生活

2013/05/15

東浩紀氏の橋下市長発言に関する一連のツイートの問題点

たまにはテツガク関係ネタを。お題は下記のURLのtogetter。

『橋下市長の「慰安婦は必要だった」について東浩紀氏「問題発言なのか?」』 (2013/05/14 togetter)

僕は東浩紀氏の橋下市長発言についての見解は、一つの意見として特におかしいと思わない。ただ、東浩紀氏の思想家としての倫理と、そのツイートの内容が両立しないのではないか、という問題提起を、以下、させて頂く。

東浩紀が「戦争は慰安婦等の事象を伴うので、人間が戦争を反復してきたのは事実としても戦争反対」という理想主義の主張と、「男性は性欲を伴い、男性集団の一定割合に性欲管理が必要なのは事実なので、その事実は受け入れよ」という現実主義の主張を同時に行っているのは明らかな矛盾。

事実Aについては理想主義的な主張をし、事実Bについては現状追認的な主張をするという、自身の価値論的選択について、東浩紀は「恣意的に選択してます!」と認めた上で議論すべきで、自身の恣意性を宣言せずに議論を始めるから、頭の悪い一般人のあらゆる種類の誤解を招いているだけ。

世の中には男性の性欲という事実さえ、理想主義的な観点から否定する人間は一定割合存在するわけだが、東浩紀は思想家を名乗りながら、自分と正反対の理想主義的禁欲主義が現に存在する事実の意味を、一連のツイートで完全に無視して相手にしない。これは思想家としての倫理にもとる。

例えばキリスト教保守派の主張は、自分の現実主義的意見からすると全くナンセンスなので無視します、という態度は、思想家を名乗らない一般人なら倫理的に許されるが、ポレミックな状況を前にして、自分と異なる主張が現に存在する意味さえ論じないのは、思想家の倫理にもとる。

もし東浩紀が、ポレミックな状況を前にして自分と正反対の主張(例:男性の性欲の実在さえ否定する理想主義)を、話にならんの一言で切り捨てるような思想家なら、アカデミズムの象牙の塔に閉じこもっていればいい。バカばっかりの現実の世界にご足労頂く必要はない。

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2012/10/09

iPS細胞の発明は無条件に善いことではない

英国のJohn Gurdon博士と、京都大学の山中伸弥教授が、ノーベル医学生理学賞を受賞したiPS細胞だが、ひんしゅくを買うことを覚悟の上で言わせてもらえば、本当に人類の幸福につながるのだろうか。


再生医療の恩恵をうけられるのは人類のごく一部

いったん機能分化した細胞を発生初期の状態へもどせるという研究成果は、当然、再生医療による難病の治療への応用が期待されているのだと思う。

ただ高額な治療費を負担してでも、再生医療の恩恵をうけることができるのは、世界規模で見れば、先進諸国の中間層以上に限定されるだろう。

先進諸国は言うまでもなく、すでに少子高齢化が進行しており、社会全体に占める生産人口の割合は年々減少している。

もちろん再生医療は、現時点で若くてまだ未来があるはずなのに、難病に苦しんでいる人たちにとっては朗報だろうし、そうした人たちが新たな治療法の選択肢を手に入れること自体は「倫理的」と言える。

しかし、そうして難病を克服するということは、先進諸国の平均余命がさらに伸びるということになる。

iPS細胞は不妊治療への応用も期待されており、先進諸国の出生率を上げることにも寄与するのだから、少子高齢化問題も改善されるのでは、という意見があるかもしれない。


先進諸国の少子高齢化の主因は不妊症ではない

しかし先進諸国の少子高齢化は、不妊症が主因ではない。不妊症ではない人々も子供をより少なくしか産まなくなっていることが主因である。

子供をより少なく生むようになった、さらにその原因は、育児にかかる金銭的・物理的なコストのほとんどが個人の負担になっており、子供を持たない方が良い生活を送れる社会的条件(法制度や風習、文化など)になっているからだ。

その社会的条件が改善されない限り、不妊症の人たちは子供を持てるようになるかもしれないが、先進諸国の社会全体としては、iPS細胞など医療の進歩によって、それを圧倒的に上回るスピードで長寿命化、つまり、高齢化することになる。

医療技術の進歩によって先進諸国の高齢化が進行し、生産人口の割合が低下すれば、必然的に社会全体の平均としては、より貧しくなる。

社内の再分配が適切に機能すれば、誰もが貧しくなる。再分配が適切に機能しなければ、一部の人々は豊かになるとともに寿命を伸ばし、残りの人々は貧しいままで、今までどおりの寿命で死んでいく。

再分配の機能がもっと悪ければ、残りの貧しい人々のうち、より多くの人々が劣悪な労働条件や食生活のために健康を害したり、将来生活が改善する希望を持てずに自ら死を選んだりして、寿命をより短くするだろう。

これら、先進諸国が現在かかえている高齢化社会の問題は、iPS細胞などによる医療技術の進歩によっては改善されないどころか、逆に、経済格差をより大きくし、極端に長生きする人々と、極端に短命の人々を生み出すかもしれない。


長生きすることは無条件に善か?

さらに言えば、現時点の先進諸国と発展途上国の経済格差を考えれば、iPS細胞の活用などによる医療技術の進歩は、両者の経済格差を確実により大きくする。

今でさえアフリカ大陸の多くの極貧の地域では、さまざまな感染症で大量死が起こっている。これは先進諸国で当たり前の医療さえ受けられないためだ。

しかしこのような地域に先進諸国レベルの医療が行きわたったとすれば、今度は世界は深刻な食糧問題をかかえることになる。

先進諸国はこのような事態を歓迎しないだろう。iPS細胞の活用をふくむ先進医療は、他のあらゆる治療法と同じく、もっぱら先進諸国のみで広まり、先進諸国のみの平均寿命を伸ばすことになる。

iPS細胞の応用による「寿命が伸びる」という帰結は、経済格差を温存する形でしか世界を変えられない。「寿命が伸びる」「より長く生きることができるようになる」可能性は、果たして無条件に善と言えるのだろうか。

僕は個人的には、むしろ苦痛を味わうことなく寿命をまっとうできる医療技術の方が、少なくとも先進諸国にとっては価値があると考える。

人類は生命というものについて、ただ「長生きすればいい」という考え方ではなく、生命が有限であることを受け入れた上で、いかに人生を意味のあるものにするか、そういう方向へ問題意識を向け変え始める必要があるのではないか。

iPS細胞の発明と、年間3万人の自殺という事実が併存する社会が、いかに「いびつ」であるかを、もっと真剣に考えるべきである。

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2012/09/01

痴呆症になってもなお合理的な人間の悲しさ

ある人から聞いた話だ。

その人の知人であるところの初老の男性が、昔からの男友達の家をたずねたらしい。

その男友達も同年輩で、いまは田舎に隠遁して農業生活を送っているという。昔から田舎暮らしがしたかったかららしいが、実は離婚を経験している。

結婚していた女性は、彼とは逆に都会での生活を好んでいたが、離婚の主因はそのことではない。彼が異常なほど妻の行動を束縛したためだ。

結婚前、その女性は快活で活動的だったが、この男性と結婚した後、ことあるごとに外出や旅行などを禁じられ、あるいは非難され、性格も内向的に変わってしまい、ある時、耐えかねて離婚に至ったらしい。

そして男性は本来の望みどおり田舎暮らしを始め、女性は都会で生活するようになった。

ただ男性は隠遁生活のせいなのか、離婚する前からその兆候があったのか、痴呆症の傾向があるという。

男性の友人がたずねて行ったとき、不注意から男性の田舎家の玄関に紙くずを落としてしまった。その紙くずを見つけた男性は、「こうして誰かが嫌がらせをするのだ」と気色ばんだらしい。

ただ不注意で玄関に落ちていた紙くずを、誰かが嫌がらせのためにわざとそこへ捨てたのだ、というのは、痴呆症ゆえの被害妄想ではないか。これは、この話をしてくれた人の推測だ。

つまり、彼の失敗した結婚生活からして、もともとその男性は心の狭い人物だったかもしれない。妻の行動に細かく口をはさみ、ついには離婚にまで至った。

妻に対する疑心暗鬼と、単なる不注意で玄関に落ちていた紙くずにまで、誰かの悪意を読みとる「被害妄想」は、たしかに通じるものがある。

しかし、僕はこの話を聞いたとき、この男性がなぜ、たずねてきた知人を真っ先に、嫌がらせの犯人だと疑わなかったのか、不思議に思った。

痴呆症であっても、人間の思考は悲しいことに合理的だ。

玄関に落ちていた紙くず一つにまで、なぜそこに紙くずが落ちているのかについて、無意識のうちに合理的な説明をつけようとする。

仮にこの男性が、本当に人間不信に陥っていたのだとすれば、田舎家をおとずれてきた、目の前にいる友人を真っ先に「犯人」と疑うのがむしろ自然だろう。

何しろ彼は、結婚した妻という、もっとも身近な人間の行動さえ束縛するような性格だったのだから、それよりは疎遠な男友達をまず「犯人」と疑って当然だ。

ところが彼は自分の家をたずねてきた友人を疑わなかった。まるで友人を疑うなんて、当然できっこないというかのように、「誰かの嫌がらせ」という説明をつけた。

このことから、彼は軽度の痴呆症ではあるが、親しい人間が自分に迷惑のかかるようなことをするはずがないという、とても合理的な判断をしたことが分かる。

つまり、彼は人間一般に対する人間不信に陥っているわけではないのだ。軽度の痴呆にあっても、友人を疑うべきではないという、倫理的かつ合理的な判断ができているのだから。

とすると、彼の離婚の原因についても、はたして彼が悪意から妻の行動を細かく束縛していたのか、疑わしくなってくる。

たぶん彼は活発な性格だった妻が、自分のような、どちらかと言えば人間嫌いで、田舎暮らしにあこがれるような人間のもとから、いつかは離れてしまうのではないかと、恐れていたのではないか。

彼はひとり取り残されることを、もっとも恐れていたのではないか。逆に言えば、彼は彼女をどうしても手放したくなかったのではないか。

皮肉なことに彼の恐れは、その恐れを解消するという目的にかなった、きわめて合理的な彼の行動を通じて、現実のものになってしまった。つまり彼女は彼のもとから離れてしまった。

それは彼女が悪かったのではない。自分のやり方が悪かったのだ、ということを、彼は理解していた。だからこそ離婚を受け入れた。

彼は人間関係を失いたくがないために、かえってその人間関係を失うことになってしまう。そういう経験をたびたび繰り返していた可能性がある。そして、それがすべて自分の責任であることも理解していたかもしれない。

もし彼が、何か自分に不都合なことがあれば、真っ先に他人の責任にする考えの人間なら、玄関に紙くずを捨てたのは、目の前にいる友人だと責めるのが自然だ。

それをわざわざ「誰か」の嫌がらせという「妄想」に仕立て上げたのは、自分の知っている「誰にも」責任を押し付けたくないという、彼の無意識の望みの現れでなくて、いったい何だろうか。

彼は軽度の痴呆症にあっても、友人の「無罪」を当然のこととして信じている。嫌がらせをしたのは友人ではなく、「誰か」なのだ。痴呆症の彼にとっての「誰か」は、論理的には、誰でもない。誰も悪くない。悪いのは自分なのである。

冒頭のエピソードを何気なく聞いただけでは、「誰かの嫌がらせ」というのは、軽度の痴呆症ゆえの被害妄想であり、痴呆症って怖くて悲しい病気だ、という感想になる。

しかし、彼の離婚のエピソードと合わせて考えてみれば、そこには痴呆症になってさえ彼の中に残っている、ある種の合理的一貫性というか、信念のようなものが見いだせる。

身近な人が自分に悪いことをするはずがない。何か悪いことが起これば、それはまったく知らない誰かのせい、つまり、誰のせいでもなく、自分自身のせいだ。

痴呆症になることが悲しいのではなくて、痴呆症になってもなお、目の前の現象に合理的な説明をつけようとすることの方が、僕にとっては悲しいことに思える。

その説明は何気なく聞くだけでは「妄想」に聞こえるかもしれないが、その人の過去の経験から演繹された、きわめて合理的な結論になっているはずなのだ。

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2012/07/31

ryoko174の混沌日記「さよなら電力足りる論」の論理的破綻

大いに疑問のあるブログが『ガジェット通信』に取り上げられていたので、逐一反論してみる。

「さよなら電力足りる論」 (rokyo174の混沌日記 2012/07/22)

このブログ記事の結論は、冒頭に書いてある。「『電力足りる論』は明白な誤りです」。

これを証明するのがこのブログ記事の目的のようだが、論理的に破綻している。

(1)無根拠な同一律の主張

まず、「『節電』や『計画停電の準備』を強いられている時点で『電力は足りていません』」とあるが、「節電」や「計画停電の準備」をしているのは電力会社である。

電力会社が「節電」や「計画停電の準備」の根拠にしているのは、電力会社が自ら算出した需給予測である。需要側の数値、供給側の数値、ともに第三者による検証はなされていない。電力会社と異なる試算を出している団体もある。電力会社の試算は信じられないと主張する人々もいる。

電力会社が利益を最大化するために(=燃料費の高い火力発電の比率を上げないために)、原発を再稼働したいと考えるのは経済合理的である。

その経済合理性のため、電力会社には、原発の再稼働が必要であることを説得すべく、真実がどうであるかとは無関係に、需給が逼迫しているという広報活動を行うインセンティブが働く。

その結果、「節電」を呼びかけたり、「計画停電の準備」を行うなどの内容の広報活動を行う。

これら広報活動はあくまで電力会社の経済合理性の追求によるものであり、本当に節電や計画停電が必要なのかとは無関係である。本当に節電や計画停電は必要なのかもしれないし、本当は不要なのかもしれない。それは誰にも分からない。

こんなことは言うまでもないのだが、なぜかこのブロクの筆者は、電力会社の広報の内容が真実であると信じている。これは「原発は安全です」という広報の内容を真実だと信じるのと同じくらい、根拠が薄弱だ。

この筆者は、なぜ自分が電力会社の広報内容を真実だと考えるのか、少なくとも電力会社と利害関係のない第三者による需給予測を使って、その根拠を示す必要がある。

そうしない限り、「電力会社が電力が足りないと行っているから、電力が足りないのです」という、ただの同一律を言っているだけになる。

またこの筆者は、「経済雇用リスクの発生が前提となっている時点で、『電力足りる』論には無理があります。もし本当に『電力が足りていたら』、経済雇用リスクは発生しないのです」と書く。

これも全く同じ理由でまともな反論になっていない。

「原発停止にともなって経済雇用リスクが発生する」という日本エネルギー経済研究所の試算や、各種メディアの報道が真実だと考える根拠が何も書かれていないからだ。

もちろんこういう意見を信じるのは個人の自由だが、それだけでは反対意見(電力は足りているという意見)を論駁できない。

(2)命題の裏も真だとする形式論理学的誤り

また、仮に節電が経済雇用リスクの一因であることを認めるにしても、「本当に『電力が足りていたら』、経済雇用リスクは発生しないのです」と主張するのは、形式論理学的に完全に誤りだ。

これは、形式論理学の基本である。ある命題が真なら、その対偶も真だが、逆と裏は必ずしも真ではない。

つまり「節電がなされれば、経済雇用リスクが発生する」が真であると主張するなら、その対偶、「経済雇用リスクが発生していなければ、節電はなされていない」は真であると主張して構わない。

ところがこの筆者は、「節電がなされていなければ(=電力が足りていれば)、経済雇用リスクは発生しない」という、元の命題の「裏」が真であると主張している。これは形式論理学の基本的なミスだ。

このブロク筆者は、形式論理学の真偽さえ明確に論じられないなら、自らの議論が合理的であると主張すべきではない。

(3)リスクを確率と混同する誤り

さらにこのブロク筆者は、「『原発抜きでも電力は足りる』論が、福島原発事故と同じ『安全神話』に陥っている点も問題です」と書く。

ここでもブログ筆者は関西電力の需給予測を、根拠を示さないまま正しい前提として論じている。

ここでは百歩譲って、関西電力が自らの経済合理性を犠牲にして、完全に公正で正確な需給予測をしているとしよう。

ブログ筆者は、「電力不足は起きない」という「想定の漏れや甘さ」は、「原発は事故を起こさない」という「安全神話」の「想定の漏れや甘さ」と同じであると論じている。

これは誤りである。リスクは不確実性であって、ある事象の発生確率そのものではない。

リスクとは、ある事象の発生確率が高いか低いかではなく、ある事象の発生確率が高いか低いかを、どの程度正確に予測できるかである。

ある事象が起こる確率が0%であれ、50%であれ、100%であれ、ある程度正確に予測できていれば、リスクは低いということになる。逆にその確率が何%なのか、よくわからない、それをリスクが高い状態と呼ぶ。

原発の「安全神話」が問題になっているのは、原発事故の発生確率が実は言われているよりずっと高いから問題になっているのではない。

原発事故の発生確率を正確に予測するのに必要な、電力会社内部の企業統治や、第三者機関による監視体制などが整備されていないから問題になっているのだ。

発生確率を正確に予測するための体制や制度が整備されれば、原発事故の発生確率は言われているよりずっと低いかもしれないではないか。

電力不足が起きる確率についても、それが高いか低いかが問題なのではなく、それを正確に予測するための電力会社内部の企業統治や、第三者機関による監視体制などが整備されていないことが問題になっている。

このように、確率が高いのか低いのかを正確に予測できない状態のことを、本来リスクと呼ぶべきである。

「原発抜きでも電力は足りる」論は、電力会社が自ら試算した需給予測に基づいて、電力不足を主張するという、電力不足の発生確率を正確に計算できないような、現在の企業内統治や社会制度、つまりリスクが存在する状態に対する異議である。

原発の「安全神話」は、それとは正反対で、電力会社が自ら試算した事故発生確率に基づいて、原発の安全性を信じてよいという、現在の電力会社の企業内統治や社会制度、つまりリスクが存在する状態を、それで良しとする意見である。

このブログ筆者が、「原発抜きでも電力は足りる」論を、誤って「安全神話」と同一視しているのは、リスクと確率の区別がついていないためだ。

もう一度書く。

「原発抜きでも電力は足りる」論は、電力会社が自ら試算した数値だけでは正しい予測(この場合は電力不足の発生確率の予測)はできない!という意見である。リスクが存在するので、確率をより正確に計算したいという意見である。

「安全神話」は、電力会社が自ら試算した数値だけで正しい予測(この場合は事故の発生確率の予測)ができる!という意見である。リスクは存在するが、確率はすでに十分正確に計算できているという意見である。

この両者は正反対のことを主張しており、このブログ筆者の言うように、決して同じ落とし穴に陥っているわけではない。

このブログ記事の残りの部分は、関西電力が自ら計算した供給力を根拠にして、電力不足の発生確率が高いと主張するにとどまっている。

つまり、上の2つのうち「安全神話」の方、リスクの存在を許容する意見に組みして、電力会社が自ら試算した数値だけで、すでに十分正しい予測ができるという意見を、さらに展開しているだけである。

よって、これ以上、新たに反論すべき点はない。

以上のように、このブログ記事は少なくとも次の3点で論理的に破綻している。

(1)電力会社の主張を、第三者の主張で根拠付けることなく、真実であると主張することで、同一律に陥っている。

(2)「節電がなされれば、経済雇用リスクが発生する」という命題が真であるという主張から、その命題の裏も真であるという形式論理の誤りを犯している。

(3)リスクと確率を混同した結果、「原発抜きでも電力は足りる」論と「安全神話」を混同してしまっている。

ただし、最後に一つ書いておくと、僕がこのブログ記事全体を誤読している可能性がある。

僕はこのブログ記事を一読して、読者を論理的に説得しようとしていると解釈した。なのでここで論理的な破綻を指摘させて頂いた。

しかし、もしかするとこのブログ記事は、初めから論理性を目指していなかった可能性がある。

論理的に破綻していても構わないので、とにかく、原発を再稼働して電力不足を避けるのが望ましい!!!!!と主張したかっただけかもしれない。

最初から論理性を目指していなかったのだとすれば、僕の誤読になるので、ブロクの筆者の方におわびしたい。

P.S.
僕は上記のブログ記事が形式論理的に破綻していることを指摘したいだけだが、「ではあなたはどう考えるのか」という質問にも答えておく。電力会社に対する第三者のチェックが働くような制度の整備は必須だと考える。それまでは電力会社の主張をそのまま信じるべきではない。ただ、日本社会で本当にそんな第三者機関が実現できるのかについては、かなり悲観的だ。

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2012/07/24

携帯MNPキャッシュバックの名状しがたい「あやしさ」実体験

携帯電話の番号ポータビリティ(MNP)、つまりある携帯電話会社から別の会社ね乗り換えるときの、高額なキャッシュバック広告は本当なのか、じっさいに試してみた。というより、本当にだまされそうになった。

今回はそんなバカな僕の体験談を、恥ずかしげもなく披露してみたい。営業妨害になるかもしれないので、店名はあえて伏せておくが、東京都内の携帯電話販売チェーン店である。

その店舗はウェブサイトやツイッターで、他社からNTTドコモへのMNPは一括42,000円キャッシュバックとうたっている。特定の機種は、MNPの場合、本体一括0円で、さらに42,000円のキャッシュバックと、ツイッターで数時間おきにツイートしている。

最初に書いておくと、こういうツイートに見事にだまされて、のこのこ店舗へ出かける僕は「2ちゃんねる」の住民のみなさんからすると、ただの情報弱者である。単なるアホである。

その前提で、以下を読んでほしい。

上記のツイートを見てじっさいに店舗に行ってみると、まず、その特定機種の本体一括0円が完全なウソであることが分かった。

正確な金額は忘れたが、じっさいは一括払いで約15,000円。キャッシュバックの42,000円から差し引くと、実質的なキャッシュバックは約27,000円になる。

また、それより一括払い本体価格が1,000円安い機種もある、という店員の話だったが、いずれにせよ「一括払い本体価格0円」という機種は実在しなかった。

つまり...

(1)この店舗のツイッターはあきらかに虚偽の情報を流していたことになる。

つぎに「キャッシュバック」だが、これについては恥ずかしながら僕の社会常識がなかっただけで、「バック」されるのは「キャッシュ」ではなくクレジットカード会社の商品券である。

もちろんチケット買取業者で売りさばけば額面の90%以上の現金に換金できるので、「キャッシュ」と言えば「キャッシュ」なのかもしれない。

(2)「キャッシュ」バックは現金ではなく商品券である。

また、この「キャッシュ」バックを受けるには、携帯電話ショップがランダムに選んだ有料サイト(月額利用料315円)15個に登録する必要があり、かつ、その解約は翌月にしてほしいという説明が、契約前にあった。

つまり、315円×15サイト×2か月=9,450円を負担しなければ、「キャッシュ」バックは受けられない。(当月に解約していないか、どうやって確認するのかは別として)

先ほど実質的な「キャッシュ」バックは約27,000円と書いたが、これで約27,000円マイナス9,450円で約18,000円に目減りする。

当然、その有料サイトがどんなサイトか、自分で決めたわけでもないのに、自分の意思で登録したかのように自分の電話番号などの情報を、サイト運営会社にわたすことになる。

(3)「キャッシュ」バックを受けるには、自分で選んだのではない有料サイト15個に2か月間登録する必要がある。

しかも、その商品券は契約後3か月たってから、携帯電話ショップから郵送されてくるということである。

その理由は、店舗いわく「NTTドコモには『3か月縛り』というものがあり、3か月継続して使用していることを確認できないと、キャッシュバックはできない」とのこと。

この「ドコモの3か月縛り」については、耳にタコができそうなほど何度もくりかえし強調された。

(4)「キャッシュ」バックの商品券は、3か月後に郵送されてくる。

さて、この「3か月後」という点について、2つ問題がある。

(4-1)3か月後にこの携帯電話ショップが確実に商品券を郵送してくるという保証はどこにあるのか。

NTTドコモの契約書には、当然そんなことは書かれていないし、たぶん、「3か月後のキャッシュバックを条件に契約」などということは契約書に書けない。キャッシュバックは店舗と僕の純粋な口約束で、具体的なキャッシュバック金額を明記した書類も残らない。

これで3か月後に郵送しますと言われて、何を根拠にその言葉を信じればいいのだろうか。何しろこの携帯電話ショップは、すでに「本体一括0円」という虚偽の広告をツイッターで数時間おきに流していたのだ。

(4-2)次に、3か月後、僕が解約していないという、僕とNTTドコモの間の契約情報を、この携帯電話ショップは、僕からの要求なしにどうやって確認するのか。

携帯電話会社と顧客の間の契約情報は、契約した電話番号そのものを含めて個人情報が含まれるので、顧客と携帯電話会社以外の第三者に開示できないはずだ。

顧客自身が自分の契約情報を確認する場合も、顧客自身の要求がない限り開示されない。

携帯電話各社はインターネットでサポートサイトを開設しているが、そこに顧客が自らユーザIDとパスワードを入力するのは、形式的には顧客自身が要求したという証跡を残すためだ。

つまり、携帯電話会社の立場からすれば、無関係の第三者からの要求に応じる不正な開示はしていない、という証跡を残すためである。

仮にショップと携帯電話会社の間の代理店契約が、顧客の契約情報を共有してよいという内容になっていたとしても、顧客の契約状況を、顧客からの要求にもとづかず、3か月後も自由に確認できるということは、事実上、期限の定めなく、かつ、顧客自身からの要求もなく、この携帯電話ショップは自由に閲覧できることになる。

これは、個人情報の取扱いとして明らかにおかしい。

携帯電話ショップが、あなたの住所や電話番号を、無期限に、ショップの都合で、いつでも閲覧できるということになるからだ。つまり、次のような問題があることになる。

(5)携帯電話ショップにおける顧客の個人情報の取扱いに、違法とは言えないが、個人情報保護法上の疑義がある。

そして、ここまでわざと書かなかったが、以上の「3か月後に商品券で『キャッシュ』バック」という販促手法には、より根本的な問題点がある。

(6)契約をする「前」に「キャッシュ」バックの内容について説明がなかったこと。

最初に書いたように、僕は2ちゃんねる的には「情報弱者」なので、「キャッシュバック」の内容を確認せず、いつもスマートフォンや携帯電話を契約するのと同じ感覚で、NTTドコモの契約書に記入・署名をした。

そして、1時間後にまたご来店くださいという言葉どおり、店舗近くのレストランで時間をつぶしていた。携帯電話を契約するときにはいつものことだ。

だが、やはり「本体一括0円」の機種が実在しなかったことが気になり、「本体一括0円」の機種がないかを確認するため、改めてレストランから店舗に電話をかけた。

その話のなかで、実は「キャッシュ」バックが現金ではなく商品券だという説明があった。

こちらの想定と違うので、いったん契約手続を止めてほしいと言い、すぐに店舗をおとずれ、いろいろ説明を受けるなかで、商品券の郵送は3か月後だと、この時点ではじめて説明があった。

僕がレストランから電話をかけなければ、「キャッシュ」バックが商品券で、かつ、郵送が3か月後だという説明を受けないまま、MNP契約は完了していたことになる。

そして「本体一括0円」の機種が存在しないことの説明はつじつまが合っていなかった。店員いわく「キャッシュバック金額の方が本体価格より大きいので、実質0円ということです」とのこと。

いやいや、そういう理由で「本体一括0円」と表記するなら、正しくは「本体一括マイナス18,000円」と書くべきだろう。

まあこれはどうでもいいとして、広告でうたっている最も重要な取引条件である「キャッシュ」バックの具体的な内容、つまり、現金ではなく商品券であること、そして、3か月後にはじめて郵送されるということについて、契約書に記入・署名する「前」にまったく説明がなかったのだ。

これは契約手続としては、かなり悪質と言わざるをえない。

仮に携帯電話ショップが、「契約前に説明しないことは悪質でない」と主張するなら、そもそも「キャッシュ」バックという販促手法そのものが悪質である事実を認めたことになる。つまり、後ろめたいことをやっているので、契約前に説明できない、と認めることになる。

さて、お話はこれで終わらない。

僕がレストランからあわてて店舗にもどり、想定と違うので契約をやめると言い出したところ、なんと携帯電話ショップの店員は「キャッシュ」バックの条件をつり上げ始めたのだ。

まず、登録の必要な有料サイトを15個から10個に減らし、かつ「キャッシュ」バックと本体との差し引き金額約28,000円を、「切りがいいから」30,000円にする。これで実質約5,000円、「キャッシュ」バックが増える。

そして、僕がいまドコモの直営店でも(2012/07/31までの期間限定だが)MNP契約で20,000円のキャッシュバックをしているので、直営店の信頼性に比べると、ここで契約するメリットがそれほどないと話した。

その店員は、驚くべきことに、直営店でのキャッシュバック・キャンペーンのことを知らなかった。NTTドコモの公式サイトにも「チェンジ割」として正々堂々と書いてあるにもかかわらず、である。もっとも、知らないふりをしていただけかもしれないが。

キャンペーン・イベント情報「月々サポート」「チェンジ割」 (NTTドコモ公式サイト ※キャンペーン期間は2012/07/31まで)

すると店員は、カウンターの裏にまわって上司に掛け合い(あるいはそのふりをして)、さらに有利な条件を出してきた。

登録の必要な有料サイトを10個から15個にもどす代わりに、「キャッシュ」バックと本体との差し引き金額約28,000円を40,000円にするという。これでさらに実質5,000円増え、最初の条件に比べると約10,000円有利な条件になる。

そして、店員いわく「正直これでは赤字になりますので、他のお客さんの利益で穴埋めするようなかたちでギリギリ提示させて頂いています」。

僕はこの携帯電話ショップがまったく信用できなくなったので、契約をやめて帰ってきた。

MNPの予約番号は取ってしまっているので、ドコモかauの直営店、あるいは家電量販店で、無難に乗りかえようと考えている。

あの携帯電話ショップ、僕の個人情報は責任をもってシュレッダーしておきますと言っていたが、名簿業者に売りさばかれる前にシュレッダーしてもらえるのか、やや心配だ。

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2012/06/11

大阪繁華街の通り魔事件にみる「尊厳死施設」の必要性

2012/06/10、大阪の繁華街の通り魔事件で2人が亡くなった事件。

この種の無差別殺人の発生率は、日本は決して高くないので、今回の事件が起こったからといって、日本社会で新しい議論が起こる、ということはないだろう。

通り魔事件の容疑者の背景

ただ、僕個人としては、ふたたび「尊厳死施設」について考えずにはいられない。

たとえば2012/06/11のNHKニュースによれば、容疑者(といっても現行犯逮捕なので犯人と言っても差し支えないだろうが)は警察の調べに対し、次のように語っているらしい。

「自殺しようと思ったが死にきれず、人を殺せば死刑になると思った。誰でもよかった」

「先月下旬に服役していた新潟刑務所を出たあと、住む家も仕事もなかった。通帳に最後に残っていた20万円を引き出したところで、『もうこれだけしかないのか』と生きる意欲を失い、自殺を考えるようになった」

また、同日の読売新聞には、大阪府知事の報道陣向けコメントが掲載されている。

『死にたい』と言うんだったら自分で死ねよと(言いたい)。人を巻き込まずに自己完結してほしい

また、府が自殺予防対策を行う立場だが、知事は「(容疑者が必要とするなら)相談窓口に来ればいいし、『行政の支援を受けたくない、この世からいなくなりたい』と言うなら止め用がない」と述べている。

同日の毎日新聞には、容疑者の経歴も書かれている。

礒飛容疑者は栃木県那須塩原市などで育った。

親族の女性によると、父親が同市内で材木店を営み、裕福な家庭だった。3人兄弟の末っ子で、両親や親戚から特に可愛がられていたという。(略)

しかし、礒飛容疑者が小学生の時、母親が病気で死亡。父親も経営していた材木店を廃業し、生活は急変した。その後、父親の新しい勤め先に近い同県下野市に転居した。

中学時代の知人男性によると、礒飛容疑者は高校には進まなかった。地元の暴走族に入り、バイクで暴れ回るようになった。

次第に薬物に手を染めて逮捕されるなど、荒れた生活を送っていたという。

この経歴を読み、今回の通り魔犯行の直前まで、「覚醒剤取締法違反罪で新潟刑務所に服役し、5月下旬に出所した後、本籍地の栃木県内にしばらくいた」(産経新聞)ことからすると、容疑者は完全にこの社会に居場所を失っていたことは明らかだ。

容疑者はたぶん、社会制度について十分な知識もなく、刑務所生活が長ければ、「死にたい」と思ったときに「死刑」という短絡的な発想しかできなかったのだろう。

「死刑」になるためには他人を巻きぞえにしても仕方ないと考え、犯行に至ったのは、この容疑者が要するに頭が悪かったからだ。

自殺か、死刑になる犯罪かの、二者択一は倫理的か?

こういう事件を見るにつけて、もしも合法的な公営の「尊厳死施設」あるいは「安楽死施設」、つまり自分の意思で自殺ができる施設があれば、亡くなった2人が巻き添えにならずにすんだのにと、真剣に考えてしまう。

この容疑者のように、完全に社会からはじき出され、生計を立てる手段もなく、生きつづける意思も失っている人間に対して、十分な予算をつけて自殺予防対策も講じないし、自殺を合法的に幇助することもしない。

こういう社会制度では、社会から決定的に排除された人間に、自殺するか、死刑になるような犯罪をするかの、二者択一を迫っているのと同じようなものだ。

これでは、容疑者と似たような立場におちいった人間のうち、一定の人数が、「死刑が確実な犯罪をする」のを選ぶことは避けられない。だって、「自殺」と「死刑」以外の、第三の選択肢がないのだから。

僕は、これは明らかに社会制度の不備だと考える。

合法的な自殺幇助、つまり「安楽死施設」は、今回のような通り魔事件という最悪の結果を避けるために、制度として必要なものではないだろうか。

ただし、自殺幇助を処罰しないように刑法を変えるだけでは、それはそれで、自殺幇助に見せかけた殺人が続々と起こる結果になる。

したがって、「尊厳死施設」あるいは「安楽死施設」を、国が責任をもって運営するための法律を、刑法とは別に制定するのが望ましい。位置づけとしては厚労省の管轄だろう。

たとえば、憲法第二十五条の生存権は、本人が生存を望んでいる限りにおいて、さまざまな法制度によって守られるべきだが、本人が生存を望んでいない場合は、逆に尊厳死や安楽死を選べるようにすべきだと、僕は考える。

本人が生存を望んでいない場合は、主権者である国民の代表者が運営する、つまり国務大臣配下の省庁が運営する施設が、その自殺を幇助することは、違憲ではない(したがって刑法にも違反しない)、という法解釈ができないのだろうか。

生活保護制度と「尊厳死施設」

ところで、先日のお笑い芸人の問題をきっかけに、生活保護制度を見直そうという機運が高まっている。

不正受給は論外として、本当に生活保護が「最後の手段」になっている人たちの中には、「生活保護を受給してまで生きつづけたくない」と思っている人も、いくらかの割合でいるはずだ。

そういう人たちを、憲法の定める生存権にもとづいて、本人の意思に反して無理やり生き続けさせることが、はたして倫理的なのか。

現状、「尊厳死」あるいは「安楽死」が認められる状況は、あまりに限定されすぎている。

病気や事故で、医学的に打つ手がなくなった場合にしか認められておらず、その場合でも極めて慎重に判断される。

もちろん「尊厳死」にさえ反対している人たちもいる。

そもそも生命というものは、人間が作る社会制度の枠内におさまらないものだという倫理的な考え方も、僕には理解はできる。

ただし、それを言うなら、いくらコストがかかってでも、あらゆる人間が一秒でも長生きすることを「強制」するような社会制度を作るべきだが、果たしてそんな高コストな社会制度は現実的だろうか。

とくに人間自身が、世界中で自分たちの生きる環境をさまざまな方法で破壊せざるを得ないような状況が不可避であるような現実において。

人間は神のように全知全能ではない。

その人間が作る社会制度は、残念ながら、今回の通り魔事件の容疑者を含め、すべての人間が幸福に暮らせるようにすることは、原理的に不可能である。

であれば、人間は自分たちが全知全能ではないことを認めて、自分たちが作っている不完全な社会制度からの「出口」を用意するのが、不完全な存在としての、ある種の倫理的立場とは言えないだろうか。

つまり、こういうことだ。

われわれ人間には、完全な社会などそもそも作れません。なので、そんな不完全な社会ではどうしても生きていけないとなったら、無理に生き続けろとは言いません。自分の意思でこの「出口」から出ていくこともできますよ。

それが、僕のイメージする「尊厳死施設」あるいは「安楽死施設」である。

もし「尊厳死施設」が実際にできたら

この「尊厳死施設」の最大のメリットは、日本政府に本気で「尊厳死施設」へ行く人間を減らそうという動機づけを与えられる点にある。

現状、すでに日本では毎年3万人が自殺している。これは記録の上で公式に自殺と認定された人数なので、現実にはその数倍が自殺しているはずだ。

また、警視庁の統計によれば、3万人のうち約4分の1が被雇用者である。2011年の自殺者32,155人中、「無職者」は18,074人、「被雇用者・勤め人」は8,207人となっている。

国営の「尊厳死施設」を作れば、被雇用者が無職者になる前の段階で「尊厳死」を選ぶ可能性が高くなるので、労働人口が毎年10万人単位で、コンスタントに減るはずだ。

これは、当然の帰結として、日本社会の少子化にさらに拍車をかけることになる。

警視庁による2011年の自殺者の年齢構成を見ると、幸福な人生を送っていれば、子供を持ったかもしれない、20歳~39歳の男女は計7,759人。自殺者全体の約4分の1を占める。

「尊厳死施設」を利用するのに、たとえば未成年は利用を禁止するなどの年齢制限をするとしても、日本社会の労働力の数パーセントが、毎年「尊厳死施設」で安らかに死んでいくという事態は、ムリのある想定とは言えない。

日本社会の「生きづらさ」は、「尊厳死施設」を作ることで、労働人口の減少という結果をダイレクトに産みだすだろう。

合理的に考えれば、こうなることが分かっているのに、今回の通り魔事件の容疑者のように、完全に社会に居場所がなくなった人間を放置するのは、容疑者個人の問題というよりも、明らかに日本社会の制度上の欠陥である。

その対策はおそらく三つある。

一つめは、たとえ前科者であっても、あるいは社会に適応できない人間であっても、社会から完全には排除されないように、社会の包摂性を上げる何らかの制度を作ること。

二つめは、社会から完全に排除された人間が、安心して社会から退場できる「出口」を作ること。つまり「尊厳死施設」を建設すること。

三つめは、何もしないこと。

ただ、残念ながら一つめの「社会の包摂性を上げる」ことは、少なくとも今の日本社会を見ている限り不可能だと思われる。その典型が、先日のお笑い芸人の生活保護受給問題に対する世論の反応だ。

これだけ社会の許容度が下がっている状態で、社会の包摂性を上げるような制度改革などできるわけがない。

したがって、後者の「出口」を作る対策、つまり国営の「尊厳死施設」を作って、社会から完全に排除された人間が、自由意思で、苦痛なく自殺できるようにするのが、唯一の有効な対策になる。

言うまでもなく、現実の日本社会は、三つめの「何もしない」ことを選択している。

その結果が、秋葉原の無差別殺人だったり、今回の通り魔事件のように、無関係の第三者を巻きこんだ一種の「無理心中」である。

個人的には、国営の「尊厳死施設」については、早めに検討を始めた方がいいと考える。

少子高齢化と家族の解体、地方の高齢化などで、いったん社会から排除された人間を、一定水準の生活に復帰させるためのセーフティーネットは、年々失われていく。

すると、今回のような無関係の第三者を巻き添えにする「無理心中」は、老々介護の心中など、肉親どうしの「無理心中」とともに、少しずつ増えていくはずだ。

生き続けたい人たちの生存権を守るためにも、生き続けたくない人たちの「尊厳死」「安楽死」権を制度的に確立することが、そろそろ人間社会には必要なのではないか。

そうでなくても、人間社会は、地球規模で考えると、確実に緩慢な自殺をすでに選択しているのだから。

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2012/06/04

生活保護受給者嫌いの皆さんは「自殺パーラー」設立運動でもいかが

お笑い芸人の親族が生活保護を受給していたことについて、自民党の片山さつき議員を含め、ネット上で多くの人が彼に集中砲火を浴びせるように非難している。

お笑い芸人と違って、片山さつきは富裕層の子女だが、国民の税金から議員一人あたり年間数千万円の政党交付金を受けとっている。

にもかかわらず、年間たった100万円強の生活保護を受けている、収入の不安定な芸人が集中砲火を浴び、裕福な国会議員は拍手喝采をうけるのだから、何かがおかしい、としか言いようがない。

それでも、あえて言えば、富裕層である国会議員に拍手喝采し、お笑い芸人に集中砲火を浴びせている人たちの議論は中途半端だ。

自分たちの税金に「寄生」している生活保護受給者が、そんなに憎いのであれば、まず各自治体の福祉事務所の職員を増員し、受給者を徹底的に再審査するよう働きかけるべきだろう。

さらに議論を進めて、反生活保護論者のみなさんは、生活保護が必要なほどの困窮におちいった人が、すすんで自殺したくなるような法制度を提案してはいかがだろうか。

生活保護の受給者のうち、不正受給は多く見積もっても数パーセントらしい。その数パーセントのために、生活保護のかたちで税金に「寄生」している奴らは全員気にくわないというなら、生活保護受給者を合法的に「抹殺」する制度を考えればよい。

そこまでやってこそ、片山さつきに拍手喝采する資格があるというものだ。

では、生活保護受給者を合法的に自殺に追いつめるにはどんな方法があるか。それは、僕が以前からこのブログで提案している「尊厳死施設」だ。

もともとのアイデアは、カート・ヴォネガット・ジュニアという小説家の「自殺パーラー」。要するに、死にたくなったらいつでも安楽死しに行ける施設のことだ。

もちろん苦痛をともなう方法では誰も利用しないので、最新鋭の医療技術を駆使し、たとえば睡眠薬で深く眠っているうちに薬物を静脈注射する等々、苦痛がほとんどない方法で死ねるようにする必要がある。

この「尊厳死施設」あるいは「自殺パーラー」の素晴らしいところは、生活保護だけでなく、あらゆる社会福祉費用を大幅に削減できる点にある。片山さつきも大喜びだろう。

たとえば交通事故にあって大けがをし、後遺症が残り、働く意思はあるのにどこも雇ってもらえないが、障害者手帳の交付をうけられるほどの後遺症でもない。

こういう人は、本人に非はなく、運悪く交通事故に巻き込まれただけなのに、生活保護を受給せざるを得ない状況にある。

しかし片山さつきは、こういう人にもリハビリと職業訓練をほどこし、ムチ打って「働け」と言うに違いない。少なくとも片山さつきのおかげで、こういう人も生活保護を受給しづらい「空気」ができた。実に片山さつきは偉大な政治家だ。

その他、学校を卒業したが定職につけない人たち、さまざまな理由で失業し、失業給付も切れたが再就職できずにいる人たち。そういった生活困窮者は、何らかのかたちで税金に「寄生」しなければ生活できない。

お笑い芸人を叩いている人たちが、こういう「国民の血税にたかる」ような人たちを心から憎んでいるのなら、彼らの人生に終止符を打つために「尊厳死施設」あるいは「自殺パーラー」の設置運動を起こせばよい。

一つ断っておくと、中には「どうぜ殺すなら、自衛隊に強制入隊させるか、福島第一原発の高放射線区域に強制的に送り込めばいい」と言う人もいるだろう。

しかし、強制労働は国際条約違反ということもあるが、そもそも本人の意思に沿わないことを強制する制度には、外部コストがかかる。脱走者も出るし、無用な巻き添えをくう市民も出てくる。本人が自発的に選択するような制度の方が、結果的にはコストは低くおさえられる。

この「尊厳死施設」は、高齢者や障害者の介護の問題にも適用できる。

自分の親が介護の必要な状態になったが、国の制度では十分な介護がうけられず、民間の介護施設を利用できる収入がない。それで介護のために仕事を辞めざるをえず、困窮生活におちいってしまう人。

あるいは、自分自身がすでに高齢者で、さらに寝たきりになっている自分の親の介護をしている「老老介護」のケース。

あるいは、体やこころの障害をもつ近親者の介助をするために、十分な収入のある仕事につけないでいる人たち。

あのお笑い芸人を叩いている人たちは、こういう人たちが「血税にたかる」のも許せないはずだ。少なくとも片山さつきは、こういう人たちも自助努力すべしと言うだろう。

であれば、こういう人たちが、苦痛なく死を選ぶことができる「尊厳死施設」を作るように働きかければいい。介護している側の人間がいなくなれば、介護されている側は放置され、自然に餓死することになる。

さらに「尊厳死施設」を利用する可能性のある人たちといえば、刑期を終えても社会復帰が難しい犯罪者だろうか。また、えん罪ではない死刑囚もそうだろう。執行日の朝に突然知らされるくらいなら、自分の意思で死にたいと思うはずだ。

このように、「尊厳死施設」あるいは「自殺パーラー」を、各都道府県に一つ設置すれば、その建設費や維持費を十分まかなえるだけの、大幅な財政支出の削減ができる。橋下大阪市長も大喜びの施策ではないだろうか。

あのお笑い芸人に集中砲火を浴びせ、片山さつきに拍手喝采するのであれば、ここまで徹底した提案をすべきである。「血税にたかる」人間を許さないなら、中途半端な慈悲心など持つべきではない。

徹底した新自由主義者として、冷酷非情に、社会的弱者をいかに速やかに、かつ、効率的に、かつ、自発的に死んでもらうか、具体的な提案を出すべきだ。

もちろん、「尊厳死施設」が実現し、現時点の貧困層がつぎつぎに自殺を選ぶと、残った人口の中で経済格差が生まれるので、「尊厳死施設」で自殺を選ぶ貧困層が新たに生じる。

そうやって、日本の経済と国力は全体として衰退する。

橋下大阪市長が以前、とある講演会で日本の人口は6,000万人から7,000万人が適切だと語ったらしいが、「尊厳死施設」は人口オーナスを人為的に加速し、子供を生む可能性のある年齢層の人口も減らすので、人口はより加速度的に減るだろう。

ここまで思い切った提案ができないなら、中途半端な芸人いじめなど最初からすべきではない。

僕は、芸人いじめをしている人々は、実は自分たち自身が、いつ生活保護の受給者に転落するか分からない不安と戦っているのではないかと想像している。

というのは、安定した収入があり、現状の税負担に大きな不満もない人たちが、たかがお笑い芸人の一人や二人を罵倒することに労力を使うだろうか、と思うからだ。

賢明な生き方をしている人たちなら、たかがお笑い芸人を罵倒する時間があれば、その時間を自己啓発や自分の生活を豊かにする再生産活動のために使うはずだ。

それができないということは、実はあのお笑い芸人を叩いている人たち自身が、精神的に余裕のない、リスクの高い生活を送っているのではないか。

...というようなことを書いていると、暗澹たる気分になってくる。日本がこんな殺伐とした社会になったのは、いつからだろうか。

(※無用な誤解をうけるとイヤなので、最後にいちおう書いておくが、上記の文章は当然のことながら全体として皮肉として書いている)

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2012/05/31

絶望しつつ、否応なくやってくる明日をただやり過ごすこと

村上春樹『1Q84』を読み終えたあと、ツイッターで「この一応のハッピーエンドが与えようとしている希望のようなものに比べ、40歳を過ぎた僕の抱えている絶望が深すぎる」とツイートした。

すると、あるフォロワーさんから、何故そこまで絶望しているのですか、という質問があった。とても140文字では書けないので、ここで回答してみる。

そもそも、希望に満ちて生きることに比べると、絶望することはずっと簡単だし、絶望するのにそれほど大きな理由はいらない。絶望というのは、人が思うよりずっと身近なものだ。

希望に満ちた生活を送りつづけるには、忍耐強く地道な努力と、それに耐えうる才能と体力が必要だ。

それに比べると、僕のように四十歳を過ぎ、才能や体力の限界がすでに見えている人々にとって、絶望するのはとてもかんたんだ。

四十歳を過ぎてから新しいことを始めても、同じことを二十歳で始める人たちの方がはるかに上達が早い。

インターネットの普及による、情報の流れの変化も背景にあるだろう。

無名の一般人がいかにすぐれた能力を持っているか、昔なら個人的に知り合いでないかぎり知ることができなかった。

でも今は、インターネットの動画サイトやイラスト投稿サイトなどを見れば、無名の一般人でも楽器のうまい人、歌のうまい人、ダンスのうまい人、画力のある人などが無数にいることがわかる。

趣味なんて自分が楽しめればそれでいい、と言われるかもしれないが、自分がやらなくても、もっとうまくやる人がたくさんいる、と気づくことは、一つの絶望になりうる。

趣味ではなく、仕事に希望を見いだすことはさらに難しいだろう。

まず、世の中のほとんどの人は、やりたいと思った仕事に就けず、雇われ人になっている。雇われ人としての仕事は、本質的に他の誰かと入れ換え可能であり、生活のために時間を売っているだけだ。

雇われ人としての仕事で、昇進や昇給に希望を感じている人は、自分が本質的に入れ替え可能な存在になってしまっていることに気づいていないだけである。

雇われ人として終わるのでなく、自分で会社を起こすだけの才能や体力のある人は、希望を感じる資格がある。しかしそういう人は少数派だ。

そういうわけで、むしろ希望に満ちた生活より、絶望のうちの生活の方が、多くの人にとってより身近なものである。そう感じない人がいるとすれば、満足水準が低すぎるか、多くのことが見えていないだけだろう。

ただし、絶望していることと、生きつづけるかどうかということに、直接の関係はない。

病気で余命数か月と宣言されても、希望に満ちた人生を生きられる人はいるだろうし、健康そのものでも絶望のうちに生きている人もいるだろう。

絶望していても、とりあえず明日は来てしまう。イヤでも明日は来てしまう。

生きつづけるのに十分な気力や能力、体力がなければ、そのうち物理的に生活できなくなり、体をこわすか、飢えるかして死ぬだろう。そうなるのが分かっていて、あらかじめ自分で命を断つ人もいるだろう。

希望に満ちているのに、物理的に生活する手段を奪われているために、失意のうちに死んでいく人もいるだろう。

このように、絶望していることと、生きつづけることは、たがいに独立した二つのことがらである。

そして、希望に満ちていることが良く、絶望していることが悪いと、単純に言い切ることもできない。

たとえば、独裁国家のリーダーは希望に満ちた人生を送っているかもしれないが、それは良いことだろうか。

逆に、貧しく悲惨な人生に絶望している人に対して、そういう人生は悪いと言う権利が、いったい誰にあるだろうか。

「良い」「悪い」といった価値判断は、はたから見ている人の判断にすぎない。現に希望に満ちて生きている人や、絶望しつつ生きている人たち自身が、そんな自分の人生をどう考えているかとは、まったく関係ない。

なので、絶望しつつ、否応なくやってくる明日をただやり過ごすことが、無条件に望ましくない状態とは言えないし、まして「悪い」状態などとは言えない。

くり返しになるが、四十歳を過ぎると、絶望が「良い」ことであれ「悪い」ことであれ、それ以外のものをもはや選ぶことができないのだ。

「これからあなたはゆるやかに死に向かう準備をなさらなくてはなりません。これから先、生きることだけに多くの力を割いてしまうと、うまく死ぬることができなくなります。少しずつシフトを変えていかなくてはなりません。生きることと死ぬることとは、ある意味では等価なのです、ドクター」(村上春樹『神の子どもたちはみな踊る』)

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2012/05/21

宇宙的な時間枠では、人間は生きていると言いがたい

今日は金環日蝕ということで、会社が自社ビルの屋上を定時の1時間半前から特別に開放するという通知が以前から出ていた。

会社の付き合いだけならさらさら行く気はなかったが、自宅の窓やベランダよりはるかに高くて観察に向いていることは明らかだし、いつも会社には定時の20分前に着くので、少し早起きすればいいだけだ。

そういうわけで先週買っておいた観察用フィルムをもって屋上で、すでに金環日蝕の終わった日蝕を観察した。金環日蝕は7時台にすでに終わっていたが、朝一番に来てしっかり観察した人もいたらしい。

日本の広い範囲で金環日蝕が観察できる状態は、100年単位でしか実現しないらしい。

去年の福島第一原発事故の後、放射性物質の半減期ということを何度も聞かされて考えたことだが、例えば放射性セシウムが人間にまったく害を及ぼさなくなるまで、数百年の単位で時間を俯瞰すると、ほとんどの人間は存在しないことになる。

というのは、数百年のスパンで見ると、ほとんどの人間はその間に生まれて死んで行き、その時間枠の両端に引っかからないからだ。

宇宙のもっと長い時間枠で考えると、人間は生きているのかどうかさえ分からないくらい、一瞬にして生まれて死んでしまう。

太陽が空の同じ位置に戻ってくるまでを1日とし、それを86,400に分けた1秒を、ふつうの生活の最小の時間単位として生きるルールにしたのは、まったく人間の主観的な都合にすぎない。(特殊な仕事をしている人たちや、アスリートは、さらに細かい単位の時間に生きているけれど)

人間として生きていて、一生がイヤに長く感じるのは、わざわざそうやって時間を小刻みにしているからだけのことだ。宇宙的な時間の尺度で見れば、すべての人間はほとんど生きているとさえ言えない。

生きているとさえ言えないような一瞬の時間について、なぜここまでわずらわしい思いをしなければいけないのか。それが最大の謎だ。

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2012/05/18

「ゆる~い」テツガク的なもの、例えば「断捨離」のような

いつものように日経ビジネスオンラインの小田嶋隆氏のコラムを読んでいたら、画面右側の広告枠に大きく「断捨離」の文字があったので、思わずクリックしてしまった。

トップページを見ても意味不明なので、下記のページでメールマガジンのバックナンバーをいくつか読んでみた。

『新着情報 断捨離 やましたひでこ公式サイト』

書かれてあることは、とてもまともだ。

僕は「断捨離」というのは単なる「片付け術」だと思っていたが、メールマガジンには、「質問の中にちゃんと【答え】がある」とか、「他人は自分の心を映す鏡である」とか、とてもテツガク的なことが書いてある。

問題は、多くの日本の大人が、こういうごく基本的なテツガク的知識を教育されないまま、大人になっていることにある。

「断捨離」のメールマガジンに書いてあるようなことは、たとえば岩波文庫の「青」シリーズから、西洋哲学の古典とされるものをいくつか読めば書いてある。

西洋哲学の例をあげたのは、僕が個人的に西洋哲学以外の哲学に詳しくないからだけで、きっと、仏教やイスラム教などの哲学書にも、同じようなことが書いてあるはずだ。

古代以来のさまざまな哲学思想は、人類にとって貴重な財産だ。大人になる前に、それらにひととおりふれておくことは、生きるための基本的な「技術」を身につけることである。

哲学の実際的な効用は、「断捨離」のメールマガジンで書かれている「俯瞰」の視点を身につけられることだ。

僕が学んでいた西洋哲学のことばを使えば、自分がじっさいに生きているこの世界での、さまざまな体験、感覚、知覚、判断、意見などなどを、すべていったん「かっこに入れる」ことだ。

常識的にどう考えても「悪」であることも、いったん「善」か「悪」かの判断をやめる。個人的に腹立たしい出来事も、いったん個人的な怒りの感情を留保する。その出来事そのものをよくよく観察してみる、などなど。

そうすると、「かっこに入れた」自分の体験、感覚、知覚、判断、意見などを、まるで他人の視点から見ているかのように、見つめなおすことができる。

ただし、その「他人の視点」というのは、「客観的」な視点ではない。一人の人間はどこまで行ってもほんとうに「客観的」な視点など手に入れられない。

せいぜい、無数の可能性を考えてみることで、だんだんとほんとうの「客観性」に近づくことができるだけだ。誰もほんとうの「客観性」を主張することはできない。

あらゆる個人的な「考え」を、かたっぱしから「かっこに入れる」ことで、自分の考えに明らかに限界があることを知る。そしてある種の「あきらめ」の境地に達した後、またふつうの日常生活にもどってくる。

こういった思考の訓練が、哲学の実際的な効用だ。

その結果、必ずしもまともな大人になれるとは限らない。しかし、少なくとも「自分はまともではない」ということを自覚をしつつ「まともでない大人」になることができる。「自分はまともだ」と信じ込んでいる「まともでない大人」ほど、やっかいな存在はない。

「断捨離」について僕が危ないと思うのは、次のような点だ。

大人になる前なら、そうした哲学的な思考の訓練をくりかえすことで、個人的な「考え」をほんとうに「かっこに入れる」ことができる。

しかし、大人になるまでその訓練を一度もしたことのない人が、大人になってから「断捨離」のような「ゆる~い」テツガク的なものに触れると、間違った使い方をしてしまうおそれがある、という点だ。

この「ゆる~い」テツガク的なものには、「断捨離」だけではなく、テレビのバラエティー番組に登場する占い師や僧侶の言葉もふくまれる。

間違った使い方とは、本来は自分の個人的な「考え」を徹底して「かっこに入れる」べきであるのに、逆に、自分の個人的な「考え」を正当化するために、それらのテツガク的なものを利用する、ということだ。

ほんとうの哲学が、個人的な「考え」を徹底して「かっこに入れ」ていくと、その果てにあるのは、自分が現実に生きているということさえ疑わしくなるような、一歩間違えば、自殺したくなるほどの絶望のとなりにある場所だ。

しかし、「断捨離」のようなテツガク的なものは、そこまで厳しくない。とても「ゆる~い」。自分が生きているという事実まで疑わせるようなところまで、人を追いつめない。

それは当然と言えば当然だ。「断捨離」にしても、テレビのバラエティー番組で語る占い師や僧侶にしても、基本的に聞く人たちを安心させるために語っている。

「なるほどそういうことか」「肩の荷が下りた」「楽になりました」などなど、そういう反応を期待して、彼らは語ったり書いたりしている。

でも、ほんとうの哲学は容赦ない。読者を安心させることが目的ではない。かんたんに答えを与えてくれない。永遠に解答を与えられない質問の中に、読者を放り込んだままにする。安易ななぐさめはない。

ただ、そうした哲学を大人になるまでに教養として学ぶことで、そうした救いようのない深淵が、自分が生きている現実のすぐとなりに、黒々と口を開けていることを前もって体験できる。

その深淵を前にすると、「ゆる~い」テツガク的な考えを利用して自分の個人的な「考え」を正当化し、安心すること、肩の荷をおろすこと、楽になることが、単なるごまかしであることがわかる。

もし「断捨離」がほんものの哲学なら、かならず「断捨離」は最終的に「断捨離」そのものを否定するところまで行く。または、何らかの「神さま」のようなもので自分を根拠づけるところまで行く。哲学の言葉でいえば、かならずどこかで「無限」にふれる。

しかし「断捨離」はそうなっていない。

「モノへの執着を捨てるが最大のコンセプト」「心もストレスから解放されてスッキリする」など、テツガク的な見かけをしているけれども、人々に安心を与えることが目的で、答えのない問題を考えさせることはない。

テツガク的な見かけをしたもので、人々は安心を得る。少し考えを変えるだけで、自分は正しく考えられるようになったと、自信を得る。

一方、ほんとうの哲学は、永遠に答えのでない問いを、死ぬまで問いつづけなければいけない。自分自身をかんたんに肯定することなどできない。

「断捨離」のようなテツガク的な見かけをしたものに熱心になるのは、もちろん人それぞれの自由だけれど、それが正しい答えを与えてくれるわけでもないし、それによってほんとうに「俯瞰」的な見方を得られるわけでもない。

一時的ななぐさめに過ぎないし、ともすると、まったく根拠のない自信をもつ、やっかいな人になってしまう危険がある。

不要なものを片付けているつもりで、じっさいにはタンスにあったものをクローゼットに移し、クローゼットにあったものを押入れに移し、押入れにあったものをタンスに移し、結局、モノの配置が変わっただけで、まったく片付いていない、というハメになるかもしれない。(これは村上春樹の小説『1Q84』の中に出てくる表現を借りている)

ストレスから解放されるつもりで、じっさいには無意味にモノの配置を入れ替えているだけで、ストレスを維持しているだけになっているかもしれない。

この種の「ゆる~い」テツガク的なものを、単なる生活の知恵だと割り切ることができず、そこに何か深い思想のようなものを見てしまう人は、できるだけ早く遠ざかるべきだ。

自分で自分を凝り固まった考え方に「洗脳」し、わざわざ視野を狭くするようなものだから。

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