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2012年2月の記事

2012/02/29

アニメを見下す大人は鑑賞能力がないだけ

アニメについてブログを書こうとすると、前提となる説明が長くなるが、あえて書いてみる。

先日、録画してあった『スマイルプリキュア』を初めて見た。本当は第1話から観たかったのだが、予約録画を忘れていたためにようやく観ることができたのだ。

アニメに関心のない読者の方々は、ここまでで頭の中が疑問符だらけに違いない。

『プリキュア』というのは日曜日の朝に放送されている女児向けTVアニメシリーズで毎年新シリーズが1年間の放送予定で開始される。詳細はウィキペディアの「プリキュアシリーズ」をご覧いただきたい。

いずれにせよ、40代で子供のいない僕のような既婚男性が観る番組ではない。では僕が登場人物の中学2年生という設定の少女たちに「萌え」ているのかと言えば、そうではない。

録画を観た理由は、今年の『スマイルプリキュア』シリーズの主人公を福圓美里(ふくえん・みさと)という声優が担当しているからだ。福圓美里という声優を知っている人はほぼ皆無だろうが、彼女は水樹奈々という声優と関係が深い。

水樹奈々は声優出身の歌手として初めて、NHK紅白歌合戦に2009年から3年連続出場を果たし、いま活躍している声優の中では歴史的な人気をほこっている。2011年末は東京ドームを2日連続で満員にしている。それでも一般的な知名度は極めて低い。

水樹奈々はブレイクする以前から、文化放送で週一回のレギュラー番組『水樹奈々のスマイルギャング』を持っている。2002年4月放送開始で、もう10年になるラジオ番組だ。この番組で初回から水樹奈々のアシスタントを務めているのが、福圓美里である。

『プリキュア』シリーズのアフレコを担当するのは、『ドラえもん』ほどではないにしても、声優としては一種のステイタスであり、大きなキャリアになる。深夜時間帯に放送されている多くのアニメ作品が、3か月か、長くても半年で終わるのに対して、『プリキュア』は1シリーズ1年間の長期レギュラーだ。

水樹奈々もプリキュアシリーズを担当したことはあるが、福圓美里にとって今回の『スマイルプリキュア』は初めての長期間レギュラー、しかも主役担当ということで、彼女にとって人生のメルクマールといえる大事件なのだ。

最近ではあるが水樹奈々のファンになった僕として、売れない時代から『スマイルギャング』を2人3脚で続けてきた福圓美里が、TVアニメの大型作品で初の主役とあっては、観ないわけにはいかない。

そういうわけで録画してあった『スマイルプリキュア』を観た。なお『スマイルギャング』と『スマイルプリキュア』はどちらも「スマイル」で始まるが、これは偶然の一致だ。

2012/02/26放送分の一回を観ただけだが、昨年放送の『スイートプリキュア』とかなり作風が異なる。日曜日の朝は、スポーツ全般に関心のない僕にとって、『サンデーモーニング』のスポーツコーナーの時間帯に、他の局をザッピングしていると、イヤでも『プリキュア』シリーズが目に入ってしまう。

昨年の『スイートプリキュア』が思わず目に入ってしまったのは、まず、音楽を主題とするシリーズであったことと、女児向けのアニメであるにもかかわらず、ストーリーが意外に哲学的だったからだ。

例えば、極度の人見知りで友人となかなか親しくなれないキャラクター(キュアビート)を登場させることで、子供たちの決して単純ではない人間関係をきっちり描いている点。

また、敵であるはずのノイズが、自分自身の絶望が悪としての役割の自己正当化になっていることに気づくことで、最終的には日常の世界で「元」プリキュアたちと平凡な日常生活を送るようになるという、弁証法的な物語の展開など。(悪が対自によって止揚されたと読める)

女児向けアニメとはいえ、ウルトラマンや仮面ライダーといった男児向けの特撮ものと同じように、当然のことながら制作者側はすべて大人で、その時代の社会問題が作品に色濃く反映する。

今年の『スマイルプリキュア』は昨年の東日本大震災を受けて、「絆」がテーマの一つになっているらしい。

作品中に登場する「バンドエンド王国」が、人間の持つ否定的な価値の具現化になっている。例えばその王国の住人であるアカオーニ(=赤鬼)は、人と人の絆などいつかは壊れてしまうという考えからプリキュアたちと対決する。

僕が面白いと思ったのは、プリキュアの敵たちにも「バッドエンド王国」という共同体の中での生活があり、絆を否定しつつも、否定的価値観の共有することで一つの共同体を形成している点だ。アカオーニというキャラクターが自分で「鬼のパンツ」を洗濯する場面も登場する。

否定的な価値観を持つ人々にも、彼らなりの日常生活があり、彼らなりの共同体がある。『スマイルプリキュア』はそれを否定していない。

しかも悪者たちと正義の味方であるプリキュアたちの間には、敵対関係や戦闘だけでなく、不思議なことにふつうの対話も成立している。(キュアピースとじゃんけんをして負けて悔しがる等)

すると大人としては、一体なぜ主人公の星空みゆき(変身後はキュアハッピー。声は上述のように福圓美里)が全部で5人いるプリキュアを一人ずつスカウトし、悪者たちと戦う必要があるのか、疑問に感じてしまう。

プリキュアシリーズは、善悪の対立そのものが、絶対的な善と絶対的な悪の対立ではなく、特定の観点に立ったときにしか成立しない相対的な状況であることを、作品の中でバラしてしまっている。

これはプリキュアシリーズが初めて行ったことではなく、ウルトラマンの時代から子供向け特撮ものやアニメの主題になっている。

ウルトラマンや仮面ライダー、プリキュアが子供向けであり、大人には無関係だという考え方は、一見、いかにも大人らしく分別のある考え方のようだが、単にそれらの番組を見ていた子供の頃の自分が、制作者側の大人としての制作意図を理解していなかったからに過ぎない。

子供向けアニメや特撮ものをバカにしている人たちは、制作者である大人たちが込めた大人の思想や視点を見逃しているか、頭脳が子供のころから全く成長していないか、のどちらかである。

もちろん子供向けアニメの楽しみ方は、そうした物語に込められた思想だけではない。純粋に「動く絵」として観たときの演出技法を堪能する楽しみ方もある。

『スマイルプリキュア』が昨年の『スイートプリキュア』と大きく異なるのは、作品の演出全体がとにかく明るく躍動的である点だ。

そのため、特に戦闘シーンでの「止め絵」(=歌舞伎における「みえ」に該当するカット)は、ハイビジョンの16:9の画面をいっぱいに使い、超広角レンズを使ったようにパースが極端に強調された、迫力のある絵になっている。とても中学2年生の少女とは思えない力強さだ。

東映アニメだからかもしれないが、逆に戦闘シーンなどでの「動画」に特筆すべきものはない。

例えば昨年の『スイートプリキュア』もそうだが、エンディングはプリキュアたちが曲に合わせて軽快にダンスを踊る動画になっている。ところがこれが3DのCG制作で、あまりに動きがぬるぬるとなめらか過ぎて、見ていてやや気味が悪い。

エンディングは1年間使うのだから、京都アニメーションという『けいおん!』などで有名なアニメーション制作会社のように、なぜ時間をかけてでも手書きの動画にしなかったのかと思う。

いずれにせよ、子供向けのアニメは、大人たちが作ったものであり、僕のように黄金時代のハリウッドの名画や、フランスの批判的な映画、小津安二郎や溝口健二などの日本の名画を大量に観ている大人にとって、じゅうぶん鑑賞に耐える作品であることに間違いはない。

アニメを観ても子供っぽくて何が面白いのか分からないという大人たちは、単にアニメを批判的に鑑賞する能力がないだけである。

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2012/02/27

本物の合理主義は合理主義の限界をわきまえている

先日の光市母子殺害事件の死刑判決にしても、福島第一原発事故による低線量被ばくの健康被害問題にしても、議論が永遠に並行線になる2つの異なる立場がある。一つは要素還元主義的な立場。もう一つは要素還元主義的でない立場だ。

要素還元主義は、17世紀ヨーロッパ大陸で成立した大陸合理論や大陸合理主義と呼ばれる、近代科学の基礎となった合理主義が採用する方法論である。

高校時代に「倫理社会」の科目があった方はご存知かもしれない。大きな問題を解決したいとき、全体を一度に考えるのは難しいので、まず小さな問題に分割し、それら一つひとつに解答を出していくことで問題の全体を解決しよう、というのが要素還元主義だ。

僕はこの要素還元主義を、新卒で某大手電機メーカーに就職した後、新入社員研修でも教わった。当時は、大卒の学生に今さら要素還元主義を教えるとは、学生をバカにするのもいい加減にして欲しい、と思いながら聞いていたものだが。

この要素還元主義という合理主義の方法論が、絶対王政の時代に確立されていることからもわかるように、古代ギリシア哲学がすたれて、長らくキリスト教の教義が支配的だったヨーロッパ社会が、近代科学の時代に入る基礎になっている。

死刑問題の背景にある近代刑法にしても、低線量被ばくの背景にある原子物理学や疫学にしても、その根っこは大陸合理論であり、その方法論である要素還元主義だ。

ただ、忘れていけないのは、デカルトもふくめ、大陸合理論を確立した欧州の思想家たちは、大きな問題を小さな問題に分割する要素還元主義の限界に最初から気づいていた、ということだ。

要素還元主義の限界は、哲学の分野では18世紀のカントの批判哲学によって、すでにはっきり示されている。いちばん分かりやすいのが『純粋理性批判』に登場する二律背反(アンチノミー)という部分だ。

ちなみにインターネット上では、二律背反とは「矛盾」のことです、と説明している文章があるが、これはウソなのでご注意を。

二律背反とは、「宇宙は無限か有限か」という問題について、「宇宙は無限である」という前提から徹底して合理的に考えると「宇宙は有限である」という結論に達し、逆に「宇宙は有限である」という前提から徹底して合理的に考えると「宇宙は無限である」という結論に達するという事態を指している。

二律背反は、合理的思考には適用していい範囲があり、それを超えると合理的思考は自らの合理性を否定してしまうことを示している。要素還元主義の方法論を採用するかどうか以前の問題として、合理主義はこのような適用限界をもっている。

デカルトの場合「誇張懐疑」という方法論を徹底することで、合理主義の限界にすでに突き当たっていた。つまり、仮に悪魔のような存在がいて、自分の合理的思考が単に合理的だと信じこまされているだけだとしたら…という仮定だ。

なんだかこのブログを書いている時点で芸能界の話題になっている、女性お笑いコンビの「黒い方」の洗脳騒ぎみたいだけれど、デカルトは自分の合理主義を徹底させるために、あえて自分が悪魔のようなものに「洗脳」されていたら?と疑ってみたわけだ。

そこでデカルトは、いや、たとえ自分が悪魔に「洗脳」されていたとしても、どうしたって否定できないことがある。それは、自分が悪魔に「洗脳」されているかもしれない云々と「考えている」ということだ。

その帰結が有名な「我思う故に我あり(cogito ergo sum)」という命題になる。この命題そのものは合理主義が妥当性であることを主張しているのではなく、合理主義的な思考や、非合理主義的な思考など、あらゆる種類の思考を支える原理を示しているにすぎない。

重要なのは、このように近代合理主義は生まれた時から自分自身の適用範囲に限界があることをはっきり自覚していた、ということだ。

つまり、合理主義はその適用可能な範囲内では論理的一貫性をもつことができるが、適用範囲外においては、合理主義は自分で自分の合理性を基礎づけることができなくなる、ということだ。

合理主義的な思考や非合理主義的な思考など、あらゆる思考を支えているのは、合理主義の「外側」にある「何ものか」だと考えたのは、デカルトのような大陸合理論や、カントやフッサールだけではない。

英米系の哲学者であるウィトゲンシュタインも、『論理哲学論考』の最期の命題を「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」としている。つまり、徹底して合理的に考えると、必然的に合理主義の限界につきあたり、その「外側」については合理主義的な思考とは別の思考が必要だということだ。

僕らが暮らしている現代の日本社会は、いちおう近代合理主義を基礎とするフランスとドイツの法制度にもとづいて明治時代に制度設計され、その後、やはり近代合理主義を基礎とする英米系の功利主義的な考え方から生まれた法制度と経済制度にもとづいて作られている。

なので、今の日本社会で生じる問題を考えるにあたって、まず合理主義的な思考法を採用するのは間違っていない。ただし、最後まで合理主義「だけ」で問題を解決できるというのは、合理主義の過剰な適用である。

先日ここで、低線量地域から避難せずに住み続けろというのは、高所恐怖症の人に、絶対安全な高所に毎日上がるように強制するようなものだ、ということを書いた。「低線量放射線」という現象に恐怖を感じる人たちに対して、「それは科学的に考えると非合理的だ」と主張するだけでは、何の問題解決にもならない、という主旨だ。

「高所恐怖症の人に10mの飛込み台に登る日課を義務づけてみよう」(2012/02/14)

低線量被ばくに市民が「恐怖」を感じるのは、合理主義者たちがよく言うように、市民が十分に合理的でないからではない。そもそも「恐怖」とは合理的思考の結果ではなく、感情だからである。

「恐怖」という感情について、要素還元主義的な合理主義者は「恐怖」の感情が発生する合理的な原因と、非合理的な原因を分けて考える。

そして、非合理的な原因は「恐怖」を感じている本人が、単にじゅうぶん合理的でないためであり、きちっと教育・啓蒙すれば解消され、他方、合理的な原因については、合理的な方法で取り除くことで、結果として「恐怖」は両面から解消される。

これが要素還元主義的な合理主義者の思考のパターンである。こうした要素還元主義的な合理主義は、問題解決の役に立たない。

合理主義の適用範囲を超えているためだ。「恐怖」の事例でいえば、「他者」の内側にある「恐怖」感情を、「外部」から合理主義的説明を与えることで消し去ることができるというふうに、合理主義を適用範囲をこえて適用しているためだ。

そこで、要素還元主義的でない、別の種類の合理主義的思考が必要になる。

それは「恐怖」といった感情の問題を、合理的な因果関係(=啓蒙が足りないから怖がる、原因物質が存在するから怖がる等)だけで解決できないとする合理主義だ。典型的には社会学や心理学である。

これら別種の、要素還元主義的でない合理主義では、「恐怖」が存在し、要素還元主義的な合理主義では解消されないという前提から出発する。

そして、地域共同体や市民と専門家との関係など、社会的資源として利用できる人と人との関係を使って、「恐怖」を解消することを目指すのではなく、何とか我慢できるレベルにおさえることを目指す。

死刑問題についても同じことが言える。

要素還元主義的な合理主義は、たとえば「死刑制度の存廃問題と、冤罪の可能性は別問題だ」というふうに、死刑に関連する問題を切り分け、個々の問題について合理的に結論を出すことで、最終的に死刑問題の全体に結論を出せるとする。

要素還元主義的な合理主義者は「味噌もクソもいっしょにして」問題を論じることを拒否するが、いったん問題を小さな問題に細分化すると、細分化された問題から全体を再構成するときに、小さな問題のどれをどこに位置づけるかについて一定の判断が入る。

なぜなら、どのように全体を再構成するのが合理的かについて、合理主義者はさらに別の論文などを参照して根拠づけるか、小さな問題の内部に適切な再構成の根拠が内在しており、それを読み取るだけでいいと主張するか、このどちらかしかない。

ただ、別の論文などを参照すれば、多数存在する論文のうち、その論文を選択した合理的な根拠をさらに示す必要があり、以下、無限にこの手続のくり返しになる。

また、論証の対象である問題そのものに、最初から全体を再構成するための根拠が「内在」しているなら、そもそも問題を細分化する必要はないが、その内在している根拠は誰が埋め込んだのかという疑問に答えられない。

このように、要素還元主義的な合理主義は、全体を部分に分割するときの仕方や、部分から全体を再構成するときの仕方が、合理的であることを根拠づける必要があるという、循環論法に陥る。

要素還元主義的な合理主義は、徹底して主観性・恣意性を排除しようとするが、結果、循環論法におちいるか、ウィトゲンシュタインのように「沈黙」することになる。主観的な選択を、純粋に客観的な選択(そんなものが存在するとして)だと主張するのは、端的に誤りだからだ。

死刑問題にしても、低線量被ばくの健康被害の問題にしても、あえて循環論法を延々と展開したり、「沈黙」したりするのも一つの主観的な選択としてあり得るが、具体的な対策に結びつかない。

要素還元主義的な合理主義の限界をすでに知っている人に対して、あたかも合理主義が主観性を完全に排除できるかのように議論するのは、単なる無知だし、要素還元主義的な合理主義が何かを知らない人に対して、あたかも合理主義が主観性を完全に排除しているかのように議論するのは、単なるウソつきか、たちが悪ければ「洗脳」になる。

客観性の権化であるかのように言われる科学でさえ、人間の社会がこの世界全体について持っているさまざまな世界像の一つでしかない。他の自然科学や社会科学もすべて、人間が世界について持っている世界像のうちの一つでしかない。

極端に言えば、人間は猿から進化したのではなく神が創り給うたものだという世界像も、人間が世界について持っている世界像の一つとして存在している事実は事実として、合理主義者といえども否定できない。

自然科学、哲学、社会学などなど、人間のいかなる思想も諸学も、世界全体についての妥当性を主張することはできない。どのように思考しても何らかの「外部」が残ってしまうことは、ウィトゲンシュタインでもデリダでもゲーデルでも誰でもいいが、徹底的に合理的に考えた思想家が認めている。

それら諸学の中で、合理主義だけが世界全体について妥当性を主張できるという考え方が存在するのは事実だが、それは、人間は神が創り給うたものだという考え方と同じ資格で、この社会に存在しているに過ぎない。

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2012/02/20

安冨歩『原発危機と「東大話法」』を読んだ

安冨歩著『原発危機と「東大話法」―傍観者の論理・欺瞞の言語―』(明石書店)を読んだ。

本書は東京大学教授である著者が、これまで原子力発電を推進してきたり、福島第一原発事故後も原子力の安全性を主張したりしている、主に東京大学出身の学者たちの「傍観者」性や「欺瞞」性を論じている。もちろんその矛先が著者自身にも向けられていることを、著者は自覚している。

本書の白眉は、香山リカの小出裕章助教批判や、池田信夫の原発に関するブログ記事が、いかに「東大話法」的かをこと細かに論証している部分にある。

後半の第4章、第5章については、人によって見解は分かれるだろうが、前半の香山リカや池田信夫の「東大話法」の検証部分は、ご自身で読まれるのがいちばん面白いと思うので、ぜひ手にとってお読みいただきたい。

また、あとがきによれば、どうやら本書に収まりきらない部分(原発推進の国策と田中角栄的なるものの関連性など)があったらしく、それは後日、別の書物として出版されるそうだ。そちらも楽しみである。

さて、僕のこのブログでは「東大話法」の規則として筆者の安冨歩氏が挙げている項目が20個と、やや多すぎる感があるので、あえてもっとコンパクトにしてみたい。「東大話法」として著者があげているのは以下の20の規則である。

なお、この規則だけを読んで『原発危機と「東大話法」』を読んだ気にならないで頂きたい。くり返しになるが本書の最も面白い部分は香山リカと池田信夫の具体例の分析である。

規則1 自分の信念ではなく、自分の立場に合わせた思考を採用する。

規則2 自分の立場の都合のよいように相手の話を解釈する。

規則3 都合の悪いことは無視し、都合のよいことだけ返事をする。

規則4 都合のよいことがない場合には、関係のない話をしてお茶を濁す。

規則5 どんなにいい加減でつじつまの合わないことでも自信満々で話す。

規則6 自分の問題を隠すために、同種の問題を持つ人を、力いっぱい批判する。

規則7 その場で自分が立派な人だと思われることを言う。

規則8 自分を傍観者と見なし、発言者を分類してレッテル貼りし、実体化して属性を勝手に設定し、解説する。

規則9 「誤解を恐れずに言えば」と言って、嘘をつく。

規則10 スケープゴートを侮蔑することで、読者・聞き手を恫喝し、迎合的な態度を取らせる。

規則11 相手の知識が自分より低いと見たら、なりふり構わず、自信満々で難しそうな概念を持ち出す。

規則12 自分の議論を「公平」だと無根拠に断言する。

規則13 自分の立場に沿って、都合のよい話を集める。

規則14 羊頭狗肉。

規則15 わけのわからない見せかけの自己批判によって、誠実さを演出する。

規則16 わけのわからない理屈を使って、相手をケムに巻き、自分の主張を正当化する。

規則17 ああでもない、こうでもない、と自分がいろいろ知っていることを並べて、賢いところを見せる。

規則18 ああでもない、こうでもない、と引っ張っておいて、自分の言いたいところに突然落とす。

規則19 全体のバランスを常に考えて発言せよ。

規則20 「もし○○であるとしたら、お詫びします」と言って、謝罪したフリで切り抜ける。

では、これら20個の規則を、以下、コンパクトにまとめる努力をしてみる。

規則1、2、19は、著者の非難する日本人の「立場主義」に関するものだ。

「立場主義」の詳細については、安冨歩氏が本書の第4章で「立場」という言葉の語源から始めて、近代以降、夏目漱石の小説にあらわれる「立場」という言葉の意味の変遷を事例に、どのように現代の意味になっていくかを跡づけている。直接お読みいただきたい。

「立場」とは自分の所属する組織における「立場」のことで、それに反する言動をとると、組織における「立場」を失うことになる。日本人は個人的信念を横において、あくまで組織内の「立場」に沿った言動をとることを優先しがちだ。

規則19は、個人の良心や主張より、組織内部で自分の「立場」を守るために必須の行動規範といえる。八方美人的な態度をとれば個人の主張に一貫性はなくなるが、組織内での自分の「立場」は安泰だ。

したがって規則1、2、19は「個人としての良心より組織の目的を優先させる」とまとめられる。

単に「意見」ではなく「良心」という言葉を使うのは、その人なりの倫理観という意味合いを含めたいからだ。組織上の「立場」を守るために、その人が本来もっていたはずの倫理観まで捨ててしまっているように見える事例を、僕らはたくさん見て来ている。

次に、規則3、4、13は、いずれも議論の枠組みや範囲を死守し、他人に変更させることを許さない態度を示している。つまり「議論の枠組みの変更を拒絶する」とまとめられる。

社会に存在するさまざまな問題は、それ単独で存在しているわけではなく、他の問題との関連性の中でしか位置づけられない。その問題だけ取り出せば純粋に原子物理学の問題であっても、その問題は人々にどのように受け取られるかによって、社会学の問題にもなる。

そのように、ある問題についての議論は、枠組みを特定の学問分野や、特定の空間・時間に限定することなく、枠組みを移動したり広げたりすることで、初めてより普遍的で妥当な議論になる。

議論の枠組みの変更を拒否するというのは、その議論に対する新たな立場からの批判や検証を拒絶するのと同じことだ。

次に、規則5、6、7、10、11、12、16、17はすべて、その場その場での(アドホックな)自分自身の印象操作、自己演出のことを言っている。場面によって自分をどう見せれば、自分の議論を通すことができるか、についての規則だ。

こうした印象操作や自己演出は、議論の中身が妥当かどうかと全く無関係におこなうことができる。極端な話、自分の議論の内容が完全なデタラメであっても、自分が他人にあたえる印象をうまく操作し、自分で自分を演出することで、議論があたかもまともであるかのように見せることができる、という規則になっている。

これらは「単なる偽装」「単なる恫喝」「情報の非対称性の悪用」の3種類に分類できる。「情報の非対称性」という言葉については後で説明する。

規則5、7、12は「単なる偽装」にあたる。ただし、偽装が偽装として成り立つためには、偽装であることがバレてはいけない。「東大話法」においてそれをバレなくさせているのは、「東大教授」など、話者の肩書きである。

こうした肩書きをつかってムチャクチャな議論を、あたかも妥当な議論であるかのように偽装する方法は、テレビなどのマスメディアが情報バラエティー番組で日常的に行なっている。健康食品の効果を説明するのに、大学教授を出演させるなどである。

なのでこの「単なる偽装」については、どちらかと言えば、「大学教授」といった肩書きだけで安易に納得してしまわないように、情報の受け手側がだまされない努力をする必要がある。

いわゆる「情報リテラシー」を身につけ、たとえ権威ある学者や、大手新聞社、全国ネットのテレビ局、大企業の経営者が言っていることであっても、鵜呑みにしないことだ。

そして規則6、10が「単なる恫喝」にあたる。これは理性的な議論以前の問題で、議論の相手や聴衆に恐怖の感情を引き起こし、こちらの議論の中身について真剣に考え続けるよりも、素直に従ったほうが楽な状況を作り出す方法だ。

ただし、これが有効であるためには、ある程度、頭数が必要になる。多勢に無勢では恫喝そのものが成り立たないので、自分の支持者が一定数存在し、自分の意見に反対する人間を恫喝してくれる状況が整わないと、この「単なる恫喝」は実行できない。

「東大話法」における恫喝のポイントは、相手に効果的に精神的ダメージを与えることができる「手先」を、いかに多く自分の支持者にできるかにかかっている。罵詈雑言が得意な「チンピラ」をたくさん仲間にしておけば、自分は安全な場所にいたまま、「チンピラ」たちが勝手に反対派への恫喝をやってくれる。

ツイッターである人と真剣に議論しているのに、横から突然、議論と全く関係のない個人攻撃をしてくるような人間が「チンピラ」にあたる。

残りの規則11、16、17が「情報の非対称性の悪用」にあたる。これは学者の職業倫理としては最も卑劣な方法だろう。

「情報の非対称性」とは、ある事柄について一方が他方よりも圧倒的に多くの情報や知識を持っている状況のことだ。

ある学問分野について専門的に研究してきた学者が、一般市民より圧倒的に多くの情報や知識を持っているのは当然だ。その当然の結果を、自分の意見をより堅固なものにすべく、批判をうけ入れるために使うのではなく、自説への反論を封じるために使うのは、学者として最も卑劣な態度と言える。

ここまでをまとめると、次のようになる。

(1)個人の良心より組織の目的 (規則1、2、19)
(2)議論の枠組みの固定化 (規則3、4、13)
(3)自己の権威を利用した偽装 (規則5、7、12)
(4)支持者の頭数を利用した恫喝 (規則6、10)
(5)情報の非対称性の悪用 (規則11、16、17)

残りは規則8、9、14、15、18、20だ。

規則8 自分を傍観者と見なし、発言者を分類してレッテル貼りし、実体化して属性を勝手に設定し、解説する。

規則9 「誤解を恐れずに言えば」と言って、嘘をつく。

規則14 羊頭狗肉。

規則15 わけのわからない見せかけの自己批判によって、誠実さを演出する。

規則18 ああでもない、こうでもない、と引っ張っておいて、自分の言いたいところに突然落とす。

規則20 「もし○○であるとしたら、お詫びします」と言って、謝罪したフリで切り抜ける。

このうち、規則8、9、15、20は、すべて「相対主義の悪用」にあたる。

相対主義とは、世の中にはさまざまな意見があって、そのうちどれが絶対に正しいということは誰も断言できない、という考え方のことだ。

自分の議論により説得力を持たせるには、世の中にはさまざまな意見があり、自分はそれらの意見を公平に検討しましたよ、というフリをするのが効果的だ。

さまざまな意見を検討した上で、自分はこの意見にたどり着いたという具合に、いったん相対主義をくぐり抜けましたよ、という演出をすれば、自分の議論により説得力が出る。

その「多様な意見を検討した」というアリバイづくりが規則8である。規則8における発言者のレッテル貼りは、それほど敵意むき出しでやらなくても、冷静に行うだけで、自分がさまざまな意見の検討を経ているかのような演出は十分に成り立つ。

規則9は、自分の意見が誤解をうける可能性があることをあえて言うことで、自分の意見が聞き手にどのように受け取られるか、それによってどのような反論が出てくるかまで、あらかじめ検討済みですよ、というフリをしている。

規則15は、自分を批判する演技を見せることで「この人は自分自身の意見をも相対化しているのだ」という印象を与えることができる。

規則20は、「もし○○であるとしたら」とあえて発言することで、自分が「○○である」場合も想定したことを主張している。自分がさまざまな反論の可能性をすでに検討していますよ、と主張することで、自分の議論の妥当性を印象づけることができる。

このように、自分の意見を自分で相対化するフリをするのは、自分の意見に説得力を持たせる効果的な方法だ。謙虚さを重んじる日本人にとっては、自分の意見を相対化する、つまり、「もしかしたら自分は間違っているかもしれない」と認めて見せることによって説得されやすい。

さて、残るは規則14、18だ。

まず規則14は、安冨歩氏の著書では、文章にわざと論旨と無関係な題名を付けることを指している。論旨に沿った題名をつけると、読み手は文章を読む前に身構えてしまう。するとまっとうな反論をされるおそれがあるので、わざと論旨と無関係な題名を付ける。それが規則14だ。

これと規則18も同じ効果をねらっている。自分の主張を一つひとつ着実に根拠づけていくような議論の展開をすると、それだけ読み手に反論の機会を与えることになる。逆に、自分の主張と直接関係のない議論を延々とやった後に、突然、自分の結論を書く方が、相手の反論を避けやすい。

この2つの規則は手品師がよく使う手だ。観客の注意を別のところにそらしておき、そのスキに手品のタネを取り出すという具合だ。かなり稚拙な手段とも言えるが、ここでは単に「相手の注意をそらす」とまとめてみる。

これで「東大話法」の規則を、かなりコンパクトにまとめられたと思う。

(1)個人の良心より組織の目的 (規則1、2、19)
(2)議論の枠組みの固定化 (規則3、4、13)
(3)自己の権威を利用した偽装 (規則5、7、12)
(4)支持者の頭数を利用した恫喝 (規則6、10)
(5)情報の非対称性の悪用 (規則11、16、17)
(6)相対主義の悪用 (規則8、9、15、20)
(7)相手の注意をそらす (規則14、18)

こうすることで「東大話法」にだまされない方法も考えやすくなる。つまり、例えば次のようなものだ。

(1)その人個人の倫理観が見えづらくされていないか。
(2)議論の枠組みを広げられることに抵抗していないか。
(3)自分の肩書きを利用したり、別の権威を援用していないか。
(4)自分の支持者であっても、恫喝的な人物がいれば非難しているか。
(5)一般人に向けた文章で専門用語や複雑な数式を濫用していないか。
(6)相手の批判や誤解をすでに分かっているかのようなことを、無根拠に言っていないか。
(7)突然話が変わる箇所が多すぎないか。

7つくらいなら何とか覚えられるのではないかと思い、大きなお世話ではあるがコンパクトにまとめてみた。

ただし僕自身、東京大学出身なので、このブログ自体にも「東大話法」に当たる部分があるかもしれない。実際、自分で過去の記事を読むと、かなりの記事に「東大話法」が含まれていることに気付かされる。「東大話法」あなおそろし。

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2012/02/17

深夜時間帯アニメ作品の多様性

TVアニメ『侵略!?イカ娘』のオリジナル・サウンドトラック2のジャケットが面白い理由が分からない人がいるといけないので、比較画像をアップしておく。

Ikamusume_ost2

要は1990年代にカリスマ的な人気を誇ったロックグループ、ニルヴァーナの大ヒットアルバムのジャケットのパロディでした、というわけだ。

ところで『侵略イカ娘』というTVアニメだが、単なる「スクール水着少女萌え」作品だと完全無視していたが、実際見てみると意外に良かった。

24分間に3つのエピソードからなるという、番組フォーマットとしては『サザエさん』と同じで、脚本の内容も実は『サザエさん』なみに平凡な笑いに満ちている。

深夜時間帯に放送されているアニメを、生まれて初めて、ここ半年くらい集中して見ているが、ほとんどの作品には男性視聴者をひきつけるための「釣り」要素として、エッチな場面が散りばめられている。女性の水着姿や入浴シーン、なぜか途中で半裸になる変身シーンなどだ。

『イカ娘』もオープニングに、主人公のイカ娘の水着シーンはあるが、本編で「釣り」としてのエッチな場面が出てくることはほとんどない。

『イカ娘』の物語はよくある貴種流離譚のコメディ版だ。異界人が突然、人間のごく普通の日常生活に放り込まれ、あたふたしながら人間たちとの親交を深めていくという、心温まるな物語である。

当然、深夜時間帯のアニメということで、オタク向けの設定や引用は随所に散りばめられている。例えばイカ娘に「百合萌え」している女子の登場人物など。

それらをはぎ取ると、NHK教育テレビ(ETV)で放送してもいいのではないか、というくらい、『イカ娘』はほのぼのしたエピソードばかりだ。

些細なことからいがみ合ってしまった友だちどうしが、実はお互いのことを大事に思っていることに気づく、とか、平凡な日常の風景に自然の美しさや小さな冒険を見つける幸福とか、意外に普遍的なテーマが『イカ娘』のエピソードの背骨になっている。

もちろんイカ娘という可愛らしいキャラクター設定の妙もあるが、この作品の本質は何よりも脚本の良さにある。40男が不覚にも泣いてしまうエピソードもある。

「スクール水着少女萌え」という外見のせいで、この『侵略イカ娘』という作品が、深夜時間帯アニメファンのものだけになっているのは、かなり惜しい気がする。

ところで、深夜時間帯アニメのファンにとって、この種の「癒し系」作品が必須であるということは、他の深夜時間帯アニメを見ると分かる。

戦闘シーンで大量の血が噴き出すような「グロ」作品や、他人を身体的・心理的に虐待することを好むキャラクター、神経症のキャラクターなどが登場する「メンタル系」物語など、とにかく「精神衛生上悪い」作品が多い。

最近ではアニメ版『ブラックロックシューター』や、『未来日記』。その他『魔法少女まどかマギカ』や『輪るピングドラム』も後半になるほど神経症的な物語になった。

そういうものばかり見ていると『日常』や『イカ娘』、『けいおん!』『らきすた』『キルミーベイベー』といった「癒し系」アニメ作品を見ずにはいられなくなるのだ。

癒し系作品とは別に、『TIGER&BUNNY』や『輪廻のラグランジェ』など、友情というテーマを軸に視聴者を引きこむ「元気系」アニメ作品もある。その他、ほぼ純然たる「エロ」アニメもある。

今の日本のアニメは、そうした多様な性格をもつアニメ作品群がお互いを補完する一つの大きな体系を形成することで成り立っている。海外での日本のアニメ作品受容も、個別作品というよりは、その体系全体が受容されていると思われる。

ところが、深夜時間帯のアニメを見たことがない人は、一部の「エロ系」作品のせいで先入観をもち、多様なアニメ作品の全体を否定し、最初から見ようとしない。それが個人的には非常にもったいないなぁと思う。

少しでも興味を持たれた方は、バンダイチャンネルで、月額1,000円でほとんどの作品が見放題になっているし、第1話限定で無料という作品も多数あるので、ご覧になってはいかがだろうか。

『侵略!?イカ娘』第1話(視聴無料)

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2012/02/14

高所恐怖症の人に10mの飛込み台に登る日課を義務づけてみよう

細菌性急性胃腸炎から復帰したばかりの僕だが、38度の発熱で苦しむ前に、書こうと思っていた記事を書く。

福島第一原発事故による線量は、科学的にみて健康被害がないことを、この際、認めてしまおう。それでも「だから福島に戻ってきても大丈夫です」という言説に、まったく説得力がないことを、以下に論証してみる。

高所恐怖症の人たちがいる。僕も少し高所恐怖症ぎみだが、飛行機に乗れないほどではない(僕が飛行機に乗れないのは閉所恐怖症だから)。

さて、高所恐怖症の人は「高所恐怖」カルトに洗脳された結果、高所恐怖症になったわけではない。原因ははっきりしないが、物心ついたときから高い場所が怖かった、としか言えない。トラウマ体験みたいなものが、明確な人もいるだろうけれど。

さて、高所恐怖症の人に、例えば毎日高さ10mのプールの飛び込み台に登ることを日課にする生活を強制したとしよう。

飛び込み台が突然くずれ落ちるなんてことは、科学的に絶対ありえない。なので、高さ10mの飛び込み台に毎日登ることを日課にした結果、死ぬなんてことは、科学的にありえない。

高い所が平気な人にとってはむしろ、毎日一回、見晴らしのいい高台に立てることはいい気分転換になるかもしれない。

しかし高所恐怖症の人たちにとっては、毎日10mの飛び込み台に登らなければいけない生活は、苦痛以外の何ものでもない。そんな生活から逃げる手段があれば、当然のことながら逃げるだろう。

そんな高所恐怖症の人たちに対して、

「10mの飛び込み台は科学的に絶対崩れることはないので、死ぬこともない。にもかかわらず飛び込み台に登る日課から逃れるというのは、非科学的かつ非合理的な行動だ」

とか、

「そのために故郷の土地を捨てるのは非倫理的だ」

とか、

「自分の子供が高所恐怖症であっても、毎日10mの飛び込み台に登らせるのが親の義務だ」

などと意見するのは見当違いもはなはだしい、というか、頭がどうかしている。

同様に、現状の放射線量で健康被害が起こる可能性がなくても、それを恐怖に感じる人が出てくるのは仕方ない。東京都知事がそれを「単なるセンチメント」だと言うなら、センチメントのない人間など一人もいない。

放射線恐怖症も、言ってみれば高所恐怖症みたいなものだ。

科学的に安全性が証明されているからと言って、怖いものは怖い。別に放射線危険カルトに洗脳されたわけでもないが、どうしたって不安は残る。これは理屈の問題ではなく、感情の問題だ。

そういう人間に対して、いったい誰が「科学的には安全なのだから怖がるな!」と、怖がらないことを強制できるだろうか。

トマト嫌いの人に健康に良いからと無理やりトマトを食わせるとか、学校の黒板を爪でひっかく音が嫌いな人に毎日10分無理やりその音を聞かせるとか、科学的に健康に害がなくても嫌なものは嫌、というのは、ごくごく普通の人間的な反応ではないか。

福島の放射線レベルを「非科学的に」怖がって「過剰」に避難している人々を、暗に非難している人たちは、自分たちはそういう恐怖症や、食べ物の好き嫌いといった、いわゆる「生理的にダメ」なものが一つもないと言い切るつもりだろうか。

健康に無害なレベルの放射線を怖がる人々は、そのほとんどが、東日本大震災後、突然、放射線有害カルトに洗脳されたからではなく、もともと「放射能」や「放射線」というものが漠然と怖かっただけ、と考えるのが自然だ。

まるですべてが東日本大震災後に出現した、放射線有害カルト集団の洗脳の効果であるかのように論じるのは、誇大妄想というか、国民をバカにし過ぎというか、カルト集団の洗脳力を買いかぶりすぎというか、議論として不自然である。

でも、こう書いたところで、福島放射線安全派は、福島の「過剰避難」を徹底的に非難し続けるだろうけれど、まあそれはそれで人間の「センチメント」だから仕方ない。

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2012/02/12

公式英語版『魔法少女まどか☆マギカ』の声優さんまとめ

どうやらアニプレックスは『魔法少女まどか☆マギカ』の英語版を作成して、米国やカナダなどの英語圏への展開をするらしい。

MADOKA MAGICA(英語版『魔法少女まどか☆マギカ』公式サイト)

声優は当然、英語ネイティブになるが、海外であっても「真性」ヲタクはオリジナルキャストにこだわるはずで、おそらく英語ネイティブの声優版を受け付けないだろう。

アニプレックスの狙いも、英語圏のコアなヲタク層にはなく、たぶんあまり日本の最先端のアニメ表現にあまり関心はないが、日本文化には興味がある、といった若者にあるはずだ。(もしコアなヲタク層を狙っていたとしたら完全な英語圏展開戦略ミス)

自分のメモとして、英語版『魔法少女まどか☆マギカ』の主な声優さんの公式サイトへのリンク集を作っておく。

鹿目まどか役のChristine Marie Cabanosさん公式サイト。
http://www.christinemariecabanos.com/
Christine Marie Cabanos (Wikipedia)

バンダイ英語版YouTube公式チャンネルより、Christine Marie Cabanosさん出演の英語版『けいおん!』トレーラー。

暁美ほむら役のCristina Vee (Cristina Valenzuela)さん公式サイト。ご本人もクールビューティー的な。他には『けいおん!』の秋山澪、『ゼロの使い魔』のルイズ、『サクラ大戦』の吉野杏里など。

http://www.cristinavee.com/
Cristina Vee (Google+)
Cristina Valenzuela (Wikipedia)

Cristinavee20120211

このCristina VeeさんはGoogle+を見ると、コスプレイヤーでもあるらしい。また、個人的にアニソンの英語版をYouTubeにアップしていて面白い。例えば『らき☆すた』のオープニング。

巴マミ役のCarrie Keranenさん公式サイト。ご本人も頼れるお姉様的な。
http://carriekeranen.com/
Carrie Keranen (Wikipedia)

Carriekeranen20120211

キュゥべえ役のCassandra Lee Morisさん公式サイトはこちら。お願いされなくても契約してしまいそう、とか言わないの。
http://cassandrasvoice.wordpress.com/
Cassandra Lee Morris (Wikipedia)

Cassandraleemorris20120211

美樹さやか役のSarah Williamsさんだけ、公式サイトが見つからない。こちらのサイトによれば、他には英語版『侵略!イカ娘』の常田鮎美役など。

以上、全く趣味的な、どうでもいい人にとってはどうでもいい情報。

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2012/02/08

低線量放射線無害派は海外から「外圧」をかけよう

福島の現時点の放射線量で健康被害が出るのかどうか、ネット上では有害派と無害派が真っ二つに分かれて、激しい論戦をしているようだ。

先日、僕もヘタに議論に参加してしまった結果、論理的に詰められて、正直、途中で心が折れて退却した。

僕は専門家ではないので、議論するうちには論理的一貫性についてボロも出るし、そういった論理的一貫性の欠如を逐一追求されれば、時間た体力の制約もあり、議論から撤退してしまう。

僕のように無責任な撤退をすることなく、あくまで自説を曲げずに徹底した論戦を挑んでいる人たちは(大いに尊敬に値するが)今も有害派と無害派に分かれ、一部は冷静な議論を、一部は嘲笑まじりの罵り合いをネット上で続けているようだ。

togetterというツイッターのまとめサイトで「原発」に分類されている各種の「まとめ」を読むと、その不毛にしか見えない論争を延々と楽しむことができる。僕の無能さをわざわざtogetterで晒し者にしてくれた奇特な方もいらっしゃるので、いい暇つぶしになるかもしれない。

自分が放射線量の健康被害について無知・無能であることを、ネット上で「無害派」の方々に罵倒され、イヤというほど思い知らされ、かつ、同じく「無害派」の方々にtogetter上で嘲笑された。

その結果、僕としては福島の現在の放射線量が有害か無害かについて判断は停止し、この論争には二度と参加するまいと考えるにいたった。罵倒されてまで議論を続けるほど、僕は精神的にタフではない。

ただ、このような論争が起こっている状況については、ついつい考えさせられてしまう。

特定の放射線量が有害か無害かについては、少なくともネット上では、よほどの専門知識を持っている人にしか議論に参加させてもらえない状況になっている。このことは、歴然たる事実として、今回、自らの体験で確認できた。「外野」にいるネット民の嘲笑や罵声が、参加する敷居をますます高くしていくだろう。

ちなみに「無害派」が論理的厳密さを先鋭化させざる得ないのには理由がある。

「有害派」は危機感をあおるだけで多くの市民の支持を得ることができるので、理論武装する必要がない。また、大きな災害のあとでは、楽観的な人よりも、悲観的な人の方が、どうしてもより倫理的に見えてしまう。

なので「無害派」は、大きまコストをかけずにより多くの支持を得られる「有害派」に対抗するため、科学的・論理的な厳密さを平時よりも余計に追求せざるを得なくなる。

ところが、一般市民は、大きな災害のあとで、ただでさえ個人のこれからの生活や、また大地震が起こるのではないかといった不安を抱え、論理的に厳密に物を考える余裕をなくしているので、「無害派」が論理的厳密さを追求すればするほど、市民がその緻密な議論に付いて来られなくなる。

その上、「無害派」の一部が、専門知識もないのに議論に参加してくる市民を嘲笑し、罵倒するので、そういう一部の人々のせいで、「無害派」全体が非常に非倫理的な集団だと、とんでもない勘違いをされてしまう。

さらに、「有害派」はそうした「無害派」の失点につけこんで、ますます一般市民に共感的で同情的なコミュニケーションを取ることによって、より「無害派」を不利な状況におくことができる。

このように、原発事故後、マスコミが市民の「有害派」選好を甘く見積もって、「無害派」に有利な情報も流していたが、今となっては圧倒的に「有害派」の意見や活動が取り上げられることが多くなっている。

「無害派」はこれを民主党政府の責任だとしているが、民主党は「有害派」からも正反対の理由で叩かれている。

最近のマスコミが圧倒的に「有害派」に同情的で、「無害派」をほとんど無視するに至ったのは、政府の責任でもなく、マスコミの責任でもない。論理的に厳密な議論をする能力がない一般市民に、そのことを分かった上で、論理ではなく情緒で訴える「有害派」の方法が、方法論としてより合理的だったということだ。

大きな災害の直後、多くの市民が不安に陥れられている状況では、合理性より感情に訴える方が、方法としての合理性、「道具的合理性」があった、というだけのことである。

ところが「無害派」はいまだに方法論を見直そうとしない。それは、内容としての合理性を市民に納得させる必要がある関係上、方法としても合理性を取らざるを得ず、市民の情緒に訴える手が使えないという、本質的な限界があるからだ。

合理的であれ、論理的であれ、と説得する方法として、情緒に訴えることは、合理主義者として自己矛盾をきたすので、できない。

しかし、非合理であれ、非論理的であれ、と説得する方法として、情緒に訴えることは、自己矛盾をきたさないので、いくらでもできる。

このように見てくると「無害派」が不利なのは、ある意味当然だ。しかも、それを逆転する方法もない。最初に書いたように、僕のように無能な一般市民に対して、論理的厳密さで追い詰めれば追い詰めるほど、僕のように無能な一般市民は、論理的厳密さの議論からどんどん撤退していく一方だからだ。

撤退した市民は、一人の生活者としての不安を慰撫するために、「有害派」に賛同する方が、数としても有利だし、情緒的にも慰められる。「有害派」には論理性を厳しく求めてくるような「冷たい」人はいない。むしろ不安な心や、「無害派」との論争によって傷ついた気持ちを、優しく受け止めてくれる。言ってみれば、傷の舐め合いができる。

頭のいい人間は少ないし、強い人間も少ない。なので「有害派」が多数派になり、「無害派」が少数派になるのは、地震直後のこの状況では必然だ。

日本という国自体が、将来の希望にあふれた国であれば、全く状況は逆になっただろう。「有害派」のような腰抜けは退けられ、「無害派」のようなグローバルに戦える論理的厳密さや体力的・精神的タフさを持った人たちが多くの支持を集めただろう。

でも、現実の日本は、仮に大震災なかったとしても、少子高齢化が進み、経済的に下り坂で、国際外交の面でも素通りされてしまう状況だ。

「無害派」の人々は、おそらく沈みかけた日本の中で、僕のような無能な一般市民を相手に、不毛な論争をすることに時間をムダにするよりも、海外へ脱出するのがいいと思う。

韓国も、フランスも、ロシアも、原発を輸出産業にするぞというだけの勢いがまだ残っている。いっその事、そういった国に出て行って、低線量放射線に健康被害がないことを共同して国際社会に訴え、それを日本に対する「外圧」になるように働きかける方が、方法論として合理的であり、かつ、はるかに効果があるのではないか。

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2012/02/07

中国の水樹奈々掲示板「どうして奈々さんが好きになったの?」スレを訳してみた

中国の検索エンジン「百度」(ぱいどぅ)の掲示板サービスに、水樹奈々ファンの掲示板がある。

百度の掲示板は日本の2ちゃんねるのように匿名だが、掲示板ごとに自主的に管理人を決めて運営する自治ルールがあり、それぞれの掲示板の参加者には総称がついている。

水樹奈々掲示板の場合は「愛媛村民」(笑)で、村民数は2012/02/06現在6,998名と、悪くない数字だ。

ちなみに、中国で最も有名な日本人であるAV女優の蒼井そらの掲示板の参加者は「恋空」という総称で、69,715人とケタが違う。(中国で最も有名な日本人は決して加藤嘉一ではないので、ご注意を)

で、水樹奈々掲示板に「【集中討論】どうして水樹奈々が好きになったの?」というスレッドがあり、2011年バージョンと2012年バージョンがあったので、日本の水樹奈々ファンのために、まず今回は2011年バージョンの書き込みから、適当に見つくろって日本語訳してみたい。

ちなみに書き込みしているユーザの性別・年齢・住所(中国の省や都市の名前)も参考までに書いてある。中国大陸のユーザの場合、ほぼ実際の性別・年齢・住所を登録していると考えていい。年齢・住所未入力のものはそのままにしている。

また、細かい語感は僕の中国語力ではまだ分からないので、平板な日本語にしてある。感情がこもっていない日本語に読めるが、それは中国の水樹奈々ファンが冷静だからではなく、僕の中国語力の限界としてご容赦いただきたい。

では、スタート!

前世で決まってた運命。(31歳男・上海)

一目見て萌え死んだから。(16歳男・上海)

歌唄を見てから。(14歳女・広西省)
(訳注:『しゅごキャラ!』でのほしな歌唄役のこと)

FORMULAのPG。(男)
(訳注:たぶん彼女のLIVE FORMULAというライブでの『POWER GATE』の歌唱を見て、の意)

理由なんてない。ただ水樹奈々が好き。(15歳女・山東省)

愛に理由なんて必要ない。(27歳男・浙江省)

『NARUTO』の声で萌え死んだ。それからLIVE FORMULAを見て徹底的に萌えた~。(22歳男)

トランシー、それと奈々さん役の歌は全部うまい、うん、歌がうまい、癒される。(女)
(訳注:『黒執事II』のアイロス・トランシー役のこと)

『しゅごキャラ!』を見て奈々さんが好きになった。このアニメで『迷宮バタフライ』を聴いて、声にやられた。歌唄と『NARUTO』の日向ヒナタも奈々さんが声をやってるって知って、この声優すごいと思った。この二人って正確が正反対で重要なキャラなのに、しっかり演じ分けてるから。その後は続々と『魔法少女リリカルなのは』『ロザリオとバンパイア』『WHITE ALBUM』とかのアニメを見て、ますます奈々さんの演技がすごいと思うようになった。奈々さんの歌も聴くよ。奈々さんの歌声は音楽を凌駕してて、私としては奈々さんの歌声だけでも十分楽しめる。奈々さんの曲自体は、良いのも悪いのもあるけど、奈々さんの声さえあれば、どんな曲だっていい曲になる。これからも奈々さんがんばって!(18歳女・海外)


『なのは』を見たから。(31歳男・香港)

最初は歌で、それから天使みたいな顔と幼児体型に萌え死んだ。(男)

いろんな声が出せるところが好き。(15歳女)

曲のスタイルにひかれる。それが理由(男・広東省)

プリキュア~桑島さん関連~それが二大本命。(16歳女・四川省)
(訳注:『ハートキャッチプリキュア』などでの桑島法子との共演のこと)

いろいろ黒タイツの絶対領域とか。(22歳男・広西省)

いろいろ白い太ももとか。(18歳女・河北省)

ヒナタから始まってEB、それからASL2008を見てもう治癒不可能なほど好き。(17歳男・遼寧省)
(訳注:ヒナタはアニメ『NARUTO』での役名。EBはシングル『ETERNAL BLAZE』、ASL2008は『アニメロサマーライブ2008』のこと)

歌詞がいい。(21歳男・上海)

最初は歌唄を見たとき...それで声がかなりいいと思った。(女)

『深愛』この曲がいい。本人も可愛くてきれいだし。(21歳男・陝西省)

外見も萌えるし、歌もうまい。(19歳男・山西省)

歌のうまさは神、アフレコもすごい、女らしくて、性格はかわいい。(20歳女・湖北省)

ネイルが可愛い。とにかく全部好き。ずっと好き。(17歳男・広西省)

奈々かわいい。(23歳男・日本)
(訳注:と書いてある下にイカ娘が瞳を輝かせているアニメーションGIFが貼ってある)

実は、『深愛』で萌え死んだ。(15歳男・福建省)

声よ、声(13歳女・山東省)

奈々さんに萌えるのに理由なんていらない。(19歳女・上海)

『深愛』、説明不要。(19歳男)

声と爆発力、元気いっぱいなところ!(女)

最初は何となく「太平洋」でベストアルバム『THE MUSEUM』をダウンロードして(ここに奈々さんファンになれたことを「太平洋」に感謝いたします)、それを聴いて声がいいと思って、それからプロフィールを調べて、奈々さんがとってもとっても努力してることに感動して、また歌詞を検索して、歌詞もいいと思って、今まで好きになった国内の歌よりもずっとすごくて、もう治療不可能なほど好き。(男)
(訳注:「太平洋」とは違法ダウンロードサイトのこと。弁護するわけではないが、中国大陸の中高生が日本人歌手のCDを、淘宝などのネットショップの中国大陸向け価格であっても購入するのは、たぶんほぼ無理)

最初は『空の境界』のとき、『忘却録音』の黄路美沙夜、この声優の笑い声がいいなと思ってから。(19歳男・貴州省)
(訳注:『劇場版 空の境界 第六章 忘却録音』での役名)

他の人にはない魅力があるから。やっぱり元気いっぱいに歌ってるのと華麗なダンスを見て、それ以来この可愛いお姉さんにどうしようもなく夢中。今は初めのような激情って感じはないけど、やっぱり気になって時々この掲示板に書き込みしてる(男・上海)

歌唄を見てから。(女・上海)

実はもともとそんなに奈々さんのことを好きじゃなかった、うん。その後、何となくLIVE FORMULAの映像を見て...実は見終わった後も好きでもなかった...ところが、2週間くらいして急に萌え死んだ!『POWER GATE』あの曲~それから夢中でいろいろ探して、もう一回LIVE FORMULAを見なおして、すごいと思った...奈々さん大好き~これって運命だよ。(16歳男)

声がすごくいい!!!アフレコってより、やっぱり歌がいい!!奈々さんは初めて好きになった声優だよ!!!!!(20歳女・河南省)

『しゅごキャラ!』の歌唄。(13歳女・河南省)

『しゅごキャラ!』を見て奈々さんの歌を聴いて、それから奈々さんの資料を調べて、ヒナタやフェイトの声優もやってるって知った瞬間、好きになった。(16歳女・上海)

僕もみんなとだいたい同じ。『しゅごキャラ!』の『Heartful Song』を聴いて、それから『NARUTO』も見なきゃと思って、見た瞬間にヒナタが好きになった。それから『NARUTO』が回想シーンばっかりになって、見なくなった。自分で『週刊アニメ』を買ってるんだけど、ある号で『魔法少女リリカルなのは』劇場版の紹介があって、今度は『魔法少女リリカルなのは』を観るようになった。フェイトが最初に登場したとき、どうして歌とこんなに似てるんだろうと思って、それで奈々さんが好きになった。(19歳男・遼寧省)

僕は『魔法少女リリカルなのは』を一目見て、フェイトの声と、やさしい正確に萌え死んだ。その後、奈々さんの資料をいろいろ探して、自分の好きなキャラを、全部奈々さんがやってることを発見して、それから曲も集めて、『深愛』で萌え死んで、めちゃくちゃ好きになった。(13歳男・福建省)

人格の魅力。(15歳女・上海)

主な理由は声かな。。。ああいう声が好き。(18歳女・広東省)

萌える声だから。(男・広東省)

絶対に歌、でも今は歌じゃなくて、奈々さん自身が好き。(15歳女・湖南省)

アロイス・トランシーがきっかけ。(15歳女・湖北省)

奈々さんが美人で、奈々さんの声も萌えるし、めぐり合わせがあったから。(15歳女・福建省)

歌声、爆発力がすごい。(18歳女・湖南省)

歌唄を見たから。(13歳女・山東省)

萌香。(15歳女・上海)
(訳注:『ロザリオとバンパイア』での役名)

白河ほたる。(16歳男・広西省)
(訳注:OVA『Memories Off』での水樹奈々の役名)

萌香で完全に持っていかれた。『ロザリオ』中毒になって、奈々さんファンになった…(男)

最初は『ロザリオとバンパイア』、ロリ声にも男の子の声にも引かれて、歌のうまさにも引かれて、それから、わかるよね……(18歳男・上海)

彼女を好きになるって、運命で決まってたんだよ。(15歳女・江西省)

アフレコ、歌のうまさ、実力。(18歳女・広東省)

歌唄、歌唄、歌唄…(15歳女・湖南省)

何となくネットで『深愛』を見てから、奈々さんを好きになった!時間がこんなに速く経つとは!ふりかえれば奈々さんファンになってもう4年だ!奈々さん!ずっと応援するよ!(18歳男・北京)

歌唄を見てから。(女・河北省)

前から奈々さんの存在は知ってて、奈々さんをすごいと思ってた。その後『しゅごキャラ!』を見てから注目するようになって、それまでに見たアニメにたくさん奈々さんが出演してたことに気づいた。『ロザリオとバンパイア』、『魔法少女リリカルなのは』、それから『黒の契約者』にも奈々さんが参加してて、だんだん好きになってきた。携帯のMP3プレーヤーでずっと奈々さんの歌を聴いてて、その後、奈々さんのブログを読んで、改めてプロフィールも見て、奈々さんが本当に偉大で、努力家だってわかった。それからますます好きになった。奈々さんに夢中になり始めたころ、同級生の子が厚紙に奈々さんの写真を印刷してカードを作ってくれて、それをもらった私は感激で涙が出た。それからまたいろんな雑誌で奈々さんを見つけて、ますます感激した。奈々さんの努力がすごく好き。声も好き。最初は奈々さんの演じたキャラから入って、歌が好きになって、今は人がらそのものが好き。奈々さんは私にとって努力目標。奈々さんが好き、好き好き。(15歳女・上海)

奈々さん大好き、声優としてほんとにすごいし、素直で、誠実。奈々さんの歌を聴いてると楽しいし、毎回いろんな役に挑戦してるのもすごい。(13歳女・安徽省)

歌唄、歌唄、歌唄!!(13歳女・甘粛省)

『Memories Off 2nd』、オレの中学時代の恋と夢、それ以外に理由が必要?(男)
(訳注:「恋と夢」はゲーム版『ロザリオとバンパイア CAPU2 恋と夢の狂想曲』のことかもしれない)

奈々さんの曲は全部僕の好きなタイプ、曲調が感動的だし、奈々さんの歌い方も集中して全力で歌ってる感じで、感動せずにはいられない。(17歳男・貴州省)

最近ハマった。奈々さんの歌のスタイル、歌のうまさ、可愛い笑顔、全部好き。ステージで歌ってるのが楽しくて夢中な感じで、あの手の振り方とか、完全に好きになっちゃった!!本物の歌手だよ~(19歳女・北京)

緒方理奈+深愛+トランシー。(12歳女・湖北省)

黒タイツとか..脚とか..美人だし..姿もいいし..声もいいし..(15歳男・上海)

前に『しゅごキャラ!』に萌えて、ほしな歌唄の歌が水樹奈々さんがアフレコをしてると知って、それでガンガン奈々さんの歌を聴きはじめて、それですっかり夢中。(26歳男)

最初は『深愛』を聴いて奈々さんの歌を好きになって、それから紅白初登場のとき、お母さんに電話をかけてるのを見て、また好きになった。(17歳女・広西省)

『しゅごキャラ!』で奈々さんの歌声を聴いて奈々さんを好きになった。その後『なのは』とか『ロザリオとバンパイア』を見たり、いろんな歌を聴いたりして、もっと好きになった。(14歳女・広東省)

最初は『NARUTO』のヒナタの声に注目して、そのときすごく萌えて、よくよくキャストを見てみたら、声優が奈々ちゃんだった~その時はまだ歌を歌ってるって知らなくて、アフレコだけに注目してた。『魔法少女リリカルなのは』を見てからは、死ぬほどフェイトのファンになって、オープニング曲で初めて奈々さんが歌を歌ってると知って、それからずっと応援してる...(21歳男・吉林省)

ヒナタ大好き。。。。(15歳男・江蘇省)

歌唄を見たから。(20歳女・重慶)

『innocent starter』を聴いて感動したから...それから一度も『魔法少女リリカルなのは』は見てないけど。(23歳男・広東省)

歌唄。(14歳女・上海)

一曲聴いてもう地獄に落ちた。それから天国より地獄のほうが自分に向いてるって思った。(20歳男・山東省)

フェイトちゃんを見てから。(14歳女・上海)

声、顔、全部。(11歳女・北京)

『魔法少女リリカルなのは』~第3期のオープニングとか全部彼女が歌ってて、聴けば聴くほどいいよね~(19歳女・浙江省)

『迷宮バタフライ』を聴いてから。それから『深愛』も。(13歳女・上海)

最初に奈々さんに注目したのはMemories Off 2、白河の声に萌え死んで、それから奈々さんのライブを見てすごく元気なので、白河の声とぜんぜん別人だなぁと、すごく印象に残った。少しずつ知らないうちにいろんなアニメで、ぜんぜん違う性格のキャラの声優をしているのを知って、有名なキャラは少ないけど、奈々さんが好き。歌うのが好きで、いろんなキャラを演じてて、とても努力家で、将来、奈々さんが自分の夢を実現できればいいなぁって思ってたら、あの紅白の舞台に上がったとき、心を込めて『深愛』を歌っているのを聴いて、すごく感動したよ。ついに自分の夢を叶えたんだなって!(25歳女・北京)

人間としていい!性格が最重要!……でも外見も歌声も重要だよね……(17歳女・上海)

ほたるで萌えた。(21歳男)

引かれているのは、彼女の声だけじゃない。みんな言うように、一種の病気。でも永遠に治りたくない病気。(20歳女・海外)

ユーファで奈々さんに注目してから。『魔法少女リリカルなのは』の歌とフェイト役でもっと好きになった。(22歳男・広東省)
(訳注:ユーファはアニメ版『ラグナロク』のキャラクターソング『With~ちいさなチカラ~』のこと)

奈々ちゃんの『SECRET AMBITION』を聴いて好きになった。『SECRET AMBITION』のPVの中で黒い服を着てる奈々ちゃんと見て、完全にやられた。(21歳男・江蘇省)

『ロザリオとバンパイア』の萌香で奈々さんを好きになった、あの『Dancing in the velvet moon』はほんといい!!!!(18歳男・北京)

軍服を着てる水樹さんはかっこいい。(17歳男・上海)

『ロザリオとバンパイア』のOP『DISCOTEQUE』。当時はあのオープニングで踊ってる女子キャラに感動したよ。。(21歳男・山東省)

最初は歌唄ちゃんから、歌がすごくうまいと思ったから。それから偶然、歌唄ちゃんとヒナタちゃんの声優が同一人物だと知って、それで水樹奈々という名の魔法にかかって抜けられなくなったよ~。奈々さん大好き。声がいいし、歌もいいし、人がらはもっと好き!(12歳女・広西省)

10年来やってる『メタルギアソリッド』の『PEACE WALKER』をやったとき、奈々姫の歌声を聴いて、完全に萌え死んだ。それで奈々さんファンになった。(14歳男・甘粛省)

きっかけはあの『HEAVEN KNOWS』って曲だよ!その頃の『動漫時代』増刊号に入ってた曲!(27歳男)
(訳注:『動漫時代』は中国のアニメ雑誌)

『しゅごキャラ!』を見始めてから、ネットで『しゅごキャラ』の情報を調べてたら、奈々さんの名前を見つけて、奈々さんの情報をいろいろ検索して、また『ロザリオとバンパイア』を見て、それから『魔法少女リリカルなのは』も見て、そうやってるうちに奈々さんのことが好きになった。。。(15歳女・四川省)

『なのは』の『innocent starter』を最初に聴いたとき、突然好きになった。それから必死で彼女の曲を探して、どんどん好きになって、どんどん夢中になって、ついに抜け出せなくなった....(21歳男・広東省)

話せば長くなるけど。。。。最初はQQ音楽で『PHANTOM MINDS』を見たこと。それからあれもやっぱり奈々さんだったんだぞと、突然『しゅごキャラ!』を思い出して、聴いてみたら、やっぱりいい歌で。。。それからずっと探し続けて。。。(13歳女・広東省)

奈々さんは実力派だと思う。奈々さん愛してる。私の前髪のカットは奈々さんをお手本にしてるんだよ。(16歳女・重慶)

以上、中国の検索エンジン「百度」の水樹奈々掲示板から、「【集中討論】どうして水樹奈々が好きになったの?」スレッド2011年バージョンの抜粋日本語訳。

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2012/02/03

池田信夫の「古臭さ」はその社会観にある

先日来、池田信夫東大病院の中川恵一医師など、福島第一原発事故による被ばくは、同原発の周辺数百メートルを除いて、健康に影響ないと言っている人たちの意見を批判的に検討している。

これら、ICRP勧告などの国際基準に基づいて放射線の健康被害を考えている人たちと、低線量の放射線であっても何らかの健康被害があるのではないかと恐れている一般市民の間には、根本的な考え方の違いがあることを、改めて強調しておきたい。

それは、池田信夫のような人たちが、リスクをコストとのトレードオフで考えることができる、経済合理主義者であるのに対して、一般市民はリスクを極小化することだけを考える、別の種類の合理主義者だからだ。

なぜ一般市民は福島事故起因の被ばくによる健康被害リスクを、それを避けるためのコストとのトレードオフで考えることができないのか。それは、健康被害リスクについても、それを避けるためのコストについても、概算するだけの情報や知識を持っていないからだ。

一方、池田信夫がリスクをコストとのトレードオフで考えることができるのは、次の2点による。

(A)福島事故起因の被ばくによる健康被害リスクは、ICRP勧告その他、広島・長崎の原爆、スリーマイル島自己、チェルノブイリ事故などによる被ばく者の疫学研究によって概算できると考えていること。

(B)そのリスクを避けるための様々なコストも概算できると考えていること、この2つの情報と知識を持ち合わせていること。

まず(A)にあたる既存の科学者たちの被曝による健康被害に関する疫学研究を、そのまま受け入れるか受け入れないかは、合理性の問題ではなく、信念の問題である。

池田信夫などの人たちは、被ばくによる健康被害のリスクの可算性を、合理性のある根拠だとあくまで主張しているが、リスクの可算性という理論そのものは合理的だとしても、それを信じるか信じないかは、合理的判断ではなく、信念の問題である。

なぜなら、科学の本質は、新しい仮説が検証されることで、古い仮説が退けられるという、反駁可能性にある。以前にも書いたが科学が何ごとかを「100%確実だ」「100%正しい」と主張した瞬間、科学は科学でなくなり、宗教になってしまう。

したがって、一般市民はいつでも、現時点の科学の成果が将来反駁されるかもしれないと、疑う合理性を持っている。科学的合理性の帰結は、いつでも疑うことができることによって、初めて科学的合理性と言えるのだ。

不思議なのは、池田信夫が、まるで現時点の被ばくによる健康被害の国際基準について、ECRRのクリス・バズビーなどの固有名詞を除外した上だが、まるで現時点で100%正しいかのように語り続けていることだ。

その副作用として、池田信夫や中川恵一医師は、自説の無謬性を主張すればするほど、かえって情報や知識を持たない一般市民から疑われてしまうというリスク・コミュニケーションの落とし穴にも、自らすすんで落ちている。

次に、(B)のコストの概算の方だが、一般市民にとって、交通事故や飛行機事故、生活習慣病によるガン発症リスクを避けるためのコストは、コストではない。コストは定義上に、コントロール可能でなければならないからだ。

日本人が交通事故や飛行機事故、生活習慣病によるガンを完全に避けるためには、自殺して今の生活そのものをやめるしかない。

コストというのは、定義からして増減を自分の意思でコントロールできる負担のことであって、自分の意思でコントロールできない負担をコストとは呼ばない。それはコストというより、むしろ所与の環境だ。

したがって、原発事故起因の被ばくによる健康被害を避けるためのコストを、交通事故や生活習慣病によるガンを避けるためのコストと比較することに、そもそも無理があるのだ。

たしかに池田信夫のような、かなり素朴な自由主義者にとっては、一般市民が自分の意思でコントロールできないコストについても、コントロール可能なのかもしれない。少なくとも「コントロールすべきだ!」という主張を展開できるのかもしれない。

しかし、「ガンを避けるためにはタバコをやめるべきだ」という医師の箴言も、「タバコなしではイライラして仕事にならない」という一般市民の現実生活の前には、無力である。

自由主義者としての池田信夫は、タバコをやめられない一般市民を、フリーライダーであるとか、単に怠慢であるとか、タバコの健康被害について無知であるとか、要するに「自己責任」の一言で、いくらでも非難することはできる。

だからといって、その特定の市民にとって、喫煙をやめるコストが、例えば福島から鹿児島に移住するコストよりも高いという現実を変えることは、池田信夫にはできない。

人間は定義上、自己決定権があるけれども、環境すべてを自由に変えられるわけではない。

自分で変えられる部分については、リスクとコストのトレードオフに基づいて行動できるが、自分で変えられないと「判断した」部分については、リスクを避けるために、第三者から見れば不合理なコストを払う。

つまり(B)における池田信夫の議論の最大の欠陥は、全ての個人に普遍的にあてはまるコスト計算があると仮定している点である。

もし池田信夫の仮定が正しければ、福島原発程度の放射線レベルで、福島県民が続々と県外へ避難したり移住したりするのは、明らかに非合理的で、そんなことが起こっている現実のほうがおかしいということになる。

池田信夫がもしかすると意図的に目をつぶっているのは、個々人がそれぞれ異なるリスク計算に基づいて、自分自身の考える「合理性」に基づいて行動しているという「現実」である。

個人的な「合理性」の前には、(A)で述べたように池田信夫の「個人的信念」に過ぎない「科学的合理性」は相対化され、池田信夫の「個人的信念」から見れば不当に制限され、歪められている、誤った「合理性」に基づいて一般市民は判断し、自分の行動を決定している。

そういう当たり前の現実を池田信夫は、意図的に無視している。

以上のように、池田信夫のような合理主義者は、一般市民を説得するのにあまりに無力である。それはポピュリスト橋下徹を見れば分かる。

おさらいしておくと、まず(A)について、科学の反駁可能性という本質からして、現時点の科学の成果を信じるか信じないかは、一般市民にとっては合理性の問題ではなく、信念の問題である。

次に(B)について、コストの可算性は、個々の市民が完全な自己決定権を持っていることが前提だが、池田信夫自身も含め、一般市民に完全な自己決定権など現実には存在しないので、個々の市民はアドホックで限定的で主観的な「合理性」に基づいて行動するしかない。

池田信夫のような合理主義者から見れば、被ばくによる健康被害を不合理に強調している人々、たとえば肥田舜太郎のような人は、一般市民のアドホックで限定的で主観的な「合理性」を。あとづけで説明する役割を果たしているだけだ。

決して池田信夫の主張するように、肥田舜太郎が「原因」となって、一般市民が福島事故の被ばくによる健康被害を過剰に恐れるように「なった」わけではない。

危険を強調するエセ科学者を「原因」とし、その「結果」として、無垢の一般市民が誤った判断をさせられているかのように、現状の日本社会を描写するのは、あまりに素朴な啓蒙主義的発想であり、アナクロな合理主義的発想である。

池田信夫のような人々は、そういった素朴な啓蒙主義・合理主義の域を、まったく出ていない。

僕はそれが悪いと言いたいのではなく、一般市民をアナクロな合理主義や啓蒙主義で説得しようという無駄な努力はやめたらどうか、と言いたいだけだ。

「科学」や「合理性」といった考え方や手続きの全ては、「オカルト」や「宗教」といったものと並列であり、社会が自分自身を説明するときの無数の方法のうちの一つにすぎない。

残念ながら、それらのうち「科学」こそが絶対に正しいと主張することは、社会の内部に存在する社会の成員には不可能であり、それらのうち「科学」が優位になるか「オカルト」が優位になるかは、社会の成員の「自由意思」によって決定されるものでもない。

なぜなら、「自由意思」なるものも、「科学」や「オカルト」と並列の、社会による社会自身の説明手段の一つに過ぎないからだ。

池田信夫が古臭く見えるとすれば、このような現代的な社会観を持ち合わせていないように見えるからである。

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2012/02/02

橋下氏の躍進は大阪府民の劣化のせい?

橋下大阪市長と香山リカなどの間で、インターネット上や先日のテレビ朝日『朝まで生テレビ』などで対立が激化(?)しているらしい。

一つ言えるのは、橋下氏は大阪市長であって、法の範囲内でどれだけ好きな事をやろうが、大阪市民以外は直接の影響を受けないということ。

なので、大阪市民以外の人々がなぜこれだけ騒ぐのか、まったく意味不明だ(このブログ記事もそうじゃないかと言われればその通りである)。これだけの騒ぎになるのは、大阪維新の会代表としての橋下氏にとっては、願ったりかなったりということだ。

橋下氏は、単に有権者の劣化に乗じて、あえてポピュリズム的手法を取っているにすぎない。

日本の有権者の政治的関心や情報収集能力、判断能力などの低下を知った上で、あえてポピュリズムの手法をとり、大阪市民と、それにつられて都合よく騒ぎ出してくれる他の地域の有権者を自分の主張になびかせようとしている。

有権者の圧倒的多数は、例えば橋下氏がレギュラー出演していた『行列のできる法律相談所』のようなテレビ番組を、ナイーブに楽しんでしまうレベルの情報リテラシーしかない。

橋下氏にしてみれば、このように「衆愚」の状態がまさに現実になっている状況で、しかも小泉純一郎の成功例もある中で、ポピュリズム的手法を取らない方がバカだと言いたいに違いない。

もちろん全国の有権者の何割かは、適切な情報処理能力と判断力があり、橋下氏の手法が単なるポピュリズム的扇動だと割り引くことができるだろう。

しかしそうした人たちはあくまで少数派で、日本の有権者の大多数は依然として情報源をテレビだけに依存する情報弱者だ。

皮肉なことだが、仮に橋下氏のいう教育改革が正しいとして、それが効果を示し、大阪市民の教育レベルが上がれば、橋下氏のような政治家は二度と首長になれないだろう。

関西を基盤にしている電機メーカー(パナソニック、シャープ、三菱電機も家電分野は関西が拠点)が韓国勢に圧倒されていることと、大阪の教育レベル低下やそれに伴う経済の地盤沈下は無関係ではないだろう。

この件について、これ以上書くべきことは特にない。

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2012/02/01

いまだに自分たちが「主流」だと思い込んでいる情報弱者

昨年、宮台真司や東浩紀などがしきりと『魔法少女まどか☆マギカ』というアニメ作品を絶賛するので、同作品を観てしまって以来、私生活がアニメモードになってしまっている。

この年齢になってベタにアニメに没入することはできないので、しばらくの間はアニメモードになった自分を楽しむ、という程度のハマり具合に過ぎない。

以前にも書いたけれど、小学生のときは池沢さとし作『サーキットの狼』単行本のヘビーな読者だったり、松本零士のアニメ作品にどっぷりハマっていたり、当時としては一般的なレベルの漫画、アニメファンだった。

中学生になってからは、周囲が初代『ガンダム』にリアルタイムで熱中するのをよそに、漫画、アニメと完全に無縁になった。

ゲームも当時親に買ってもらった8ビットパソコン用の『Road Runner』や『ゼビウス』『DOOR DOOR』など、ごく単純なゲームしかやらず、『ブラックオニキス』などのRPG系ゲームに夢中になることはなかった。そして、そのうちゲームそのものをやらなくなった。ファミリーコンピュータ、その他の家庭用ゲーム機も全く購入したことがない。

その結果として、今のオタク文化を構成する3大要素(アニメ、漫画、ゲーム)と全く無縁な生活になった。

なので、もともと僕はオタクでも何でもなく、一般的なレベルのアニメファンといった程度だし、今でもオタクを自称できるほどアニメ、漫画、ゲームについての知識や素養は豊富ではない。

中学生当時に交際していた彼女は、『キャプテン翼』や『聖闘士星矢』の同人誌に「やおい小説」(今ならBL小説)を書き、萩尾望都作品や鈴木慶一のバンド「ムーンライダーズ」に夢中だったが、当時の僕には正直ピンとこなかった。

僕がオタクになり切れない(ならなくてもいいのだが)最大の原因は、ゲームをまったくやらないことだと思う。

アニメ単体なら、社会人になってから『新世紀エヴァンゲリオン』を観て、久しぶりに動画の快楽を思い出した。

学生時代に蓮實重彦の映画ゼミなどに出ていたせいで、アニメに限らず、映像作品は単純にストーリーを楽しむことができず、フレーミングやカット割りなど、批評的な観点でしか観られなくなっている。

『新世紀エヴァンゲリオン』以降も、没入できるのは批評的なアニメ作品だけで、ベタなアニメには意識的にハマったようなフリをしてハマることしかできない。

漫画について、ためしに先日、少年漫画週刊誌を買ってみたが、何が面白いのかさっぱり分からなかった。とくに『スラムダンク』や『ONE PIECE』のような少年漫画の、熱い友情的なストーリーは、あまりに素朴すぎて全く感情移入できない。

はっきり言って物語の単純さという点で、これらの「熱い」少年漫画は、ヤンデレ美少女が登場する恋愛シミュレーション物語より、偏差値の低い人たち向けだとさえ思っている。

ゲームについても、やるやらないは個人の自由だが、僕としてはゲームをやっている時間があれば、映像作品の批評的な鑑賞法でも勉強したらどうかと思う。

オタク文化の3大要素のうち、漫画とゲームに全く無知で、アニメにだけ時期限定ながらも没入できるのは、そもそも僕の感性が総合芸術としての映像作品にしか反応しなくなっているからかもしれない。

とにかく、3大要素のうちアニメにしか没入できな僕は、どこまで行ってもオタクにはなり切れない。

ただ、これら3大要素のすべてに通じているオタクの人たちも、非自覚的に没入している人はごく少数だろう。ほとんどのオタクは自覚的に、かつ、自虐的にオタクであるはずだ。

ちょっと難しい言葉でいうと、再帰的にオタクであるはずだ。つまり、自分がオタクであることを、一歩引いた視点で見ているもう一人の自分がいる状態でのオタクであるはずだ。

そうした再帰的なオタクに比べると、メインカルチャーである全国ネットのバラエティー番組や音楽番組などが主流だと、非自覚的に、ベタに思い込んでいる一般人の方が、よほど情報弱者だと言える。

現実には、島田紳助がプロデュースしていたようなバラエティー番組は、いまやメインカルチャーでも何でもなく、偏差値が低い一般大衆向けのサブカルチャーでしかない。渋谷109ファッションや原宿ファッションが、それぞれ別個のサブカルチャーであるように。

このことはオリコンのシングル・アルバムチャートを見てもわかる。

これを書いている時点で最新のオリコンシングル週間チャートを見ると、AKB48系、ジャニーズ系、その他アイドル系、エイベックス系、韓流系、オルタナロック系、ビジュアルバンド系、アニメ系、昭和青春系(竹内まりやや小田和正とかね)、演歌系などなど、サブジャンルがあまりに細分化されすぎていて、日本を代表するメインカルチャーなどというものが、すでに幻想というか、いまだに全国ネットのバラエティー番組を楽しんでいるような種類の人たちの、単なる思い込みに過ぎないことがわかる。

これだけサブカルチャーが細分化されている日本社会では、メジャーであること、つまり、全国ネットの民放で高視聴率を獲得する番組を楽しむこと、イコール、一般市民として適切な「趣味」であると思い込むこと自体が、情報弱者である何よりの証拠になってしまう。

今の日本社会では、もはや誰もが特定のサブカルチャーの島宇宙の住民であることしかできない。無数にある島宇宙のうち、どれが多数派であるか、どれがより優れているか(一体どういう意味で?)、などという議論は無意味だ。

むしろ、できるだけ多くの島宇宙を、身軽にわたり歩けるだけの情報処理能力を獲得することが、今の日本社会で最も適切な文化面の行動スタイルと言えるのではないか。

なんだか趣旨のよく分からない記事で申し訳ない。

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