人々を説得して考えを変えさせることは絶対に不可能だろう。

この意味で、池田信夫のように徹頭徹尾「科学的」であろうとし、「文学的」な考え方を徹底して非難する態度は、科学的にはまったくもって正しい(=真である)としても、倫理的に正しい(=善である)かどうかは、議論の余地があると僕は考える。

中川恵一氏にも同じことが言える。科学的に正しいことを相手に納得させるためには、場合によってはあえて「文学的」に語らなければいけない。それを中川恵一氏は、あまり分かっていないように見える。

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2012/01/10

中川恵一氏の原発事故に関するコミュニケーション戦術のまずさ

中山恵一氏の著書について、改めて僕の意見をはっきりさせておきたい。

中山恵一氏が著書『放射線医が語る 被ばくと発がんの真実』を書いた動機に何ら問題はないと思う。

つまり、ネットの一部であまりに原発の危険性に偏った情報が流されているので、それを中和するために、放射線医学の専門家としてより客観的な情報を伝えたい、という動機に何ら問題はない。

飯舘村をはじめとする福島県の住民は、反原発の立場にもとづく情報だけでなく、それに対立する中川恵一氏の発するような情報にもアクセスする権利があるのは当然だ。

僕が問題にしているのは、そもそもなぜ多くの国民が原発について、危険性を強調する情報を信じ、安全性を強調する情報を信じなくなっているか、という点だ。

その原因の一つは、原発事故直後の政府や東京電力からの公表情報が、後になるほどより悲観的になり、結果的に意図的な隠蔽をしていたかのように見えてしまったことがある。

なぜ意図的な隠蔽に見えるような情報公開の仕方になったのかについては、さまざまな分析があるのでここには書かない。

ただ、事故直後の安全を強調する情報が、東京電力の責任を追及する世論の盛り上がりとともに、危険性を強調する情報によって徐々に淘汰されていった。このことだけが、多くの国民が原発の安全性を強調する情報を信じなくなった唯一の原因ではない。

別の原因として、原発推進側が1960年代以降、一貫して原発の安全性を伝える情報しか国民に与えてこなかったことがある。

これは日本だけの話ではない。欧米諸国でも、主に左翼からの反原発運動と、体制側の原発推進のための宣伝活動の対立が、この半世紀ずっと続いてきているという歴史がある。

この対立を政治的と形容するかどうかは別として、福島第一原発事故が起こる前であっても、原発をめぐる日本社会の言説は、決して政治色のない客観的かつ科学的な論争でなかったことはれっきとした事実だ。

したがって、中川恵一氏のように、原発についていくら科学的な客観性を主張しても、残念ながら原発についての政治的な立場を中和することはできない。

中川恵一氏のように客観性を標榜することこそが、これまでは原発推進という政治的な立場を擁護するために利用されてきたため、今さら客観性を主張されても原発推進派の意見にしか聞こえないという、大きな政治的文脈がある。医学者といえども、その大きな政治的文脈から自由ではありえない。

原発推進派が、客観的・科学的な意見にアレルギーを示す反原発派を、まるで何かの宗教に洗脳されているかのように非難するのは自由だが、いくら非難したところで反原発派の洗脳が解けるわけではない。

むしろ、原発推進派が反原発派の「客観性に対するアレルギー」を非難すればするほど、反原発派は科学的な客観性を信じなくなるだけだ。

僕が中川恵一氏の著書について指摘したかったのは、原発に関するそういった現代日本の言論状況について、中川恵一氏があまり無自覚すぎることである。その無自覚さが、せっかくの中川恵一氏の冷静な議論を台無しにしていることを指摘したかったのだ。

ICRP基準の正しさを科学的に検証することや、NHKがICRP基準を正確に伝えていないことに対して、中川恵一氏がいくら厳密に反論したところで、原発についての今の言論状況では、原発推進派の宣伝活動としてしか受けとられない。

もちろん逆もまた真なりで、ICRPの累計100ミリシーベルト基準に満たない汚染物質や食品についても危険だと主張したところで、それらはいたずらに恐怖心をあおる脱原発派による風評としてしか受けとられない。

つまり、現在の原発に関する日本の言論状況の本質的な問題点は、科学的で客観的で中立的に語ろうとすればするほど、ほとんどの人々にそう受けとられないという逆説なのである。

そして、専門家でない一般人が、こういったあいまいな状況に置かれたとき、より危険性を強調する意見になびいて、危険を少しでも未然に避けようとするのは当然だ。それに対して反原発派の洗脳だ、非科学的な思い込みだなどと言ってもムダである。

その結果、どうしても反原発派の言説の方が、人々の支持を集めやすくなる。これは、原発の安全性・危険性について、何が真実なのかすでにあいまいな状況が出来てしまっている限り解消しようがない。

にもかかわらず、中川恵一氏は、政府が予算をかけてリスク・コミュニケーションをすれば、福島の住民は福島に戻ってくると信じており、そのためにコミュニケーション戦術を完全に間違っている。

たしかに、中川恵一氏の懇切丁寧な説明を聞けば、一定数の福島県民は一時的に「そんなに心配することなかったのか」と安堵するかもしれない。しかし、だからといって、すでに県外に非難している親族や知人が避難先から戻ってくるわけではない。

極端な方法として、本当に中川恵一氏が自分の主張が正しいと確信しているなら、東京大学の人脈を総動員して政府に働きかけ、氏が健康被害が出ないと確信する範囲の住民については将来的な補償は一切しないというスキームを作ればよい。

将来の補償がないと分かれば、中川恵一氏らに深い恨みを抱きつつ、仕方なく福島県に戻る人々はいるだろう。それでも戻らない人々は、政府だけでなく、理論的背景となった中川恵一氏自身との法廷闘争を起こすかもしれない。

それくらいの我が身が危険にさらされるのを覚悟で、中川恵一氏が不要な避難によるストレスの方が健康に害があると主張しつづけられるかどうか。ここにおいて、中川恵一氏の真価が問われている。

逆に言えば、政府にリスク・コミュニケーションの予算を要求するだけで、我が身を政治的な危険にさらす覚悟がないのであれば、残念ながら原発に関する日本の言論の現状を変えることなどできない。

中川恵一氏の主張が役立つのは、どうしても被災地に居つづけたい、どうしても被災地に帰りたいという、日本人全体から見ればかなり限定された人々に対してだけである。

よりによって原発推進派と反原発派が最も強硬に対立する飯舘村のような地域で、リスク・コミュニケーションを行い、原発事故の危険度の低さを納得させようという戦術は、正直に申し上げて非常に下手くそな戦術だと言わざるを得ない。

僕はその下手くそさ、学者ならではのバカ正直さを残念に思っているだけであって、そのことと、僕自身が脱原発派であることとは全く別次元のことである。

僕は自分が脱原発派であるからといって、中川恵一氏の主張を全否定するほどバカではない。

僕が指摘しているのは、氏の主張が正しいかどうかを別次元の問題として横においた上での、原発をめぐる言論状況に対する、中川恵一氏の無神経さ、無自覚、ナイーブさ、戦術上のまずさである。

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2012/01/07

中川恵一『被ばくと発がんの真実』の無自覚な政治的かたより

今日(2012/01/07)から書店に並んでいる、中川恵一著『放射線医が語る 被ばくと発がんの真実』(ベスト新書)を読んだ。

著者の中川恵一医師は「東大病院放射線治療チーム」としてツイッターでも@team_nakagawaというユーザ名で情報提供しているので、ご興味のある方はフォローしてはいかがだろう。

本書の主張については、僕が要約するよりも、中川医師のツイートを引用した方がいいだろう。以下にいくつか引用する。

「事故からもうすぐ10ヵ月ですが、いまだに、主に東京を発信源とする『リスク情報』ばかりが乱れ飛んでいます。年末のNHKの報道番組ですら、全く間違った内容で、正直驚きました。http://d.hatena.ne.jp/buvery/20120105/ こんな中、被ばくと発がんリスクについてまとめた1冊を上梓しました。」 (2012/01/06 17:04
「『放射線医が語る 被ばくと発がんの真実』(ベスト新書)です。福島での現地調査、チェルノブイリ原発事故の総括、広島・長崎の被害分析を踏まえ、できるだけわかりやすく現状を読み解きました。副題は、ズバリ『フクシマではがんは増えない』です。http://www.amazon.co.jp/dp/4584123586/」(2012/01/06 17:06
「『御用学者』、『安全デマ』などの批判は覚悟の上です。久しぶりのツイートで本の宣伝をしたいのではありません。多くの方々の不安や疑問に少しでも応え、これから先へと歩み続けるためのささやかな指針となればと願い、福島の皆さんに献げるつもりで書きました。飯舘村にも寄附したいと思います。」(2012/01/06 17:06

お分かりのように、本書は風評被害や「リスク情報」を非難し、「『正確な情報の欠如』という現状」(p.5)を改善するために書かれている。

その論拠として本書で何度も引用されているのが、2011年にロシア政府が発表した『チェルノブイリ事故25年・ロシアにおけるその影響と後遺症の克服についての総括および展望1986~2011』という報告書と、ICRP(国際放射線防護委員会)の公表している基準である。

その報告書の「結論」の章から、著者の中川医師は以下の部分をくり返し引用している。

「『(事故後25年の状況を分析した結果)、放射能という要因と比較した場合、精神的ストレス、慣れ親しんだ生活様式の破壊、経済活動の制限、事故に関連した物質的損失といった、チェルノブイリ事故による他の影響のほうが、はるかに大きな損害を人々にもたらしたことが明らかになった』」(p.5~6)

さて、僕としてはここから、中川恵一氏の主張を批判的に検討してみる。


■ロシア政府報告書の政治的中立性に対する過信

中川恵一氏はロシア政府の報告書を、福島事故による健康被害を過小評価する方向に読み込みすぎていると思われる。

まず中川恵一氏は本書の第三章「広島・長崎の真実」で、広島市の男性の平均寿命が日本の政令指定都市中第4位、女性の平均寿命も同じく政令指定都市中第1位(いずれも2005年のデータ)であることを強調し、次のように書いている。

「非常に驚くべきことに、入市被爆者の平均寿命を調べると、日本の平均より長いのです。また、広島市の女性の平均寿命をみると、日本一長いことがわかります(政令指定都市の中で最も長寿)」(p.84 下線は原文ではゴシック太字。以下も同じ)

この原因として中川恵一氏は、原爆投下から2週間以内に爆心地から2km圏内に立ち入った人(=入市被爆者)にも、被爆者健康手帳が交付され、原則として無料で医者にかかれるようになったことをあげている。いわく、「無料で医療を受けられる効果は絶大です。」(p.86)

これを、医療関係者である中川恵一氏の我田引水と感じるのは僕だけだろうか。

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さて、本書p.107にはOECDの資料をもとに中川恵一氏が作成した、旧ソ連諸国の男性の平均寿命の推移グラフが掲載されている(上図)。チェルノブイリ原発事故の1986年以降、著しく下がっているが、中川恵一氏はこの原因を「過剰避難」にあるとして、次のように書いている。

「原爆の後、広島市民は長寿となりましたが、原発事故の後、チェルノブイリでは平均寿命が大きく下がりました。広島では、被爆者手帳などによる手厚い医療の力が、大きな効果を発揮しましたが、チェルノブイリでは、広島では行われなかった”避難”が、残念なことにマイナスにはたらいてしまいました」(p.108)

そして再びロシア政府の報告書を引用している。原文でもゴシック太字で引用されている。

「『チェルノブイリ原発事故が及ぼした社会的、経済的、精神的な影響を何倍も大きくさせてしまったのは、”汚染区域”を必要以上に厳格に規定した法律によるところが大きい』」(p.108)

そして中川恵一氏は次のように書く。

「避難によって放射線被ばくは減ったとしても、避難そのものが寿命を短縮させます」(p.109)

もう一度グラフをご覧いただくと、平均寿命が著しく下がっているのは、むしろ1989年のベルリンの壁の崩壊から1991年のソ連崩壊、そしてその後の数年間である。

旧ソ連諸国、とくに、旧ソ連全体の人口の51.4%(ウィキペディア)を占める、広大な旧ロシアのように、チェルノブイリ事故の影響を主因とするのが明らかに不合理な区域についても、まるでチェルノブイリ事故の避難が寿命を短縮させたかのように書くのは、どうだろうか。

むしろ、チェルノブイリ事故の避難より、社会主義体制の崩壊による社会的混乱や失業の増加、よく言われることだが、それにともなうアルコール依存の増加などが、旧ロシアだけでなく、旧ウクライナ、旧ベラルーシ(=旧ソ連全体の人口のたった3.54%)の平均寿命の低下を引き起こしたと考えるのが自然だろう。

さらに言えば、この2011年の報告書にロシア政府の政治的意図を読むのは深読みしすぎだろうか。

例えば次の資料を読んでみよう。

「【ロシア】原子力安全政策の現状」(2011.5 国立国会図書館調査及び立法考査局 海外立法情報課)

この報告によれば、ロシアは原子力発電プラント、核燃料、ウラン濃縮サービスを、石油・天然ガス依存からの脱出のためだけでなく、海外への輸出事業として積極的に推進している。以下、この報告から重要な部分を引用してみる。

「2006年にロスアトム(ロシア原子力公社)が公表したところによれば、2020年までに総発電量に占める原子力発電の割合を23%に、2030年には25%にまで増加させることが目標とされている」
「福島第1原発事故を受けて3月21日に開かれたIAEA(国際原子力機関)緊急理事会において、ロシアのベルデンニコフ代表は、『原子力エネルギーは人類の最も偉大な成果の一つであり、今後もエネルギー協力の主要な手段であると見なしている』とのメドヴェージェフ大統領からのメッセージを読み上げた上で、原子力エネルギーを削減すべきだとの意見には同調しないと述べている」

このように福島第一原発事故の後も、ロシア政府は公式に原子力発電の推進を表明している。そのロシア政府が、チェルノブイリ事故後25年の報告書で、旧ソ連時代の「過剰避難」を反省するのはむしろ当然だろう。

これほど明らかな政治的意図があるにもかかわらず、中川恵一氏はロシア政府のチェルノブイリ事故後25年の報告書の「過剰避難」の自己反省を、日本の「危険デマ」を批判するための有力な論拠の一つとしているのだ。


■国際機関の政治的中立性に対する過信

上記の国会図書館の報告に登場するIAEAもそうだが、中川恵一氏は国際機関について、政治的に中立なので信頼できるとしている。例えば以下の部分がそうだ。

「実際に、原資放射線の影響に関する国連科学委員会(UNSCEAR)、国際原子力機関(IAEA)、国際放射線防護委員会(ICRP)といった信頼できる国際的組織の報告には(以下略)」(p.93~94)

中川恵一氏自身は否定するだろうが、氏の政治的な偏りは第5章「放射線の『国際基準』とは」に現れている。UNSCEAR、ICRP、ECRRについての説明文から引用してみる。ECRRの説明文に特にご注意頂きたい。

まずUNSCEARの説明文から引用する。

「国連に原子力放射線の影響に関する科学委員会(UNSCEAR)という公的な機関があります。独立性と客観性が保たれていて、特定の国の力やイデオロギーには左右されません」(p.125)

つぎにICRPの取組みの説明には複数ページが割かれており、その中の「国際的な合意に基づく最も信頼できる枠組み」(p.128)から引用する。

「さてこのICRPが放射線防護に関する勧告を行うために最も重視しているのが、先述のUNSCEAR(国連科学委員会)による科学的な報告です。国際原子力機関(IAEA)は、このICRPによる勧告の内容を基にして、国際保健機構(WHO)などの国際機関と協力し、加盟各国に対して国際的な放射線防護基準などを提示しています」(p.128)
科学的な根拠にきちんと基づくという断固たる姿勢が、これらの機関による国際的な合意の信頼性を高めており、各国がその勧告に従うゆえんです」(p.128)

さて、最後はECRR(欧州放射線リスク委員会)の説明文から引用する。

「国連や各国政府とは関係を持たない非営利団体(NPO)で、反原発の主張を持つ科学者や専門家が多く参加し、ICRPに対抗するような活動を行なっています」(p.128~129)
「活動の中心人物クリストファー・バズビー氏は、内部被ばくの脅威を熱心に語りながら、一方で、放射線被ばくに聞くという高額な『サプリメント』の販売に関与していると報じられていることも、付け加えておきます」(p.129)

中川恵一氏はバズビー氏が「サプリメント」の販売に関与していることについて、何の出典も示していない。情報源を示さずに中心人物の風評を材料にしてECRRを批判するのは、他の国際機関と比べると明らかに偏っている。

他の場所にも、中川恵一氏のUNSCEAR、IAEA、ICRPに対する絶大な信頼はしつこく書かれている。

「実際に、国連科学委員会(UNSCEAR)、国際原子力機関(IAEA)、国際放射線防護委員会(ICRP)といった信頼できる国際的組織の報告には(以下略)」(p.177)
「1ミリシーベルトの被ばくといったら、内部被ばくであろうが、外部被ばくであろうが人体への影響は一緒です。欧州放射線リスク委員会(ECRR)の一部の学者による、そのような主張を聞きますが、単に恐怖心を煽るだけのものに思えます。」(p.186)

ECRRの見解については真剣に検討する価値はなく、「思えます」といった個人的感想で十分だと言わんばかりである。この部分にはまだECRR批判の続きがある。

「また、センセーショナルな発言の裏には、さまざまな動機が見え隠れします。被ばくに効果があるサプリメントの販売にかかわるなど、利害がからむこともあるようです」(p.187)

またクリストファー・バズビー氏に対する個人攻撃である。ここでもバズビー氏が「サプリメント」の販売にかかわっていることが事実だと証明する論拠や参考資料は示されていない。

百歩譲ってECRRがあてにならないことに同意するとしても、UNSCEAR、IAEA、ICRPが全面的に信頼できることを、僕らはどうやって納得したらいいのだろうか。


■中川恵一氏がふれていないこと

最後に簡単に中川恵一氏があえて書かなかったことについて書いておく。それはアメリカ軍が使用した劣化ウラン弾による、低線量被ばく健康被害のことだ。

これについては僕は専門家ではないので、参考図書をあげるにとどめておく。肥田舜太郎『内部被曝の脅威』(ちくま新書)だ。肥田舜太郎氏も医師であるが、自身が広島の原爆の影響で被曝している。

そして中川恵一氏が絶大な信頼をおいているICRPについて、その基準値が米国の核開発の政治的意図と連動している可能性があることなどは、同じく肥田舜太郎氏の翻訳によるラルフ・グロイブ、アーネスト・スターングラス著著『人間と環境への低レベル放射能の脅威―福島原発放射能汚染を考えるために』(あけび書房)を参照いただきたい。

こちらの本は以前ここでも言及したが、「ペトカウ効果」を擁護する内容である。おそらく中川恵一氏は「ペトカウ効果」を科学的根拠のないデマだと切り捨てるに違いない。


以上、どうやら中川恵一氏はネット上で「御用学者」だの「安全デマ」だのと非難されているようだが、本当にそうなのか。

まずは中川恵一氏が自らツイッターで読むことをすすめている本書を読んで、みなさんも自分なりに検証してみてはいかがだろうか。

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続・石田衣良は東京電力と社員を憎むのを止めろと言うのを止めた方がいい

先日のブログ「石田衣良は東京電力と社員を憎むのを止めろと言うのを止めた方がいい」について、10年来の読者の方から論理の粗さを指摘されたので、改めてご説明したい。

インタビュー記事の原文は次のウェブページに掲載されている。『石田衣良 日本人は東京電力と社員を憎むのを止めた方がいい』(2012/01/02 NEWSポストセブン)

最初に僕自身の言いたかったことを要約しておくと、「反対でも賛成でもない」と主張する石田衣良の方こそ、価値判断にとらわれず「客観的」であることという「安全で正しい場所」に逃げ込んで、原発問題から自分自身の保身を図っているのではないのか。

「客観的であること」こそが、今までの原発推進行政が自己正当化と日本国民の説得のために利用してきたレトリックなのに、原発事故が起きた後もなお、その同じレトリックで自分の意見の正当性を主張する石田衣良は、過去音原発推進行政の言説を繰り返しているにすぎない。これが僕自身の言いたかったことだ。


さて、分かりやすい部分から先に取り上げる。石田衣良のインタビュー記事の原文の以下の部分だ。

「現代人は常に不安やストレスにさらされていて、そのはけ口として外部に単純な悪を設定したがる。外国ならそれが移民排斥などの民族問題になるんでしょうが、日本の場合は一部韓国や中国に向かっている以外は、今は東京電力や政府に向かっているんじゃないでしょうか。でも地震が起きる前はみんな、普通にテレビをみたりゲームをしたりして原発の恩恵にあずかっていたわけですから」

最初の主語は「現代人」で、これは明らかに総称なので、石田衣良もその一人である。ただ「不安やストレスにさらされていて、そのはけ口として外部に単純な悪を設定したがる」現代人の中には、石田衣良は含まれていない。含まれているとすると石田衣良の言っていることが「私はうそつきです」という言明と同じく自己矛盾になるからだ。

ここで石田衣良は「悪」という明らかに価値判断を含む言葉を使っている。

石田衣良は「外国ならそれが移民排斥などの民族問題になる」と言っているが、石田衣良の考えによれば、移民排斥運動をしている「現代人」は「移民」という「悪を設定」していることになる。

そして石田衣良によれば、「日本の場合は」、つまり日本の「現代人」の場合は、一部が「韓国や中国」という「悪を設定」している他は、その他は「今は東京電力や政府に向かっている」と言っている。このどちらでもない日本人はごく少数で、そのごく少数の中に石田衣良自身がいると読める。

ここで石田衣良は「東京電力や政府」を「悪」と設定する日本人に対して、「でも」と反論している。「地震が起きる前はみんな、普通にテレビをみたりゲームをしたりして原発の恩恵にあずかっていたわけですから」と。

いつの間にか「政府」が抜け落ちていることは置いておいて、石田衣良はここで、東京電力の「原発の恩恵にあずかっていた」日本人が、「東京電力」を「悪」と設定するのは不適切だと言っている。

言い換えれば、石田衣良は、地震が起きる前に東京電力の原発の恩恵にあずかっていた日本人には、東京電力を「悪」と設定する権利はないと言っている。

ここで石田衣良が言いたいのは、「悪」といった価値判断をふくまず、客観的に東京電力の問題点について論じるのはよいが、移民を「悪」と設定すべきでないのと同様、東京電力を「悪」と設定した上で東京電力を論じるべきではない、ということだ。

その証拠に、この前段で石田衣良は次のように言っている。

「いま日本のインテリが立ついちばん安全で正しい場所は「反原発」と「エコ」ですから。僕自身は反対でも賛成でもないけれど、客観的に電力事情をみれば原発を残さざるを得ないだろうなあと思っています。全ての悪も危険も排除して生きていくことは不可能なのだから」

石田衣良はここでも「悪」という価値判断を含む言葉を使っている。

「反原発」や「エコ」の立場にある「日本のインテリ」は、原発を「悪」だとみなしているようだが、「全ての悪も危険も排除して生きていくことは不可能なのだから」、彼らの主張は間違っている、という石田衣良の意見だ。

これを受けて最初に引用した「現代人は常に~」と続くので、石田衣良から見ると「反原発」の「日本のインテリ」は不安やストレスのはけ口として、「原発」という「外部」に「単純な悪」を設定している一例ということになる。

このように石田衣良は、徹頭徹尾、自分自身は主観的でもなく、「悪」や「危険」などの価値判断にとらわれることもなく、原発問題についてあくまで「反対でも賛成でもない」「客観的」な立場にあると言っている。

これらの後に次のような回答がつづく。

「正当な批判はすべきなんですが、『会社を潰してしまえ』とか『社員の給料をゼロにしろ』とか、無茶苦茶なことをいう人もいる。でも簡単に人を憎むのは止めた方がいいですよ。心の機構がそうなってしまうと、次からは人を憎むことでしか自分の確認出来なくなってしまうから」

厳密に論理的に考えると、「客観的」に原発問題や東京電力を語ること、イコール、「正当な批判」なのかは、このインタビュー記事だけからでははっきりしない。ただ、このインタビュー記事は石田衣良が、行き過ぎた東京電力批判への反論として書かれているのは明らかだ。

したがって、「正当な批判」をするには、「客観的」な立場をとる必要がある、とまでは言わないが、そうした方がよいと石田衣良は考えているはずだ。

東京電力に対する主観的な憎しみに満ちた人間であっても、東京電力に「正当な批判」ができるという、形式論理学的には補集合としてありうるが、このような無理なことまで、石田衣良が想定しているというのは、石田衣良について好意的すぎる読み込みだ。

最後に、僕の石田衣良のこのインタビュー記事についての論評について、石田衣良への悪意が過ぎるという批判については、甘んじて受ける。

なぜなら、石田衣良はNHK教育テレビでマイノリティーに関する問題を毎回とりあげる番組の司会をしており、僕個人はとても良識のある知識人だと思っていたからだ。

しかし、このインタビュー記事が、福島第一原発事故の被害者について一言も言及がないままに、客観性という、これまでの原発推進行政の欺瞞に満ちたレトリックの焼き直しに終わっているのを読んで、正直、愕然としてしまった。

あれだけ障がい者や性的マイノリティーなどの問題にコミットしておきながら、なぜ原発問題については客観性を標榜し、「反対でも賛成でもない」といった現実から遊離したような立場が存在すると主張し、反対派にも賛成派にもコミットしないのか。その理由が、どうしても理解できないのだ。

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2012/01/06

ニコニコ生放送でできるだけ安くギターの弾き語りを放送する機材一式

ニコニコ生放送で自宅からギター弾き語りぐだぐだ放送ができないかと、あまりにもヒマすぎた年末年始の6連休に思いついた。

もちろん最重要ポイントは、いかに安くすませるかだ。本当にやるかどうか分からない生放送のために、大金をかけるわけにはいかない。

インターネットでいろいろな音楽制作用機器を検索して、店頭でも迷った挙句、ようやく結論が出た。その結果、下記のセットになった。

・ARIA サイレントギター(ガット弦) Sinsonido AS-101C SBK
・Roland USBオーディオインターフェース UA-33
・audio-technica マイクアンプ AT-MA2
・音声チャット用の安いヘッドセット(ただしUSBではないもの)
・BEHRINGER ギター用エフェクター DIGITAL REVERB DR600


まずギターについては、マンション住まいなので近所迷惑を考えてサイレントギター、弾き語りの伴奏で、ピックを使ってコードをジャカジャカ鳴らすような弾き方はせず、ピックなしで分散和音を弾くだけなので、ガット弦を選んだ。

本当はヤマハ製のサイレントギターがほしかったけれど、価格がおよそ倍になるのでやめた。


次は最重要のUSBオーディオインターフェース。

昔は同じRolandから「UA-4FX」という便利な製品が出ていたが、なぜか販売終了になって、中古市場では3万円弱の高値で販売されているのであきらめた。

そこでループバック・モードがついている最安価な「UA-33」を選択した。

ループバック・モードがあれば、いざとなればパソコンでGOM Playerのボーカル消去機能をONにし、リアルタイムでカラオケ化した伴奏で歌うこともできるから。実はGOM Playerにボーカル消去機能があるのを知ったのは、つい最近なのだけれども。


次にマイクアンプ。

UA-33のマイク入力端子はXLR型コネクターだが、付属品として標準PHONEプラグへの変換アダプタが付いてくる。UA-33はオーディオインターフェースなので、入力レベルを上げればアンプとしても使えると思っていたが、ここが落とし穴だった。

手持ちのaudio-technicaのダイナミックマイク(非プラグインパワー方式)に、ミニプラグを標準プラグに変換するアダプタをかませて、UA-33に差し、入力レベルを最大にしても全く音が入らない。仕様書の規定入力レベルは-60~-30dBuなので、問題ないはずなのに。

仕方なく、かなり以前に購入したaudio-technicaの「AT-MA2」をまた引っぱり出すことになった。

このマイクアンプを通したところ、ダイナミックマイクでも、プラグインパワー方式の音声チャット用ヘッドセットのマイクでも、十分な入力レベルになった。

AT-MA2は裏面のスイッチで、プラグインパワー方式マイクの場合の電源供給の入/切を切り替えられるので便利だ。


次はヘッドセット。

なぜ普通にボーカル用マイクを使わないのかと言えば、弾き語りをすると机の上に見にマイクスタンドで置いたマイクと、口の距離が遠くなり、いちいち大きなマイクスタンドで口元にマイクを設置する必要があるからだ。

一応自立式のマイクスタンドもあるので、できないこともないのだが、狭い部屋で常時マイクスタンドを出しておくのは、とっても煩わしい。

なので、返りの音を聴けるし、マイクを口元にセットできるし、ということで、音質より利便性重視で音声チャット用ヘッドセットを使うことにした。

そこで家電量販店の店頭で、スポンジのウィンドシールド付き、かつ、周囲の音を拾わないように単一指向性、かつ、UA-33に入力するので最近増えてきているUSB接続式ではなくステレオミニプラグ、かつ、周波数特性が10,000Hzを超えるもの、という条件でいろいろ探した。

ところが、この4つの条件をすべて満たすヘッドセットは、ヨドバシカメラ錦糸町店には存在しなかった。仕方なく無指向性よりはマシだろうと思い、双指向性で妥協した。


最後に、エフェクトをどうするか。

Roland UA-33には音楽制作ソフト「SOLAR X1」の限定版が付いてくる。限定版とは言え、これを使えばエフェクトは自由自在にかけることができる。

具体的には、プロジェクトを新規作成し、Audioトラックを2つ作り、1つをUA-33のマイク入力、もう1つをUA-33のギター入力に割り当て、ミキサー側でエフェクトをかけ、パソコンのサウンド設定の「再生」をUA-33の「IN」にしてやる。

そして、UA-33のPHONE出力端子にヘッドホンをつなげば、「SOLAR X1」のエフェクトがきれいにかかった状態のミックス後の出力をモニタできる。SOLAR X1を使えば、ボーカルとギターそれぞれに異なるエフェクトをかけられるので、完璧といえば完璧だ。

しかし、SOLAR X1 LEのようなソフトウェアでエフェクトをかけると、自分の演奏とモニタ音声がどうしてもズレてしまうので、生演奏には適さない。パソコン経由ではなく、UA-33で直接出力を返すこともできるが、当然これではエフェクトなしの生音しかモニタできない。

これでもSOLAR X1 LEで音を作っておいてから、あとは生音のモニタで生演奏すればいいのだが、どうも気持ち悪い。

そこで仕方なく楽器屋に行って、ギター用のエフェクタを探すことにした。実際にはボーカル用のエフェクタや、マルチエフェクタもあるが、値段が1万円を超えてしまう。

また、ボーカルとギターに別々のエフェクトをかけることや、リバーブ以外のエフェクトはあきらめ、ボーカルとギターに同時にリバーブをかけることだけを考えて、ベーリンガーのDIGITAL REVERBを購入した。

このエフェクタは入力×2、出力×2なので、ボーカルとギターに同じリバーブをかけることができる。そんな安直な考え方でいいのかと言われそうだけど、お金がないんだから仕方ない。

しかし、実はRoland UA-33を買うのと同じ金額で、ベーリンガーのエフェクタ内蔵、USB端子付きアナログミキサーが買えることを知った。しかも錦糸町の島村楽器に現物が展示されているではないか。

ただ、このミキサーを使いこなす自身がなかったので、まあいいかと思って、ギター用のDIGITAL REVERBエフェクタで満足することにした。

このエフェクタはAC電源アダプタが別売りなので、忘れずに購入する。また、エフェクタの出力×2とUA-33のマイク入力、ギター入力を接続するためのパッチケーブルも忘れず購入する。

以上でリアルタイムでエフェクト付きの返りをモニタできる環境がととのったことになる。

結線をまとめると下記のとおり4種類となる。

ボーカル:ヘッドセット マイク出力
⇒ AT-MA3 ステレオミニプラグ入力(プラグインパワーON)
⇒ AT-MA3 RCA(赤白)出力をステレオ標準プラグへアダプタで変換
⇒ DIGITAL REVERB 入力1
⇒ DIGITAL REVERB 出力1
⇒ UA-33 マイク入力(ファンタム電源はOFF)

ギター:サイレントギター
⇒ DIGITAL REVERB 入力2
⇒ DIGITAL REVERB 出力2
⇒ UA-33 ギター入力(ハイ・インピーダンスをON)

モニター:UA-33 PHONE出力端子(ステレオミニプラグへのアダプタが必要)
⇒ ヘッドセット ヘッドフォン入力

パソコンとの入出力:UA-33(USB端子)
⇒ パソコン USB端子

以上で、音量もエフェクトもすべてダイヤルで調節するという、なんともアナログで低予算なギター弾き語りニコニコ生放送用PAのできあがり。

で、いつ生放送するんだ?

やるとすればこちらです⇒「歌うペンギンのgdgdひとりカラオケor弾き語り(超過疎)」コミュニティ

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2012/01/05

日本人のジョブズ崇拝と非合理的な英雄史観

今日は日本人の、合理性を装いつつ実は非合理的なスティーヴ・ジョブズ崇拝について、誠 Biz.IDの記事を題材に検証してみる。

『2011年を振り返る:ジョブズはすごかった、で終わらせないための組織論』 (2011/12/29 11:30 誠 Biz.ID)


iモードの凋落は単なる日本の「自滅」

この誠 Biz.IDのスティーヴ・ジョブズ崇拝記事は、スティーヴ・ジョブズの成功を日本が米国に「敗戦」したことに例えている点で興味深いが、その分析が的外れである点に、米国に対する劣等感が驚くほど素朴に表現されていて、さらに興味深い。

このコラムの問題提起は、次のとおり。

「ウォークマンを生んだソニーやiモードを生み出したNTTドコモは、なぜiPhoneのようなイノベーションを起こすことが出来なかったのだろうか?」

iモードは技術的には携帯電話網とインターネットの間にゲートウェイを作っただけであり、技術革新(イノベーション)ではない。既存の閉鎖網とオープンなインターネットの間にゲートウェイを作る発想は、すでにパソコン通信とインターネットの相互接続などの前例があり、新規性がない。

iモードの成功は技術革新ではなく、日本の内需の大きさを活かした市場戦略にある。

iモード登場当時、まだ情報技術に詳しい一部の人しか使っていなかったインターネットを、携帯電話を通じて一般消費者に開放し、着メロ配信などしきいの低いコンテンツ事業に仕立てた点が、iモードの市場戦略上の成功だ。

iモードだけでなく、多機能なガラパゴス携帯の製造も含めて、日本国内だけで事業として成功したのは、十分な内需があったからだ。

この携帯電話についての健全な内需をつぶしたのは、小泉政権時代の「誤解された新自由主義」に基づく政策だ。コラムの中で元NTTドコモ執行役員が、トレンド転換の理由の2点めとしてあげている、販売奨励金の廃止がまさにこれだ。

つまり、iモードとガラパゴス携帯は、iPhoneに敗れたのではなく、「誤解された新自由主義」的政策により、デフレ基調のマクロ経済下で携帯電話のハードウェアを実質値上げしたため、自滅したのである。

この「誤解された新自由主義」的政策は、小泉・竹中が米国の年次改革要望書にあっさり乗っかった結果であることを思い出しておこう。

現にコンテンツ事業者はGREEやDeNAといった大手を頂点とする二次、三次請け構造に統合されはしたが、スマートフォン登場後も生き残っている。(もちろんアイテム課金の事業モデルに対しては倫理的な非難はあるが)


コラム筆者の対米敗戦についての大きな誤解

このあたり、コラムの筆者のとんでもない誤解は、コラムの中の下記の部分にはっきり現れている。

「その経緯は、かつて太平洋戦争の開戦当初、圧倒的優位を誇った零戦を徹底的に研究し尽くし、その弱点(機動性は良いが装甲が弱かった)を突いた戦闘機(F6Fヘルキャット)を開発した米海軍とも重ね合う」

まず正しい日本語は「重なり合う」だが、太平洋戦争は開戦前から敗戦の見込みであることは日本政府の中枢がすでに知っていた。

にもかかわらず対米戦争に突入したことについて、戦後のA級戦犯の軍事裁判で「空気」という言葉が出てきたことから、山本七平が『空気の研究』などで、日本組織の意思決定の奇妙さを批判的に書いたわけだ。

つまり、太平洋戦争でも、iモードなどのガラパゴス携帯でも、日本は米国に敗れたのではなく、米国の戦略にまんまと乗っかって自滅しただけなのである。

このコラムの筆者は、太平洋戦争の歴史的事実に対する誤解にもとづいて、日本のiモードやソニーがiPhoneに「敗戦」したかのように書いているわけだが、その理由はコラムの筆者が21世紀になってもいまだにアメリカ・コンプレックスを持っているからなのである。この時代錯誤ぶりにはあきれる他ない。

実際には米国の戦略にひっかかって自滅しただけなのに、それを米国のスティーヴ・ジョブズという天才に敗れたかのように分析している。米国の戦略を批判するどころか、米国の素晴らしさを賞賛し、日本の負けを喜んでいるかのようだ。

曰くスティーヴ・ジョブズは「100年に一度とも言える『天才』」などなど。


日本人の非合理的な「英雄史観」

スティーヴ・ジョブズの死後、このコラムと同じようなジョブズ崇拝の言説が日本に掃いて捨てるほど広まっている。その多くは、ほぼ何の論拠もなくアップル社の成功をジョブズ個人の「天才」に結びつけている。

しかし、iPhoneの成功にしても、現実にはiPodの成功の延長線上にある。ではiPodの成功の要因は何かと言えば、もちろんMacintosh同様の製品自体の魅力もあるが、音楽の著作権者である大手レコード会社を説得して、合法的な1曲100円のシンプルな音楽のネット配信モデルを確立したからだ。

さらにその背景には、旧ナップスターのような「違法」な音楽配信サービスに対する、米国大手レコード会社の危機感があった。

そのような米国の社会的背景も含めて、iPodが成功し、その延長線上でiPhoneのような先進的な端末が、大きな抵抗なく米国の一般消費者に浸透したのである。

日本が米国と戦うまでもなく自滅したのは、このコラムの筆者のように、米国の「勝利」を特定の個人や組織に結びつけ、その背後にある米国社会の仕組みを軽視しているからだ。

そういう日本人は同時に、日本の改革を小泉・竹中のような特定の個人に結びつけ、日本社会の仕組みをも軽視している。日本社会の仕組みが実は人為的に作られており、場合によって年次改革要望書のような米国の政治的圧力によって作られていることも軽視している。

そもそも日本人は、歴史の大きな変化を特定の人物に帰属させ、そこで思考停止することが多い。その典型が、戦国武将や幕末の志士を英雄視する通俗的な歴史観だ。そういえばこのブログを書いている今も、街の映画館では『山本五十六』なんていう映画が上映されているし。

社会の仕組みを見ずに、英雄の活躍に酔って思考停止するような人々が事業を主導している時点で、すでに日本は米国に負けているのだ。


最後に凡ミスを一つ指摘

ついでにこのコラムのつまらない間違いを一つ指摘して終わる。間違いの部分をそのまま引用する。

「『Stay hungry, Stay foolish』というフレーズは、ジョブズ氏のスピーチの一節として余りにも有名になった。だが、iPhoneが生まれるまでの経緯、その投入タイミングを見るにも、ハングリーであったとしても決して愚かではないことが良く分かる。(余談だが彼に限らず、著名人のコメントは自らの本質を隠す方向で表出することも多いので、注意が必要だ)」

ここでコラムの筆者は、わざわざ「余談」として「著名人のコメントは自らの本質を隠す方向で」云々の不要な注釈を付けているが、ジョブズは「謙虚であれ」という意味で「Stay foolish」と聴衆に呼びかけたわけではない。

「Stay foolish」は「つねに自分の知能や認識は不完全だと自覚せよ」という意味で、古代ギリシア哲学で言えば「無知の知」(=自分がいかに無知であるかに対する自覚)のことだ。「脳ある鷹は爪を隠す」的な謙虚さの美徳を表現しているのではない。

個人の知能や認識がどこまで行っても不完全であることを自覚しなければ、知能や認識の進歩はあり得ないという、きわめて本質的なメッセージである。

それを、iPhoneの投入タイミングのような、戦術レベルの賢さだと解釈してしまうあたりに、このコラムの筆者が、いかにスティーヴ・ジョブズの背景にある米国の社会の仕組み全体を捉えそこねているかが現れている。

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2012/01/03

石田衣良は東京電力と社員を憎むのを止めろと言うのを止めた方がいい

石田衣良のインタビュー記事がいくら何でもひどすぎたので、取り上げてみる。

『石田衣良 日本人は東京電力と社員を憎むのを止めた方がいい』(2012/01/02 NEWSポストセブン)


震災小説執筆の不純な動機

要点は最後の3つめの回答。震災をネタに小説を書いて儲けようとしている石田衣良が、次のように語っている。3つめの回答をそのまま引用する。

「石田:いま日本のインテリが立ついちばん安全で正しい場所は「反原発」と「エコ」ですから。僕自身は反対でも賛成でもないけれど、客観的に電力事情をみれば原発を残さざるを得ないだろうなあと思っています。全ての悪も危険も排除して生きていくことは不可能なのだから。

現代人は常に不安やストレスにさらされていて、そのはけ口として外部に単純な悪を設定したがる。外国ならそれが移民排斥などの民族問題になるんでしょうが、日本の場合は一部韓国や中国に向かっている以外は、今は東京電力や政府に向かっているんじゃないでしょうか。でも地震が起きる前はみんな、普通にテレビをみたりゲームをしたりして原発の恩恵にあずかっていたわけですから。

正当な批判はすべきなんですが、「会社を潰してしまえ」とか「社員の給料をゼロにしろ」とか、無茶苦茶なことをいう人もいる。

でも簡単に人を憎むのは止めた方がいいですよ。心の機構がそうなってしまうと、次からは人を憎むことでしか自分の確認出来なくなってしまうから。」

石田衣良は、福島第一原発事故で避難を余儀なくされている人たちに対してもこう言いたらしい。

つまり、「『会社を潰してしまえ』とか『社員の給料をゼロにしろ』とか、無茶苦茶なこと」を言うな、「簡単に人を憎むのは止めた方がいいですよ。心の機構がそうなってしまうと、次からは人を憎むことでしか自分の確認(が)出来なくなってしまうから」と、避難中の元福島県民に対してもこう言いたいらしい。

そう言っておいて、震災をネタに小説を3本書いて生計を立てようというのだから、石田衣良の言っていることこそ無茶苦茶だ。


石田衣良に対する論理的な反論

いちおう論理的な反論もしておく。

僕らの社会は、ある行為を誰かに帰属させることで成り立っている。

その行為が法律に違反しているかどうかや、倫理的に善か悪かはとりあえず横においても、ある行為をした場合は、必ずその行為をしたのが誰かをはっきりさせることで、僕らの社会は成り立っている。

例えば、石田衣良という人物が存在して、その人物が書いた小説には著作権という権利が発生し、それに付随して印税収入というお金のやり取りが生じる。

このような社会的営みが成り立つのは、ある小説を書いたのは石田衣良(本名:石平庄一)と呼ばれている人物であるというふうに、行為が人に帰属されているからだ。

東京電力という会社も、僕らの生活している社会では「人」と見なされている。いわゆる「法人」というやつだ。「人」としての会社については、岩井克人の『会社はだれのものか』(平凡社)などをお読み頂ければと思う。

今回の福島第一原発事故についても、この行為の善し悪しは別として、誰が行った行為かははっきりさせないと僕らの社会そのものが成り立たない。

今回の事故は当然、福島第一原発を運転していた東京電力が行った行為である。

経済的な言い方をすれば、東京電力は福島第一原発を動かして発電することで収益を得て、その中から株主に配当を支払うことで、自分自身を存続させていたのだから、福島第一原発事故によって生じるさまざまな事について、まずは東京電力が何らかの対応をしなければいけない。

石田衣良が自分の書いた小説から印税収入を受けとるのも、東京電力が自分の起こした事故で日本中から非難されるのも、そのおおもとをたどれば、社会の中で行われた行為はすべて、誰が行ったかをはっきりさせるという、僕らの社会の基本の基本にあるルールに行きつく。

石田衣良もこのことは否定しないだろう。自分の書いた小説をネット上にじゃんじゃん無断転載されたら、「俺の小説を勝手にネットに載せるな!」と怒るだろうから。

なので、残る問題は以下の2つになる。

(1)東京電力を「正当に批判」できるのは、日本人全員のうち誰か、どういう範囲の人たちか。

(2)どの程度までの批判なら「正当な批判」と言えるのか。

石田衣良は「でも地震が起きる前はみんな、普通にテレビをみたりゲームをしたりして原発の恩恵にあずかっていたわけですから」と言っているので、(1)については「日本人の誰も東京電力を正当に批判できない」と言っているのと、ほぼ等しい。

なぜなら、福島原発事故の避難民も東北電力が稼働している「原発の恩恵にあずかって」おり、その他の日本人もほぼ全員が原発の恩恵にあずかっていたからだ。

すでに石田衣良は(1)について、日本人の誰も東京電力を「正当に批判」できないと答えているので、(2)は考える必要もない愚問になる

しかし、なぜか石田衣良は(2)についても答えている。「『会社を潰してしまえ』とか『社員の給料をゼロにしろ』」というのは「無茶苦茶」だというのだ。

なぜ石田衣良が、日本人は誰も(今回の事故の避難者も含めて)東京電力を正当に批判できないと言いつつ、正当な批判の目安についても答えているのか、僕には理解できない。残念ながらこの記事の中には書かれていないので、石田衣良は何らかの線引きをしているらしい、とまでしか言えない。

だが、日本人の誰も東京電力を「正当に批判」できないと言いつつ、「正当な批判」の目安に言及している石田衣良の議論は矛盾している。したがって(2)については、やはり僕らは考える必要はない。


石田衣良の論理の破綻

以上が石田衣良に対する論理的な反論だ。ここからはさらに深読みしてみる。

石田衣良は「いま日本のインテリが立ついちばん安全で正しい場所は『反原発』と『エコ』ですから」とも言っている。彼自身は「僕自身は反対でも賛成でもない」と言っているので、彼は自分で自分のことを「日本のインテリ」ではない、と主張していることになる。

原発について反対でも賛成でもないが、「客観的に電力事情をみれば原発を残さざるを得ないだろうなあと思っています」とも言っている。石田衣良は自分が「インテリ」ではないと主張すると同時に、自分の考え方が「客観的」だと主張している。

つまり「非インテリ」と「客観性」は両立しうるというのが、石田衣良の考え方だ。

さらに石田衣良は、東京電力を「不当に批判」することを、「外部に単純な悪を設定」することであり、外国における「移民排斥などの民族問題」と並列のものだとしている。ただ、正直僕には、なぜ東京電力に対する「不当な批判」と「移民排斥」を並列できるのか、全く理解できない。

「東京電力」は、日本という国のたかだか数万人の従業員からなる一営利企業であり、「民族」は場合によっては数千万人から数億人規模の集団だ。

それに「東京電力」は日本という特定の国の法律で定義された集団だが、「民族」は特定の国の法律によらない集団で、どこまでを「排斥」の対象にするかの境界線さえあいまいだ。

これだけ性質の異なる集団に対する、「批判」と「排斥」というこちらも性質の異なる行為を、なぜ並列の事象と見なせるのか。僕には石田衣良の考えが理解できない。

さらに言えば、「東京電力」に対する「不当な批判」が、すべて「憎しみ」から生じているかのような石田衣良の考え方も全く理解できない。3つめの回答の最後が「憎しみ」の議論で終わっていることから、石田衣良が「不当な批判」と「憎しみ」を関連づけていると考えるのが自然だろう。

まして、東京電力を一旦「憎しみ」に基づいて「不当に批判」すると、それ以降、批判した当人が「憎しみ」によらなければ自分が自分であること、つまり自分のアイデンティティを確認できなくなるという発想の飛躍も理解できない。

なるほど、これだけの論理の飛躍があるので、石田衣良は「インテリ」ではない。マスメディアからインタビューを受ける人物が持つべき、最低限の論理的思考能力さえ持ち合わせていない。


石田衣良の議論の非倫理性

最後にもう一度書いておく。石田衣良は、今回の福島第一原発事故で避難を余儀なくされている人たちにも、「会社を潰してしまえ」とか「社員の給料をゼロにしろ」というふうに、東電を「不当に批判」するなと言うのだろうか。

さすがに福島第一原発事故の避難者にそこまで言えないとすれば、石田衣良は「東電を不当に批判するな」と、避難者の親戚に対しては言えるのか。避難者の知り合いに対しては言えるのか。

避難者の支援をしているボランティアや市民運動家に対しては言えるのか。飯田哲也や神保哲生、宮台真司、高橋源一郎、山本太郎といった反原発派の人たちに対しては言えるのか。

そうして少しずつ範囲を広げて行くとき、石田衣良はいったいどれだけの範囲の人たちは、東京電力を「不当に批判」してもいいと言うのか。石田衣良はその範囲を明確にすべきだ。

いや、石田衣良ならきっとこう反論するだろう。

「政府はどこまでの住民を避難させるか、まだ範囲をはっきりさせないが、それでも政府を不当に批判すべきではありません。同じように、どこまでの人たちに東電への不当な批判が許されるか、範囲をはっきりさせない私のことも、皆さんは不当に批判すべきではありません」

さらに石田衣良は、こうも反論するだろう。

「この『愛と苦悩の日記』というブログのように、私を憎しみから不当に批判することこそ、まさに私が批判したかった事象です。私を一度憎めば、次からは他の人に対しても憎むことでしか自分の確認ができなくなりますよ」

これが石田衣良の言う、客観的な見方らしい。なるほど彼は自分が不利な立場に陥らないように、うまく予防線を張っている。論理的に完全に破綻していることを除いては。

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